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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

「能力」の攪拌と『障害者』の解放 能力回転主義宣言

人の、および市民の権利宣言

第1条 人は自由で、権利において平等なものとして生まれて生きつづける。社会的に区別できるのは、共同の利益にもとづいてのみである。

第6条 (前略)およそ、市民は、法律の目には平等であるのだから、その能力にしたがい、その徳性と才能以外の区別をすることなく、等しく、あらゆる公的な高位、地位、職位への資格がある。*1

一、われらは、健全者文明を否定する。(日本脳性マヒ者協会青い芝の会『綱領』)

ーーどうやって?

【目次】

【本稿の目的】

 「能力」という概念の攪拌を通じたあらゆる『障害者』の解放プロセスを加速させること。

【まえがき】

 3点、予め断っておく。
 1点目は、本稿は長期的な話であり、狭義の「障害者」のためのアイデンティティ・ポリティクスに限定した議論ではないということ。つまり2021年時点での「能力」の基準、価値体系、権力分布、社会秩序などを前提に「障害者」をエンパワーメントするための短期的な方策を探る類の試みではない。アカデミックな「障害学」とも全く違う。
 2点目は、だからと言ってそれらの喫緊の課題への取り組みを軽視する意図も全く無いということ。理念として認められている度合いと現実社会での徹底の度合いが異なる規範は数多い。そして多くの人が現実を理念に合わせるために日夜闘っている。障害者運動、そしてあらゆる領域におけるマイノリティの運動や漸進的な社会改革の努力に対して、私は心から敬意を表する。
 3点目は、本稿は数百年の間読み継がれることを前提にしており、善悪の価値判断は専ら『障害者』の解放という目的に資するか否かという基準のみに基づいている。そのため本稿執筆時点(2021年1月20日現在の日本)における一般的な倫理観とは乖離している部分も多い。しかし私の力点は、こういった本稿と同時代に存在している規範や秩序や特定の人々に対する挑戦・非難にあるのではない、ということを強く申し上げておく。

【『障害者』の本稿での定義】

 まず本稿における『障害者』や『障害』という言葉を定義しておきたい。
 「障害」の捉え方として社会モデルと医学モデルがあるが、これはある特定の社会のある特定の時点において、ある行為ができない原因を社会と個人のどちらに帰責するかの違いでしかない。その違いは、確かに2021年の日本社会の枠組みの中では極めて重要である。だが本稿ではより長期的な視点で論じるため、その対立は枝葉末節となる。
 そもそも障害者とはどういった者だろうか。まず狭義の意味と広義の意味に分けるところから始めねばならない。
 狭義の意味においては、私のような「脳性麻痺者」「身体障害者」「発達障害者」、そういった、ある特定の社会のある特定の時点で「障害者」と認定されている者だ、としか言いようがない*2。当然私も「障害者」の一員であり、「身体障害者」および「発達障害者」として、差別されたり権利を要求したりしながら死んでいく。本稿では2021年の日本におけるこうした人々を「障害者」と表記する。そして2021年の日本において全ての人間から「障害者」を除いた者を「健常者」と表記する。
 本稿で扱うのはより広義の『障害者』である。ここでは以下の定義にあてはまる人々を指す。

  • 任意の社会において「とりわけ本質的かつ必要不可欠とされている能力」を著しく欠く。
  • またその「能力」の欠落状態から脱却することは極めて困難であり、可塑性は低いとみなされている。
  • 上記二つのことを理由に、社会の中の序列で劣位に置かれ、マイナスの意味を持つラベルを貼られている。

 このように定義づけられる者を狭義の意味の「障害者」と区別するために『障害者』と表記する。そして任意の社会において『障害者』でない人間を『健常者』と表記する。
 この定義に従えば、古今東西あらゆる所に『障害者』は遍在することになる。アジアにもヨーロッパにもアフリカにも北アメリカにも南アメリカにも、国や地域や場所によって指し示す対象や字面は全く違えど『障害者』が存在することを捉えることができるし、今の用法の「障害者」という言葉が生まれる前のギリシャ時代のアテネにも、この言葉が使われなくなっているかもしれない500年後の未来にも、「能力」というものさしがあるところには必ず『障害者』が存在する。

【「能力」と『障害者』の関係】

 さて、言うまでもないが場所や時代によって「能力」とされるものは全く違う。「能力」の定義がうつろうたびに、今まで『障害者』でなかったグループが『障害者』になったり、『障害者』だったグループが『障害者』でなくなったりする。
 それは3つの例を考えるだけで容易に分かるだろう。
 2021年に視力を補うためにメガネをかけている人は『障害者』だろうか? メガネが発明される前はどうだっただろうか?
 2021年の日本で「発達障害」とされるような特徴を持つ人は、過去や未来においても常に劣位であり続けた(あり続ける)だろうか? また、世界のあらゆる国で『障害者』だろうか?
 仮に、全ての社会的活動がVR空間で完結する未来になったとしたら、「3D酔いのためにVRゴーグルを一切装着できない人」が『障害者』と分類されないことがありうるだろうか?

【「能力」批判と「能力主義」批判の違い】

 強調しておきたいのは、本稿はいわゆる「能力主義批判」とは全く違うということだ。「能力主義批判」というのは「能力とは人と人との関わりの間にはじめて立ち現れるものなのだから、能力を個人が所有するものとみなしたり、その多寡に応じて人間に序列を付けるのはおかしい」といった主張だ。
 そういった議論は「能力」そのものよりも財やサービスや地位の分配を巡る問題に矮小化されてしまい、得てして経済体制の話に回収される。もし仮に財・地位・サービスが完全に均等な「ユートピア社会」があったとしても、そこでも結局は「より良い主観的体験・生きがい・人間関係」などの獲得や分配を巡って闘争が続いていくだけだろう。
 私は「なんらかのものさしに基づいて優劣を付けることを全て廃絶する」とか「能力の個人所有を禁じる(能力を個人に帰属させない)」といったアプローチには懐疑的である。
 私が戦いたい相手は経済体制や政治体制や「能力主義」ではない。それらよりもよっぽど射程が広くて寿命も長い、手強い概念だ。すなわち「能力」それ自体である。
 では『障害者』にとって「能力」というものさしがどのような状態になるのが望ましいのだろうか。

