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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

暴力試論 ~車椅子を背後から転倒させて蹴るという行為について~

不完全燃焼なんだよ
意思表示なら手短かにやれよ
プロセスと結末にもう
愛想つかされてるみたいだ*1

  本稿では、制度化されていない「殴る・蹴る」といった狭義の「暴力」が、個人間の関係においてどのような意味を持つのかに絞って考察していきたい。

拡張され過ぎた「暴力」

 まずは、そのように限定する理由を述べる。今日、「暴力」という概念はあまりにも拡張され過ぎてしまった。「象徴的暴力」という考え方もあれば暴力を「コミュニケーションの一形態」として捉える考え方もある。それはそれで興味深い。しかし、暴力という切り口は多くの物事を説明可能な便利過ぎる言葉であるが故に、あらゆる議論に敷衍されてしまっている。森羅万象を暴力として捉えることすら可能に思える程だ。それは裏を返せば、誰もが「暴力」という言葉を自分に都合良く勝手に定義し、暴力論にかこつけて、それぞれ自分がしたい話をてんでんバラバラに展開しているということでもある。

 そのように無限に話を広げた結果、多くの議論は暴力が本来意味する「物理的な破壊力」それ自体についての話からは逸れてしまっている。暴力について論じると言いながら、いつのまにか虐待、DV、いじめなどの話になっている。そして多くの場合、論点はそこからさらに拡散していく。虐待やDVについて論じると言いながら、いつのまにかジェンダーや家庭制度、生殖といった話になっている。いじめについて論じると言いながら、いつのまにか発達心理学や学校制度、貧困の話になっている…といった具合だ。

 もちろん、これらは暴力と密接な関係にある。だがここまで来ると、もはや暴力について直接論じているとは言い難い。むしろ、論者が本当に話したいテーマに回収する前のいわば枕として「暴力」という言葉を利用している感が強い。

概念よりも「殴る・蹴る」

 もし本当に物事を暴力という切り口で捉えたいのであれば、より複雑で派生的なイシューにいきなり取り組もうとする前に、暴力そのものに真正面から向き合う必要がある。

 暴力を抽象的な概念として云々する前に、そもそも私たちは「物理的な破壊力」「殴る・蹴る」についてどれだけのことを知っているだろうか。概念を操作しようとする者は概念に操作される。もっと地に足が着いた議論をするためには、私たちが日常生活の中で実際に殴ったり殴られたり、蹴ったり蹴られたりすることで蓄えた、当事者としての実践的経験をつぶさに見ていく必要がある。従って、以後「暴力」という言葉はその意味に限定して用いる。

暴力の当事者としての経験

 とはいえ、私はあまり暴力を振るう側になったことが無い。ずるいと思われるかもしれないが、別に聖人だからではない。単に障害がかなり重い部類であるために、自分より弱い相手が少なく、物理的な破壊力を行使できなかったというだけである。

 反面、暴力を受けた経験については人一倍豊富だと思う。父親には毎日殴られていたし、教師にもヘルパーにも殴られたことがある。従って、私にも暴力の当事者として語る資格はあるだろう。

 しかし、本稿で取り上げるのは大人から受けた暴力ではない。小3の時にいた障害児施設で、私と同じ入所児童に車椅子をひっくり返され、蹴られた体験である。 それは私が今まで受けた中で最も純粋で、その本質が端的に現れた暴力であった。

A君の暴力

 その施設には様々な障害者がいた。A君は、少しぎこちないものの、車椅子を使わずに自力で歩けた。知的発達や発語能力にも障害があったが、とても聞き取りづらいとはいえ、短いフレーズをゆっくりと喋ることはできた。相手が話していることもある程度理解しているように見えた。

 この施設ではいじめや喧嘩が絶えなかった。A 君も日常的に何かとちょっかいを出されたり、酷いことを言われたりしていた。

 ある日のことだった。A 君は彼をネチネチと言葉でいびっていたB君の車椅子の後ろにおもむろに回った。そしてウィリーのように前輪を浮かせ、車椅子を倒した。 重力でベルトが外れ、B君は床へと投げ出された。次にA君はB 君を二度三度と蹴りつけた。 B 君や同じ部屋にいた子供は、怒るというより、予想だにしない事態に呆気にとられてしまった。