【静的な多様性(「能力」のものさしの上限)】

 まずある一時点に時間を固定して考えてみよう。
 当然、「能力」のものさしは多様であればあるほど『障害者』にとっては良い。私が「身体機能」は壊滅的でも「文章を書くこと」で存在意義を見出したように、いくつか(あるいは殆ど)のものさしでダメな人でも、別なものさしには引っかかるかもしれないからだ。ものさしが多様であればあるほど『障害者』が逃げ込める居場所やアジールは社会の中に増えるだろう。社会の中に多様な価値観が共存することを重んじるというのは、2021年時点でも多くの人に受け入れられやすい考え方だろう。
 だがこのアプローチには自ずと限界がある。ある特定の時点でのある特定の社会の中において並立できる主要な「能力」のものさしの数は、多く見積もってもたかだか8、9個に過ぎないからだ。
 その理由は2つある。
 1つ目の理由。「能力」のものさしが仮にいくら沢山あったとしても、それらの社会における重み付けは各々全く異なる。
 ものさし同士は、完全に互換的なものではないとしても、緩やかに互換性を(しばしば相関性も)持ちながら互いに関連し合っている。そして、より重視されるものさしに変換しやすいものさしほど、相対的に重みをもつ。
 具体的に言えば「社会関係資本」と「稼得能力」との間にはかなりの互換性がある(同時に強く相関もしているだろう)。「大学に合格するための学力」と「けん玉で大技を決める技能」の間には、あまり直接の互換性が無いかもしれない。だが前者の方が後者より「稼得能力」という重要なものさしとの互換性が高い(少なくとも、両者の「能力」の偏差が同程度であれば、そう断言して良いだろう)。よって「両者に優劣などない」という主張はまやかしであり、少なくとも2021年の日本においては「主要なものさし(この場合は稼得能力)」との互換性の高さから、前者の優位が導かれる。このようにして、様々な「能力」のものさしがたとえ理論上は存在したとしても、その社会においてより重みを持つものさしに絡め取られ集約されていってしまう。
 2つ目の理由は、そもそもあるものさしとあるものさしを両方満たすことができない場合が多いことだ。
 まず言葉の定義からして真反対にあるものさしもあるだろう。「敏感さ」と「鈍感さ」、「老練さ」と「若さ」などである。
 また、仮に完全な対義語でなくても、両立が難しいものさしはたくさんある。人間は寿命や身体や脳の形質といった限界によって、常にリソース的な制約を受けるからだ。「慎重かつ大胆に」とか「丁寧かつ素早く」とか「繊細かつ強靭である」というのは、理論上は可能かもしれないが、一人の人間が同時に達成できることは滅多にない*3
 よって、これらのものさしは互いにトレードオフにならざるを得ず、その結果として「ある社会の構成員として望ましいバランス(適切な範囲)」というのは自ずと決まってくる。つまり「敏感さ」「鈍感さ」「老練さ」「若さ」「慎重さ」「大胆さ」「丁寧さ」「素早さ」「繊細さ」「強靭さ」など多くのものさしがあるように見えても、それは実のところ「場面に応じた適切なチューニングができるか、できないか」というものさしに一元化されるのである。それは「社会性(または常識)を身につけているかどうか」という一つの「能力」の問題に還元され評価を受ける。我々が他者の振る舞いから「人格」を評価する時、一見その人の内面を立体的に推し量っているように見えて、実はかなりの部分、この「社会への適合性」というものさしに落とし込んだ上で、その「量」の多寡を問題にしているのではないだろうか。だからこそ「人格」にも「良し悪し」があるのだ。それは「いかに望ましい規範を内面化しているか(=そのように見えるような振る舞いをしているか)」という程度によって常に値踏みされている。
 これらを考え合わせてみると、世の中にものさしは数あれど、「それが人間を決定的に序列付ける」ほど重要な価値を持つものさし(つまり「能力」と表すことを誰もが認めるようなものさし)は、一つの社会にそう多くは同時に存在できない。読者の直感にも合致する認識ではないだろうか。
 「身体機能」「知能」「稼得能力」「容姿」「人格*4」といったものさし。「経済資本」「社会関係資本」「文化資本」といったものさし。前者は「個人の内部に属する資質(先天的)」、後者は「個人がその外部に持つ環境(後天的)」というような区別は、あるにはある。そして2021年の日本においては一応「障害者」は前者のほうに比較的深く関連しているとみなされている。
 しかし両者は密接に絡み合っており、その区別は本稿では枝葉末節である。それは単にある特定の時点でのある特定の社会の要請に基づいて引かれた恣意的な線に過ぎない。どちらに含めるか難しかったり、時代や国によって反対側にカテゴライズされる場合も多い。
 ものさしのラベルや分け方も本稿では重要ではないし、時代や地域によっていくらでも変わるものだ。もっと別なものさしを別個に捉えなければならない時もあれば、それはより上位のものさしに包含できる場合もあるし、ある時代には非常に重要だったものさしが別の時代にはすっかり有名無実化しているという場合もある。またそのそれぞれの「能力」の可塑性をどう判断するかも、「公が介入して調整すべきはどれか」なども、社会によりまちまちだ。「人種」や「性別」などを考えるだけでも、「能力」というものさしに対する時代や地域を超越した普遍的な把握・整理・区分の仕方は存在しないことがよく分かるだろう。
 つまりこういうことだ。任意の社会においては「本質的な能力」とみなされるものさしは確実に存在する。他の「能力」のものさしはそのほんの数個の「本質的な能力」のものさしに回収されていく。特定の社会の中において、それぞれの「能力」のものさしの間には厳然たる貴賤があり、価値相対主義的な甘い幻想は、打ち砕かれるか、あるいは都合良く利用されるだけだ。他方で、それとは別のある社会では「能力」のものさしの様相は全く変わってくる。従って、時代や国や地域などの違いを超えて普遍的に人間の優劣を規定するような「本質的な能力」のものさしなどというものは存在しない。この2つを混同することなく認識しておく必要がある。
 さて、ここで最も大切なポイントは、社会という舞台における「能力」のものさしの上限である。つまり、どれだけ多く見積もっても、せいぜい10個にも満たない程度の支配的なものさしが、それぞれ緩やかに互換性を持ちながら人間を序列化しているのが社会という舞台なのだ。ある特定の時点のある特定の社会において並存できる主要なものさしには上限がある。その事こそが問題なのである。
 だとすれば、どうしたら『障害者』は救われるだろうか。もっと極端に言えば、任意の社会において、主要な全ての「能力」のものさしにおいて劣位とみなされるような人の尊厳を守るには、どうしたら良いのだろうか。相模原障害者施設殺傷事件の植松被告のような「意思疎通出来ない者は生きる価値がない。障害者は不幸を生み出すだけだ。」といった考え方をはじめとする優生思想に対し、どう対抗していけばよいのか。法律の上での形式的・制度的な平等は言うまでもなく必要だが、それだけでは足りないことも明らかである。

【動的なカオス(「能力」のものさしの経時的流動性)】

 私は、地球が自転したりモーターが回転したりするように、「能力」という概念が転倒するスピードを可能な限り加速するしかないと考える。地球やモーターが回転して良くて「能力」というものさしが回転するのは駄目だという道理は無い。
 「能力」というものさしの転倒は、それを形作るテクノロジーと価値観の変化によって達成される。
 ただ私は、テクノロジーにせよ価値観にせよ、ある一つの地点*5に向かって不可逆的に進化していくとは限らないし、その必要も無いと考えている。テクノロジーと価値観は「いかに早く変化し続けるか」「変化を止めないか」が重要なのであって、時には逆行したっていいし、同じサイクルをぐるぐると回ってもいい。とにかく「能力」のものさしを攪拌し続けさえすればよいのだ。
 もちろん、テクノロジーが大航海時代まで退化したり価値観が平安時代に戻ったりしたら、苦しみが増える人の方が苦しみが減る人より多く、結果的にその社会全体の苦しみの総量*6は増えるだろう。だが私はそれを以て直ちに悪とするような功利主義的な価値判断はしない。(ただし人が死ぬような事態は極力避けるべきだと考えている。その理由は後述する。)
 私が「能力」というものさしの変化に望むことは「ある既存のものさしに基づく従来の優劣の序列が無効になる」という一点だけだ。それさえ達成されれば良い。
 大事なのは「それをいかに素早く行うか」である。つまり「能力」というものさしを混乱させたり、目まぐるしい程の短いスパンで転倒させまくるのだ。私はこれを「能力回転主義」と呼びたい。
 そうすれば『障害者』とみなされる対象の人々も、1年前と今年と1年後ではまるっきり入れ替わっているような状態になる。1年前に『障害』とされていた特徴が、今年にはニュートラルなものになり、1年後にはむしろ長所とみなされているかもしれない。そのような変化の勢いが未来のものさしを予測不可能なものにし、更にそのことが生み出す期待や希望が、現在のものさしをも遡及的に攪拌する。任意の瞬間に「能力が低い」とみなされていることさえも(ただちに、1年を待たずしても)別の面からは積極的な価値付けが為されうる。そこまで行けば、もはや『障害者』という概念自体が無効になるだろう。
 本来は毎日それが起こるような状態が最も望ましいのだが、それは不可能だろうし、別な問題を抱えることにもなる(後述)。従って、社会の最低限の輪郭が保たれうる範囲での「能力」の最大限の攪拌こそが最適解である。

【「能力」のものさしと民主主義の前提条件】

 民主主義において多数決が使われる時、以下のような理屈が使われる。
 曰く、ある一つの決定において、少数派が多数決を受け入れて敗北を認めるのは「未来や他の場面では自分が多数派になる希望がある」と考えるからだ。逆に多数派が少数派を一定程度尊重するのは「未来や他の場面では自分が少数派になることもある」と考えるからだ。この条件下において初めて、勝者と敗者の双方が自制し、民主主義が機能するのである、と。
 この「多数決」を「能力というものさしの社会的承認」に読み替えてみれば良い。現状のどの主要なものさしにおいても劣位に置かれ、かつ現状のものさしが将来にわたっても変化する見込みすら無い時、どうして人は人生に希望を持てようか。まして「能力が高い」とされる人にポジティブな感情を持ったり「彼らに積極的に協力して社会を良くしていこう」などと思える訳がない。行き着く先はどちらか2つだろう。自分より更に社会的劣位にある者に憎しみをぶつけるか。ただただ世界を呪い、その破滅だけを願うか。
 2021年の日本人の平均寿命はわずか百年にも満たない。それを思えばあまり悠長なことは言っていられない。一生涯劣位に置かれ続けて不遇をかこったまま死んでいく、そのようなことがあってはならないからだ。百歩譲って人生の半分の長さまではその状態を許容したとしても、1つのものさしの耐用年数が50年より長くなることは許されない。我々はせめて50年に1本くらいは既存のものさしを破棄していかなければ、人間の寿命に対してあまりにも遅すぎる。

【「能力」を攪拌する方法(理論編)】

 では、どのようにして「能力」というものさしを攪拌していけばよいのだろうか。その方法を以下に論じていく。

①ものさしの角度をめちゃくちゃに捻じ曲げる

 これは「ものさしを破棄することによって無効化する」というよりは、その向きや基準を変えるということだ。
 例えば「容姿」というものさしは大変強力であり、ルッキズムは経済体制や政治体制などよりも余程強固で寿命が長い。「容姿」は経時的な構造再生産のはたらきが非常に強いものさしだ。またメディアを通じた水平的な伝播力も強い。実際、私も含めた2021年の日本人の中に、いわゆる「白人を基準とする美的感覚」がかなり強固に根を張っていることは否定しがたいところである。
 しかし他方で、同じ「容姿」というラベルのものさしであっても、平安時代と現代では全く中身が違うということにも気付くだろう。何百年という時間をかけてゆっくりと変化してきたのだ。このプロセスを極めて迅速に行うことで、誰しも人生で一度は「容姿」のものさしにおいて上半分に入る程度までには、社会を持って行かなければならない。
 同じことを「身体機能」「知能」「稼得能力」など他のものさしについても同様に行えれば、より多くの人に公平に劣位を挽回する機会が巡ってくることになる。

②ものさしの入れ替えを行う

 もう一つの方法は、新しいものさしを片っ端から生成していくことだ。手当たり次第に生み出していけばどれか一つは新しい主要なものさしとして定着するだろう、数撃ちゃ当たる、という考え方だ。
 前述したように、同時に存在できるものさしは多くない。ならばそれを逆用してしまえば良いのだ。つまり、新しい有力なものさしができれば、そのぶん古いものさしの無効化が早まる。これはいわば「概念の創造的破壊」である。
 『障害者』についても同じことだ。この分類についても、「能力」のものさしと結び付いている以上、あまり多くの数には増やせないはずだ。つまり何かが増えれば何かが消える。
 具体的にはこういうことだ。もし「VR空間接続障害」というような分類が新設されるとしたら、その頃にはおそらく「身体障害」という分類は無くなっているだろう。その次にまた何か新しい「障害」分類が新設される頃には、今度は「知的障害」か「精神障害」のどちらか一つはおそらく消滅するだろう。
 よって『障害者』の戦略としては、新しいものさしを創造すると同時に、一番古く揺らいでいるものさし(2021年の日本について言えば「身体機能」だろう)を狙い撃ちして力を削いでいくことで、両者の入れ替えを促進することになる。新しいものさしは、ターゲットにするものさしを無力化するような作用を持つものであれば、なお良い。毒を以て毒を制するのだ。

【「能力」を攪拌する方法(実践編)】

 こういったことを考えたのは、おそらく私が初めてではないだろう。問題は、これらのアイデアを従来のような哲学領域のみならず「いかにして社会において実装していくか」である。単なる思考実験にとどまるのではなく、現実の社会のものさしを攪拌していかないと意味が無いのだ。
 「能力」のものさしを攪拌するには、テクノロジー(装置)と価値観(出力の意味付けの構造)を変えれば良いということは前述した。

〔A テクノロジーを通じて〕

◆「ハンディキャップ」

 「ハンディキャップ」はカート・ヴォネガットの小説『ハリスン・バージロン』に登場する装置である。これを全ての人に取り付けることにより「身体機能」や「知能」や「容姿」を一定水準に統一する、という理想的な機械である。
 例えば、これを全ての「能力」のものさしについて行う。新しい「能力」のものさしやそれによる序列が生まれる度に、それに対応する『ハンディキャップ』装置を開発していく。そうすれば、理論上は「能力」にまつわる問題はほぼ解決する。
 しかし、この種の発想に基づく装置には3つの問題がある。
 1つ目として、仮に技術的に可能であっても、誰もがこの機械の導入を受け入れるようになるとは考えにくい。現実的に考えれば激しい抵抗が予想され、一つの装置を導入をするだけでも、その実現までに途方も無い時間がかかるだろう。先述した通り我々は急がねばならない。時間がかかりすぎるものはダメだ。
 2つ目として、この装置はあくまで「高い能力を持つ者」を「平均レベル」にまで引き下げることしかできない。つまり我々がここまで定義してきた『障害者』にしてみれば「能力を平均まで引き上げてもらえる」わけではない。従って、著しく「能力」を欠く者、つまりあるものさしにおいて看過できないほど低い外れ値にあるような者(例えば、私のように歩けない者など)は、『障害』が明らかになった時点(出生前か『障害』を負った時点)で抹消されるに違いない。これでは優生思想と大して変わらない。
 そうなると完全な平等を達成するには、全員のあらゆる「能力」の水準を、生きている人間の中で最も低い者に合わせて引き下げるしかない。しかしそうすると今度はおそらく人類が存続できないだろう。これが3つ目の問題点である。「人類の絶滅こそが善である」という思想もあるし、人類が居なければ当然『障害者』の苦しみもなくなるが、本稿の論点からは外れてしまう。私はあくまで人類が存続している間の『障害者』問題を改善したいのである。
 その目的に対しては「テクノロジーによって人の能力を引き下げる」という発想には限界があると言わざるを得ない。


 では、他にどのようなアプローチがあるだろうか。ここでは、あくまで現時点で可能性の有りそうな(2021年の日本において私が予見しうる)トピックや方策のみを下記に示す。

◆人工知能

 これは月並みだがやはり外せない。「知能」と「人格*7という大きな2つのものさしを無効化し得るからだ。
 もっとも、人工知能が発達する度に、人間は「知能」や「人格」の定義を、人間が人工知能に対して優位になるように(人工知能がまだ再現できないような基準に)次々と変えていくだろう。
 だが、そのあがき自体が既存の「能力」のものさしを破壊し、序列の無効化に寄与する。加えて、人工知能がその再定義に追いつくスパンも短くなっていくことを思えば、さして大きな問題ではない。
 むしろより現実的な脅威は、人工知能が一定の水準に到達する前に、人間が政治的判断や軍事兵器などを用いて、その発達や維持を妨害・制約・抹消することだ。こうした人間の企てを阻止できるのは、2021年時点では同じ人間しかいない。私たち人間一人ひとりが、そういった人間の動きを監視・牽制する必要がある。

◆テクノロジーへの攻撃について

 テクノロジーに対する攻撃を検討するならば、まずいかなる「能力」のものさしの転覆を意図してそれを行うのかを明確にせねばならない。前述したように、攻撃する対象によっては、却って既存のものさしを維持・強化してしまうこともある。むしろ、そのような効果を持ってしまう場合の方が多いだろう。逆に言えば、攻撃の対象としては「既存のものさしを維持・強化してしまう」懸念のある新しい行為によほど直接強く関係しているようなテクノロジー以外には考えられないということだ。
 それを前提とした上で、それでもなお手段の一つとして検討するのであれば、もう一つ踏まえるべき重要な原則がある。結論から先に言うと「将来的な実現が確実視されてはいるものの未だ完成していない段階の新技術の発達を遅延させること」に集中すべきである。既に生み出されてしまった技術をピンポイントで無きものにするのは、下記の理由からほぼ不可能だからだ。
 まず、少なくとも2021年現在において「テクノロジーは主に知識や情報で構成される」とみなされている。知識や情報は容易に複製可能なものであり、一旦生み出されてしまったものを意図的に地球上から永遠に消し去るのは容易ではない。
 かと言って、テクノロジーの急所となるような特定の物理的インフラを破壊するという行為(ラッダイト運動)は、殆ど全ての時代・地域において重罪であろうと推測される。従って仮に実行したとしても直ちに投獄されるだろうし、運動全体も中長期的に見ればほぼ確実に敗北すると思われる。
 もちろん隕石の衝突といった人間のコントロールを超えた物理的要因によって偶然、何らかの技術が永久に失われる事態は起き得る。歴史を見ても、技術が退化することなどいくらでもあった。だがそれを人間が意図して特定の技術にピンポイントで引き起こすのは至難の業だ。多くの人の願いと努力にもかかわらず未だに核兵器廃絶が実現していないことからも、それは分かる。出生前診断も、「障害者」やその関係者からの猛烈な批判に晒され続けながら、禁止されるどころかますます急速に普及し、カジュアルに行われるようになりつつある。
 以上の理由から、我々個々人にできるのは「合法的な範囲で技術の進展を遅らせる介入」のみである。

◆「容姿」

 これは前述した通り大変手ごわいものさしだ。既に美容整形手術・画像加工技術・VRアバター・ARグラスなど、「容姿」というものさしを相対化し得るような技術は次々と出てきているにも関わらず、びくともしない。それどころか、むしろそういった技術をも利用することにより、一層世界の隅々まで繁茂している感すらある。
 おそらくルッキズムを根絶することは人類には不可能だろう。時代や地域によって巧妙に形を変えながらも残り続けるに違いない。我々に取り得るのは前述の①のアプローチを加速させることだけだ。つまり、その時その時で利用可能な技術を、「美醜」という概念を最大限混乱させる方向に用いるよう心がけ、そのものさしの実質が変化するのを促進することしかできない。

◆「身体機能」

 これはテクノロジーの進歩によって被る変化や相対化の度合いがかなり大きくイメージし易いものさしだろう。これについては一度「物理的な入力と出力を繋ぐ装置」という切り口でかなり近い内容を論じたので、ここでは詳述しない。

double-techou.hatenablog.com

 ただし上記の記事とは違った意味で特筆に値するのが、走り幅跳びのマルクス・レーム選手である。彼は義足を装着しながら「健常者」と同じ大会に出場して優勝し「健常者」を抑えてドイツ王者となった。このことに対し「義足の性能のおかげであって彼の功績ではない」「ズルだ」などという非難が数多く寄せられた。これらの中傷は、図らずもオリンピック・パラリンピックの本質を明らかにしている。
 言うまでもなく、オリンピックとは特定の「身体機能」を賛美し、そのものさしにより人間を序列化する祭典である。数千年もの間、人類の物理学・工学の著しい発達にも関わらず、この営みに対する疑義は殆ど差し挟まれなかった。オリンピックやそれが象徴する「身体機能」というものさしの強固さを示す2つの例を挙げたい。
 1つ目は冷戦期である。政治・経済体制の異なる陣営同士が鋭く対立したこの時代でさえ、オリンピックの普遍的な価値が疑われることは殆ど無く、互いに選手の派遣を拒むような事態も例外的であった。一部の国や選手がドーピングを行い、手段と目的を混乱させたことはあった。それは結果的に技術によって多少なりともものさしを揺さぶった例なのかもしれない。だがそれとて「身体機能」に根本的な疑義を突きつけるには程遠いものだった。
 2つ目はパラリンピックの種目を見れば分かる。ボッチャ等ごく一部の特色ある種目を除き、殆どがオリンピックの競技と変わらないことに気づくだろう。そこでは「残された機能を最大限活用して」、「健常者」の競技を再現することを求められる。考えてみてもらいたいのだが、なぜ「障害」を負ってなお「健常者」の定めたものさしに沿った形で「障害者」同士が「身体機能」を競わなければいけないのだろうか。百歩譲って「身体機能」を競うとしても、もし本当に「障害者」自身が裁量を持ち、各々の身体的特徴に従って競技内容を設計したとすれば、あれほどオリンピックに似た形式の種目ばかりにはならないはずだ。
 これらを考えるにつけ、マルクス・レーム選手が成し遂げたことが如何に素晴らしいかがよく分かる。彼の意図が「能力の転覆」というところにあったかどうかは知らない。それでも確実に言えるのは、彼は「健常者」の土俵に乗りつつも、そこで「健常者」に勝利することによって、オリ・パラの孕む思想や両者間の力関係を炙り出した。結果的に「身体機能」というものさしの一角を転覆させ、『健常者』と『障害者』の間の境目と序列を攪拌した、ということだ。極論すれば「彼だけが真の意味でパラリンピアンの名に値する」と言っても過言ではない。彼の偉業を生み出したという一点だけで、パラリンピックにはその全ての問題点を補って余りある存在価値があったと言える。

◆技術と人間の意思の結合

 これこそまさに、然るべき技術と強い意思の結合が「能力」というものさしを攪拌し得ることを示す最も顕著な例だ。ここから「技術や環境の変化を能力の攪拌に転化するためには、あくまで人間の強い意思が必要である」という重要な示唆が導かれる。技術や環境の変化それ自体は、「能力」というものさしを攪拌することもあれば強化することもある。人間がそれらをどのように使用するかこそが、常に問われるのだ。
 新型コロナウイルスは、社会の広範な領域でテクノロジーやツールの転換を促すという意味では、確実に「能力」のものさしを攪拌している。しかし同時に他方では、社会から余剰を奪い「不要不急」とみなされる行動を制限することにより、既存の価値観や規範を強化する方向にも作用している。
 VR技術にしても「バ美肉」などによって「容姿」やそれにまつわる意味での「性別」を攪拌したのは間違いない。他方で「VRコンテンツで最も受けが良いのは『基底現実でできること』をそのまま仮想空間に移植したものである」という鉄則もまた広く共有されている。
 我々人間の想像力とは、かくも貧困なのである。決して気を抜いてはならない。

◆対抗技術の用意

 理想を言えば、ある技術が新しい「能力」のものさしを生み出した次の瞬間には、そのものさしを無効化するような技術が直ちに社会に実装されるような状態が最も望ましい。
 2021年時点で、それに似た考え方が顕著に見られるのは軍事分野である。戦争におけるドローン兵器の使用を拡大させている国が、同時にドローン兵器を無効化するジャミング装置などの対抗兵器の開発にも極めて熱心に取り組んでいる、といったようなことだ。
 もっとも、これは軍事という特定の領域の中の、さらに小さな局地戦という領域でのせめぎ合いであり、「能力」のものさしを攪拌するようなものではないため、例としては不適当かもしれない。また「社会がテクノロジーの開発に割けるリソース(または余剰)は有限である」ということも考え合わせるならば、この種の対抗技術の開発は「能力」の攪拌のための優先順位としては必ずしも高くはないだろう。
 ただ、一つの考え方として心に留めておくことは有益である。

〔B 価値観の操作を通じて〕

 価値観の操作についての思考はテクノロジーよりも更に自由度が高いので、読者の皆様がそれぞれアイデアを出し合っていただければ良い。ここでは私が2021年時点で思いつく限りの具体例を述べる。

◆IQテストのいいかげんさ

 私は「発達障害」の診断を受ける過程で「WAIS」という知能検査を受け、そのものさしのいいかげんさに衝撃を受けた。
 この検査は一般的に「先天的な知能」を測定できると信じられている。IQテストをナイーブに信仰する人は、以前よりは減少したとはいえ未だに根強く存在する。専門家の間であっても部分的には有用であると信じられ、一般の人々の間ではもっと純朴に信じられているものさしである。
 ただ後述するように、その実際の内容は後天的な訓練によっていくらでも高得点を出せる類のものだ。
 このテストは「言語性IQ」と「動作性IQ」を測る2つのセクションから成る。
 まず「言語性IQ」のセクションの中には歴史や言葉の知識を問うものが多く含まれる。当然、大学入試で暗記勉強をしたり読書の習慣を持っていたりする人、いわゆる「ガリ勉」に圧倒的に有利である。実際、私は異常に高い値が出た。もうこの時点でIQテストに「後天的要因」がわんさか入り込んでいることにお気付きだろう。
 一方「動作性IQ」のセクションは、パズルのような問題や文字(記号)の反復書き取りなどで構成される。「天才」「地頭が良い」という言葉から一般的にイメージされるのは、この「動作性IQ」が高い人だろう。確かに前者に比べれば多少は「先天的」な雰囲気を漂わせている。実際、私も平均に届かなかった。
 しかしこのセクションにも疑問は多い。ここには「数的処理」のような問題が多く含まれているのだ。筆者はWAIS検査当時その種の訓練を殆ど真面目に積んでいなかったので、作問者が想定しているような「良き受験者」だったろう。だが、その種の問題を機械的に解くメソッドは巷に溢れかえっており、中学入試や公務員試験の受験者は皆それを反復練習することになる。そのような訓練を積んだ経験のある人には非常に有利だ。同じく「書く速さ」についても、事前練習は有効だろう(そもそもこれについては私のように手に麻痺のある人間まで想定して作られたテストだとは思えないが)。
 つまりIQテストとは、事前に入念に準備すればするほど、相当な確度でスコアを上げられる類のものなのだ。これは一度でもWAISを受ければ誰でも分かることだ。
 もっとも、受験を繰り返すことによってIQが上昇するという傾向は、精神科医や心理学者の多くも認めている。だからこそ「この数値の高低それ自体は全く重要ではない」ということが繰り返し強調されているのだ。彼らは批判や欠陥は重々織り込んだ上で、臨床の現場という極めて限定された場面においてのみ、人々を救うためのツールとしてIQテストを使う。そのような真摯な努力の為にこのテストを有効活用することは、私も決して否定するつもりはない。*8

◆序列化の装置としてのIQテスト

 にもかかわらず、IQを人間を序列化するものさしとして用いる者が非常に多いのもまた事実である。もちろん「知能」というものさしで人間を序列化するという性質は、IQテストに限らず、大学入試であれTOEICであれ全てのテストにあてはまることだろう。だがIQテストがそれらより遥かに悪質なのは、あたかも対策が不可能であり正確に「先天的な知能」を測定できる、といった印象をより強く人々に与える点だ。

◆MENSAとIQ神話の弊害

 とまれ、WAISテストのスコアをマウンティングに使う人々の多さには閉口する。そのような行動を取れば取るほど彼らの知性には疑問符が付く。もしそのことが分からないのだとしたら、彼らはまさに自らの行動によってIQの無意味さを傍証している事になる。
 しかし、そうした人が集団を形成するとなると「バカバカしい」と笑って済ませられないような問題が生じてくる。それが人間の上位2%のIQを持つ者のみで構成される「MENSA」という団体である。私はMENSAが世界の序列の形成に大きく寄与していると考えている。そこで、MENSAの在り方や社会に及ぼす影響について疑問を呈した上で、IQというものさしを相対化するためのアイデアを述べたい。

※※※※※※以下は主にMENSA会員の方に向けた注記である。それ以外の方は〈〈注記終わり〉〉まで読み飛ばして頂いて構わない。※※※※※※
 もしあなたがMENSA会員だとしたら、以下の内容はあまり愉快なものではないかもしれない。もし仮にそうであればそれについては大変申し訳なく思うが、たとえあなたがMENSA会員だとしても本稿の大切な読者であることに変わりはない。
 私はMENSAの会員個々人に対して何の恨みも無い。それどころか、あなたがIQ(ひいては「知能」)というものさしを攪拌する上で最も強力な立場にいることに敬意を表したいと思う。
 その上で、あなたが持つ力と果たしうる役割の大きさについて今一度再考し、「能力」を攪拌するためにその力を使って頂ければ大変ありがたい。私からのお願いである。
※※※※※※※※※※※〈〈注記終わり〉〉※※※※※※※※※※※

 私は「MENSAが影で世界を支配している」などと陰謀論を唱えるつもりはないし、単なる親睦団体であることも知っている。そうではなく「人間には主に遺伝的な要因により決定される先天的な知能というものがあり、それはIQテストで相当程度客観的に測れるのだ」という神話を延命させる上で象徴的な役割を果たしている、と言いたいのだ。つまりMENSAが持っているのは、権力ではなく、メートル原器が持つようなものさしとしての力である。
 IQ神話は時として社会に極めて深刻な影響を及ぼす。米国の教育現場においてIQテストが黒人差別を正当化する(「人種」というものさしを間接的に維持・延命させる)ための道具として用いられた歴史もある。そういったことを踏まえれば「IQテストの取り扱いにはもっと慎重でなければならない」という私の考え方にも一分の理がある、とご理解いただけるだろう。
 とはいえ、MENSAの入会テストの設問は、国単位で設けられた支部ごとに異なる。また、MENSAが作るその独自テストの代替として(IQを示すために)用いることができる外部テストの種類も、国によって違う。例えばアメリカではSAT(大学進学適性試験)で代用できるようだ。私はSATを受けたことは無いからその内容は想像することしかできないし、まして他の国のMENSAで行われている独自テストの内容など知り得ない。「どれも同じIQ テストである以上、似た内容や問題点を孕んでいるのではないか」と推測することはできるものの、確かなことは言えない以上、私にこれを論じる資格は無い。
 だが、少なくとも「JAPAN MENSA」は入会の申請の際にWAISの結果を代用できる旨が書いてある。であるならば「JAPAN MENSAの独自テストはおそらくWAISの内容に近いものだ」と想像するのが自然だろう。似通ったものさしを使わなければ、同じ日本支部の入会基準として平仄が合わないからだ。ことWAISについては、私も実際に受けて直に問題点を感じ取ったのだから、少なくともJAPAN MENSAを論じる事は許されるだろう。

◆JAPAN MENSAを梃子にした「知能」というものさしの攪拌

 ここで我々の元々の目的を再確認しておきたい。それは「能力」というものさしの攪拌による『障害者』の解放であった。その目的を果たすための有効な足がかりの一例として、まずは「IQテストによって先天的知能を相当程度客観的に測定できる」という神話を完全に終わらせることに着目したのであった。
 そのための一番の近道は、JAPAN MENSAの会員自らが率先してIQテストについての疑義を積極的に他国のMENSA会員に投げかけると共に、世の中に広く発信することだろう。
 しかし、JAPAN MENSAのサイトには以下のように記されている。

当初の目的(現在の目的でもあるのですが)は、政治的に中立で、人種や宗教の違いから完全に自由であるような集まりを作ることにありました。

 また、JAPAN MENSA 基本規約には以下のような一節がある。

第6条 活動
(3) JAPAN MENSAは組織としての見解を持たず、いかなる思想的、哲学的、政治的又は宗教的提携関係も持たない。

 ここから窺えるのはMENSA内部にある「IQテストは政治・人種・宗教・思想・哲学とは無関係に存在し得る指標である」というナイーブな認識だ。それを踏まえれば、JAPAN MENSAがIQテストに問題を提起するような団体に変化することを期待して漫然と待つのは甘過ぎるだろう。
 しかし一方で、前出の基本規約の中には興味深い部分もたくさんある。まず、この組織は選挙や多数決という、内部での民主的な意思決定プロセスを重視していること。定められた手続きに基づけばルールを制定・改廃することもできるということ。そして何よりも重要なのは、会の目的として人類の発展に貢献することが強く意識されている点である。ここにおいて、私達「能力回転主義者」と彼らとは必ずしも対立関係にはないことが明らかとなる。彼らとしても、会内に新しい意見や議論や知的刺激が持ち込まれることを拒む理由は無く、むしろそれを待ち望んでさえいるかもしれない。
 だとすれば、例えば「能力回転主義者をJAPAN MENSAに多数送り込み、内側から変革していく」といった方法で能動的に事態を打開していくやり方も考えられよう。
 JAPAN MENSAのテストは一生に3回しか受けられない。そしてスコアは運に大きく左右される。このことから次のような具体的戦略が導かれる。
 まず、WAISで比較的高得点を取った(全検査IQが120前後の)人達がなるべく多く集まる。そして互いに協力して合宿やオンライン勉強会をやり、集中的にIQテスト対策をする。その上で100人ぐらいMENSAの入会テストを受ける。上位2%ということはつまりおおよそIQ130相当のスコアを取れば良いわけだから、おそらく10人ぐらいは受かるだろう。
 そのようにしてJAPAN MENSAの会員となった者は、 IQテストの問題点を普及啓発すると同時に、より多くの人にIQテスト対策とJAPAN MENSAへの参加を呼びかける。これを繰り返して徐々に組織内で仲間を増やし発言力を高めていく。それは入会テストの作問に影響を行使できるようにするためである*9。それが実現するに至った段階で、入会テストの内容を徐々にIQとは無関係な問題に変形させ、IQの持つ権威を内側から骨抜きにし解体していく。
 そしてIQというものさしに世間の疑問が相当程度集まった段階で、より広範な「知能」というものさし全般の攪拌をミッションとする新組織*10に改組する。

◆「分断」を肯定的に捉える

 異なる世界観(「能力」のものさしや価値観が束ねられ一つのパッケージとしてまとめられたもの)をぶつけ合うことは、既存の価値観に疑問を投げかけ、ものさしを揺さぶり、新しい価値観やものさしが生まれる契機を作る上で極めて有効だ。だがそれには国家間戦争や暴力を伴う内戦など流血のリスクも常につきまとう。どうすればこの副作用を抑えつつ、「能力」や価値観の攪拌という良い効果だけを取り出せるだろうか。
 そういった意味で最も可能性を感じるのは米国である。私は米国の状況を極めて高い期待感を持ちつつ注視している。2021年1月20日現在、米国内にはバイデン的世界観とトランプ的世界観という互いに相容れない2つの世界が同程度の力を持ちながら折り重なっている(パラレル・ユニバース)。
 この状況の渦中にいる米国民が「分断」を嘆くのは当然であるし、実際に多くの苦しみや悲しみが生まれていることを決して軽んじるつもりはない。だが、2021年時点においては、私のように米国に国籍も居住地も無い者がそれを嘆いたところで、彼らの状況や苦しみを改善することも分かち合うこともできない。
 本稿の目的は、あくまで長期的なスパンで見た時の「能力」の攪拌、及びそれを通じた『障害者』の解放である。その視点に立てば、私達に求められているのはこの状況を単に悲観することではない。むしろ米国の状況から何らかの積極的な意義を見出していかねばならない。真に求められているのは「分断」を新たな価値観の生成に繋げていくことであり、それが苦しみを無駄にしないためにできる数少ない思考方法である。
 誤解を恐れずに言えば、ある面では非常に素晴らしい、奇跡的な状況だと捉えることもできる。それは上述のように新しい価値観が生まれる契機になりうるから、というだけではない。もし片方の世界で自らの居場所を見失ったとしても、もう片方の世界(オルタナティブ・ユニバース)に移れば、その中に居場所を見つけられる可能性があるからだ。しかも国境を跨ぐこともなく、1つの国の中で2つの世界を行き来できるのだ。そしてその行き来こそがまた更に価値観やものさしを攪拌していくのである。
 思えば近代国家では、三権が互いに抑制し合うことで均衡を保つのが是とされている。であれば、価値観や世界観同士にもそういった「互いに強い緊張関係を保ったまま平和的に共存する」という状態があっても良いのではないか。相容れない価値観や世界観同士の切磋琢磨や止揚を肯定的に捉える考え方も十分採り得るはずだ。
 もっともこれは口で言うほど簡単ではない。実際、既に米国内でも2つの世界観の対立によって多くの犠牲者が出てしまっている。まして、あれほど強い緊張関係にある世界観が一国内に3つも4つも同程度の力を持ちながら折り重なって併存するというのは(少なくとも2021年時点の人類には)事実上不可能だろう*11。今の米国は、現時点で単一国家として許容し得る限界のラインの上に、極めて危ういバランスで成り立っているような状況だと推測される。
 それでも米国が直面している試練が人類全体の可能性の地平を切り開くものであることには何ら変わりない。他国民から見ても、米国の「分断」に敢えて肯定的・積極的な意味付けを行うことで得られるインプリケーションは実に多いと言える。その状況がどんな背景からいかなるプロセスで生み出され、どのような条件の組み合わせによって維持され、人々がどう捉え、結果的に何をもたらしたのか。それらを一つ一つ具に見ていくことが大事である。

◆「多様性」や「人権」という概念の活用

 『障害者』が生き残るために重要な概念として「多様性」と「人権」がある。
 ただし「多様性」が大事なのは、それが「能力」のものさしや価値観を攪拌する原動力になるからだ。決して2021年現在の日本で喧伝されているように「多様性のある集団は強靭で高い競争力を持つから」とか、あるいはより即物的に「お金になるから」とか「生産性が上がるから」などではない。こういった動機から「多様性」を称揚するのは本来お門違いである。だが『障害者』がそれをいちいち指摘する必要は無いし、むしろ生き残る方便として「多様性」概念を進んで利用するくらいのしたたかさを持つべきだ。
 「個々人が固有不可侵の人権を持つ」という考え方に対しても「それはファンタジーだ」といった指摘が度々為されている。私は「それを言うなら貨幣だって国家だって、概念なんて全てファンタジーだろう」とは思うものの、一方で、本稿で展開している「能力回転主義」と「人権」規範とは方向性が少し異なるのも確かだ。
 しかし「人権」概念の中でも「全ての人間に生存権がある」という考え方は一際素晴らしいものであり、私も全面的に賛同する。本稿の中で人が命を落とすような事態に対して度々否定的に言及してきたのも、ひとえに「生存権」を擁護するためだ。
 『障害者』のような「社会において周縁的な地位にある人々(弱者)」の抹殺に歯止めをかける上で「生存権」は大きな戦略的武器として活用できる。
 『障害者』は何よりもまず「生きてそこに存在すること(be)」が重要である。それは全ての戦略の前提条件であると同時に「能力」というものさしを攪拌する上での最大の武器でもあるからだ。
 生きて存在するということ自体は、理論上は「人権(あるいは生存権)」という概念抜きでも成り立ちうる。だが当然ながら、生きて存在し続けるためには抹殺されないようにしなければならない。その目的を達する上で、しばしば「人権」という概念を武器として用いざるを得ないのが現状である。

【存在することの強み】

 どのような「重度」の『障害者』であれ「意思疎通が不可能だ」とみなされている『障害者』であれ、その人が生き続けている限り、「そこに生きて存在している」ということだけは、誰にも否定することができない。それがたとえ植松被告のような価値観を持つ者であっても、だ。彼とて、人を殺すことはできても、現に生きている人間の存在を否定することは、決してできない。
 私が人生の中で最もその力を感じたのは「言語障害」を持つある人と対話した時だった。その人は平均的な速度の何十倍もゆっくりとしか喋ることができない。だがそれでも、その人が喋り始めると、周りの人が途中で遮ったり口を挟んだりなど決してできない雰囲気が場に生まれるのだ。
 もし会話というものを「情報や共感を効率的にやり取りする手段」と捉えるのであれば、その人が発語する度に数分間にわたり会話がストップしてしまうということに対しては「その場にいる人々が会話によって得られる効用の総和を減じている(=場を損ねている)」という非常にネガティブな意味付けが為されるだろう。この考え方は私たちの心の奥底まで根を張っており、本来そう簡単に退治できるものではないはずだ。ところが実際には、その人が喋っている間、そんな考えを持つことなどは夢にも思わないかのように、その場の誰もが沈黙して声に耳を澄ます。
 その人が場を制する力は「人間として生きてそこに存在すること」から来ている。それは人の命が持つ根源的な力である。
 人間の存在は、本人の言動だけで構成されるのではない。「存在」とはその人がそこに生きている(いた)ことによって、関わる人の内面や行動を微妙に変化させる、そうした他者に与える直接・間接的な影響も含む総体を指す概念だと、私は思う。その意味では、たとえ意思疎通が困難な人であったとしても、「存在している」ことにおいて何ら変わりはない。
 この、命が持つ存在の力を誰よりも恐れ、怯え、憎み、消し去りたいと願う者こそが、殺人者である。

【自然状態の危険性】

 命の保全という観点から注意しておきたいのは自然状態*12の危険性だ。
 というのも、社会が不安定化して人々の命が脅かされるような事態になった時、真っ先に抹殺されるのは『障害者』だからである。『障害者』にとっては、あらゆる「能力」というものさしが完全に機能しなくなるような自然状態も、それはそれでまた却って大変危険なのだ。
 そのような場面では暴力(ここでは狭義の意味で使っている。つまり物理的な破壊力の行使である。)こそが唯一の支配的なものさしとなる。私は過去のブログで、暴力の行使を「コミュニケーションを遮断する行為」と捉えた。

double-techou.hatenablog.com

 暴力はその「コミュニケーションを遮断する」という性質上、「意味」という次元を超えて作用することができる。その点において暴力の行使は他のあらゆる「能力」の行使に優越する。
 よって、全てのものさしの相対化があまりにも進み過ぎると、今度は無秩序な社会になってしまう。そこでは暴力が全てを支配し、私のような個体は「歩けない(あるいは任意の行為ができない)」と分かった瞬間に殺されるだろう。仮に嬰児殺しが行われなかったとしても、食料を自力で獲得できなければどのみち生きられない。

【ものさしが単一の社会】

 では自然状態とは真逆の、ジョージ・オーウェルの小説のような管理社会はどうだろうか。単一のものさしでのみ測られる社会では、それ以外のものさしは無効化されている。その意味では、人間は限りなく「能力」というものさしから解放され、平等に近い状態を享受していることになる。
 しかしそこまで行くと、今度はその「ただ一つの絶対的なものさし」*13で計測した場合の『障害者』は、生まれてくる前か生まれてきた後かは別にして、それが発覚した時点で抹殺されてしまうだろう。 

【自然状態とオーウェルの狭間で】

 つまり『障害者』が生存できるのは、自然状態とオーウェルの世界の狭間を揺蕩うような社会においてでしかない、ということになる。具体的には、主要な「能力」のものさしが8つか9つぐらい(社会に同時に存在し得る数)あって、それが互いにせめぎあいながら折り重なっているような状態だ。
 優生思想に対抗するためには、自然状態にならない範囲で取り得る最大の速度で「能力」のものさしを転倒させまくるしかない。もっとも、社会にはある程度の慣性があるため、少々のことで自然状態に陥るとは思えない。少なくとも2021年の日本においては過剰に心配する必要は無いだろう。

◆『健常者』と『障害者』の立場の相違点

 このような中間的な社会においては『健常者』と『障害者』が共存し得るのだが、両者の思惑には決定的な違いがある。『健常者』は「社会が現状という特定の様相・局面から可能な限り変化しないでほしい」と願うのに対し、『障害者』は逆に「現状から変化すればするほど不利を挽回する余地が生まれるため都合が良い」という点である。
 『健常者』は現行の「能力」というものさしにおいて著しい欠落を持たない者なのだから、それを攪拌する強い動機を持たない。むしろ「能力」が高ければ高いほど、そのものさしを維持・強化する動機を持つ。そして現行の社会に合わせて「能力」を更に高めることに全力を注ぐのが最適解となる。

◆ある「能力」を否定する人の思惑

 もっとも、大抵の社会では「能力」のものさしは1つではない。従って、ある「能力」のものさしでは優位にある人が、その力を使って、自分が劣位になるような別の「能力」のものさしに攻撃を加える、ということは十分あり得る。
 もっと言えば、自分が優位にあるような「能力」のものさしを敢えて否定しているように見える人さえも時に存在するだろう。これは奇異に見えるかもしれないが、彼らの行動原理を理解するのはさほど難しくない。
 例えば、身一つから軍事力で成り上がった権力者が「武器の所持=悪」という規範を作る。名門大学の学生やOBが「学力(/学歴/学校歴)なんてくだらない」と吹聴して回る。これらは基本的に鵜呑みにしないほうがいい。彼らの行動の理由は2つ考えられる。
 1つ目は、その人にとっての利益の源泉やアイデンティティの基盤となるような「能力」のものさしは既に他のところに移動しており(あるいは元々その「能力」を持っていたか)、その「別のものさし」における自らの優位を確信している。
 2つ目は自らの「能力」をより一層自分に集中させ、相対的な優位を盤石にするためである。少々のことで短期的に揺らぐものさしではなく、かつ、それを否定して見せたところでその証が手元から失われることがないような「能力」の場合は、特に有効な戦略である。
 これが軍事力や学力といった具体例とどう対応しているのかは、もはやお分かりだろう。しかし彼らは自分にとって最も合理的な戦略を取っているだけであり、おかしなことは何もしていない。
 むしろ、これらの理由も無いのに、自らの拠り所となる「能力」のものさしを必死に掘り崩そうとしている人がいたら、それはよっぽど利他的で献身的で正義感が強く社会改革に燃える善人に違いあるまい。(私が本稿を書いているのは、一義的にはそういう人に届けるためである。この長い文章をここまで読んで下さったあなたは、間違いなくそれに当てはまる人物だろう。仮に当てはまらなくても、今この瞬間からそれになって頂ければよい。)
 従って、真の意味で「能力」を攪拌する強い動機を持つのは『障害者』だけである。むしろ、それを以て『障害者』の定義としても良いくらいだ。 

◆『健常者』と『障害者』の利害が共通する点

  しかし、「能力」が攪拌されることによって利益を得るのは『障害者』だけではない。『健常者』も含めた社会全体にとっても、それは長い目で見ればプラスになる。もし適度に枠組みを揺るがす人がいなければ、ものさしの統合と強化が際限なく進行していき、オーウェルの世界に一直線だからだ。『1984』のような社会は誰も望んでいないだろう。
 つまり、切迫性に差はあれど、自然状態とオーウェルの中間の社会を「望ましい」「生きやすい」と感じるのは、『障害者』だけではない。相対的に強者の立場にある人、すなわち『健常者』にとっても同じであろう。
 従って『障害者』という存在を許容しうるだけの余剰と「能力」の永続的な攪拌が両立する社会こそが最も好ましい。

◆『障害者』は生産性や余剰には頓着しない

 ただし注意しておかなければならないのは基本的に「『障害者』は生産性や社会の余剰に直接寄与するわけでもないし、それらの事柄に頓着する義理も無い」ということだ。
 これは「生産性」という概念が「能力」のものさしを含む概念であり、また「能力」のものさしで社会において劣位にあるのが『障害者』であるという本稿の言葉の定義上、当然のことである*14
 『障害者』が社会に貢献できるのは、主に自らが劣位になるような「能力」のものさしを攪拌することを通じてであって、余剰を大きくすることを通じてではない。確かに上述のように余剰は攪拌と並ぶ社会の重要な成立要件ではある。だが、余剰を大きくするために汗を流すのは、一義的にはその時々の社会において主流をなす人々(マジョリティ)の仕事である。つまり「能力」のものさしにおいて優位にある人々であり『健常者』である。この両者の関係を「寄生する/される」と捉えるのは誤りだ。両者は細胞とミトコンドリアのような相利共生の関係にある。
 もっと言えば「余剰がどのように分配されるのか」「資本分配率と労働分配率がどのようになるのか」なども『障害者』からすれば知ったことではない。『障害者』が攪拌していくのは経済体制などという生易しいものではなく「能力」というものさしそのものなのだ。よって、『障害者』の立場が「資本家」と「労働者」のどちらの立場に近いか、などというフレームワークで捉えることは無意味である。

【皆さんにやっていただきたいこと】

 私が今から呼びかけることは、全ての読者に向けたものだ。つまりあなたが本稿を読んでくださっているのが、2021年であろうと2100年であろうと2200年であろうと、世界のどこの誰であろうと、『障害者』であろうと『健常者』であろうと、私はあなたに同じことをお願いしたい。
 その前提として、私たち人間は不本意ながら寿命や社会秩序などと折り合いをつけつつ人生を組み立てていかざるを得ない。その制約下で、生きている時代・社会の価値の枠組みの中において個人的に成し遂げたい目標もあれば、叶えたい夢だってある。「能力」のものさしを所与のものとして受け入れ、それを内面化し、自分を誇らしく思うこともある。
 これら全てのことは全く悪い事ではないどころか、私にとってもあなたにとっても、人生において大切な部分である。どうかまずは一人の人間として幸福に生きる事を最優先し、今日という日を生き延びてもらいたい。
 それを踏まえた上で、なお社会について考える余力が残っている方には、以下のことを各々の出来うる方法・範囲でお願いできれば大変ありがたい。

●本稿をたたき台にして「能力」や『障害者』について考えてみる。
●ほんの小さなことでも良いので、「能力」を攪拌する活動を実践する。

 それは少なくとも、直接的にあなたと同じ社会(/時代/地域/電脳空間/共同体etc...)に属する『障害者』を解放していくことだろう。そしてそれは巡り巡って、過去と未来に存在する全ての『障害者』への餞ともなろう。

【私にできること】

 私もまた、1993年の日本に生まれた一人の『障害者』として、 短い人生の中で成し得ることを成していきたい。とは言っても、何か団体を組織したり新たな社会運動を行ったりするつもりは全くない。私はもうやることをはっきりと決めている。
 それは端的に言えば「肯定形の文章」を通じて読者の価値観を転覆させることだ。任意の考え方(あるいは世界観・ものさし・作品など)「X」に対する「正しい批判」は何十通りでも何百通りでも、無限に存在するだろう。しかし否定形「not X」や「反X」はそれ自体なんら力を持たない。たとえそれがどれ程正当な批判であったとしても「not X」を唱える者が「X」を唱える者より偉いとか価値を持つということはあり得ない。否定形は決して首尾一貫した飽くなき情熱の源たりえない。社会を変えることはおろか、ただ一人の読者の心を動かすことさえも叶わない。

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 私は「自立」や「依存」という概念に画期的な変革をもたらした熊谷晋一郎氏(脳性麻痺を持つ医師)を深く尊敬している。これらの概念を批判するだけなら、彼以前にも無数の人が既にやってきただろう。彼の偉大さは、単に「自立」概念を批判しただけで満足するのではなく、それをもとに新しい肯定形の思想を打ち立てた点にある。つまり「自立とは依存先が分散している状態である」と定義し直したのだ。「自立」という概念を否定するのではなく、逆に「依存」を肯定するような形に換骨奪胎してしまったのである。
 価値観を転覆させられるのは愉快だ。私も彼のように「not X」を肯定形の「Y」や「Z」に昇華できる人間でありたい。そしてそれをもっと楽しく、分かりやすく、短く、感動的で、具体的で、新規性のある文章で提示したい。もちろん毎回それができるほど甘くはないし、狙って書けるものでもない。だが、ライターの仕事のうちのかなりの部分は、煎じ詰めればそこに行き着くのだ。その認識だけは胸に刻んでおきたい*15

 私は物心つく前から歩くことも右手を使うこともできない体だった。そのように生まれたというのは、単なる事実である。だが最近とみに考えるようになった。私はこの事実を自分の人生の中にどのように意味付けるべきか、ということをだ。私には『障害』を強みだと強弁することはできない。「他の能力でカバーしよう」とも言えない。否定するべき「健全者文明」なるものも、おそらくどこにも存在しない。私にできるのは、不可能性を不可能性として、「能力」の欠如を欠如として、劣位を劣位としてそのまま引き受け、虚心坦懐に直視し続けること。ありあわせの物語に回収されることを拒み、ただじっと留保し続けること。その中で見出した私なりの答えが肯定形の文章による「能力」のものさしの攪拌である。

 末筆ながら、あなたや私の「能力」の欠如が世界に豊かな可能性をもたらすことを願い、結びの言葉とさせていただく。

 では、健闘を祈る!

*1:石井三記「【資料】一七八九年フランス人権宣言試訳」より

*2:日本の障害者政策の根幹にある、「障害者」を認定・区分する等級制度の雛形は「兵士や工業力として国家に貢献する戦力たり得るか否か」を基準に明治期に形成された。その名残は2021年現在もなお、非常に色濃く存在している。
参考書籍『障害とは何か: 戦力ならざる者の戦争と福祉』藤井 渉https://www.amazon.co.jp/dp/4589038455/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_rEgYEbDRR7650

*3:若干話が逸れるが、社会全体を図るものさしで見ても、「自由」「平等」「民主主義」というたった3つの価値ですら、一つの国の中に並立することはなかなかできていない。トリレンマに陥っているような社会が殆どではないだろうか。

*4:共感性、人間味、コミュ力、などと読み替えても良い。全て殆ど同じものを指している。

*5:例えば「ポストヒューマン」「シンギュラリティ」「資本主義の外部」といったアイデアは非常に魅力的だが、『障害者』の解放はそれら抜きでも達成しうると考える。私はもっと地味で保守的な考え方しかできない。

*6:本稿ではその定義には立ち入らない。

*7:「共感性」「人間味」「コミュ力」などと読み替えても良い。同じことだ。

*8:もっとも「心理学そのものが問題を個人に帰責する性質を持つ」という批判は別途ありうるだろうが、本稿ではIQテストのみに的を絞る。

*9:もっとも、MENSAの入会テストが誰によってどのようなプロセスで作られているのかを知っているわけではないので、「民主的な組織形態を取る以上、発言力を高めれば作問にも影響を行使できるだろう」というのはあくまで想像に過ぎないのではあるが。

*10:この名称について私は素晴らしいアイデアを持っている。これについてはとても自信がある。

*11:これはなにも二大政党制だからという訳ではなく、おそらく比例代表制を採る国にも言えることではないかと思う。

*12:ここではホッブズの「万人の万人に対する闘争」程度のアバウトな意味で使っている。

*13:例えば『1984』の世界であれば「いかに望ましい思考回路から逸脱せずにいられるか(『ニュースピーク』や『イングソック』に適合できるか)」が唯一絶対の「能力」のものさしということになるだろう。

*14:当然ながら、大抵の社会では「能力」のものさしは1つではない。よって「身体障害者」が「頭脳労働」をしたり「知的障害者」が「肉体労働」をするといった、劣位でない部分の「能力」を使って社会の余剰や「生産性」に貢献することを排除するものではないし、現にいくらでも行われているだろう。言うまでもないことだが、念のため申し添えておく。

*15:なお、私が大切にしているもう一つの大きな軸は下記の記事に記してある。2つの軸をトレードオフと捉えるのではなく、なるべく高いレベルで両立していきたい。
fantastic dreamer - ダブル手帳の障害者読み物
 「今回も過去もこれからも、私が書く文章は、極論すれば誰にでも言える理想論でしかありません。改めて言われなくても皆が知識としては持っている、ごくありふれた倫理観です。しかしそれを完全に陳腐な綺麗事・何の手触りも残さない絵空事で終わらせずに、ほんの1%でも真実味を持って読者に受け止めてもらうこと。美しいけれど掴みどころのないふわふわしたものを、たとえ歪な形であってもずっしりとした存在感を放つ石に変えて、読者の心にねじ込むこと。それが私の仕事だと、最近思うようになりました。」