 というのも、この施設では障害児間の暴力はありふれていたが、 歩行者が車椅子の背後に回って横転させることは、やってはいけないような雰囲気があったからである。いくら怒って殴り合っていても、暴力を伴ういじめであっても、「流石にそれは無し」という暗黙の了解があった。A君以前の暴力というのは、いかに強力なパンチだったとしても、言わば管理された、形式的な、文化的な、制度化された暴力に過ぎなかった。プロレスの延長線上にある暴力と言ってもいい。つまりコミュニケーションという主たる目的に従属させられている、付属物に過ぎない暴力だ*2。だがA君の暴力は違う。

 A 君はその後もその行為を繰り返した。私もそのことを咎めた際に一度やられた。実際にやられてみると、受け身を取ればさほど痛くはないのだが精神的な打撃が凄まじい。それが本気の、剥き出しの暴力だったからだ。

 当然、車椅子の子供は皆口々に職員に被害を訴えた。だが職員には、 A 君の暴力が他の喧嘩やいじめでの暴力とどう違うのか分からないようだった。私達も上手く説明できなかった。結局、職員達はその都度A君に形式的に軽い注意を与えるだけで、よくある些細な小競り合いとして処理されていった。

 しかし、A君にやられた車椅子の子供は、彼の暴力の目新しさ、異質さ、恐ろしさを直感的に理解した。そして次第に彼と関わろうとはしなくなった。言い換えれば、A君が文句を言われたりちょっかいを出されたりすることもなくなったのだ。

 そして、彼の方もそれ以上のことは何も望まなかったし、一切関わってこなかった。彼を非難したりちょっかいを出す者には何回でもやるが、大人しくなった者には決してやらなかった。必要以上に危害や威圧を加えて楽しんだり、物を搾取しようとは決してしなかった。彼の暴力は無機質で、機械的で、常に必要十分なものだった。それがかえって怖かった。

 彼はその暴力を始めた頃からどんどん寡黙になっていった。そのため、どんな気持ちでいるのか結局誰にも分からないまま、彼は退院していった。従ってここからは想像になるが、私は以下のように解釈している。

A君は何を試みたのか

 おそらく彼は、自分ばかりがコミュニケーションコストを払い、相手に理解してもらおうとする営みに、ほとほと疲れ果ててしまったのではないだろうか。 彼は簡単な発語はできたので、入院当初はぎこちないながらも懸命に周りとコミュニケーションを取ろうとしていた。しかしそれだけコミュニケーションコストを払っても、彼が人間関係の中で尊重されたり優位に立ったりすることは決して無かったし、むしろ見下されていた。

 もし彼がめげずにコミュニケーションの努力を続けていたとしても、おそらく同様の状況が続いていただろう。私にも彼を軽く扱う気持ちが全く無かったとは言えない。彼も自分を取り巻くそうした状況を悟ったからこそ、コミュニケーションコストを払うことを拒否し、コミュニケーションそのものを断絶させる道を選んだのではないだろうか。

暴力の本質とコミュニケーション

 彼の振る舞いには余計な不純物が含まれていないぶん、暴力の本質を端的に表していると思う。それはコミュニケーションとは真逆の行為である。つまり「コミュニケーションコストを支払うつもりがないことを示し、コミュニケーションを強制的に断絶させる行為」である。

 だとしたら何故、暴力を「コミュニケーションの一形態」として捉える論がもてはやされるのか。それは多くの場合に暴力の後に続く「再び関係を結び直し、それを継続していく」という一連の行為までをも暴力に含めて論じているからだろう。その継続する関係というのが服従的なものであればそれは「いじめ」「虐待」「DV」等と表現される。ただそのためには、あくまで暴力を振るった側と振るわれた側がその後も関係を継続していくことが前提になる。暴力が単体でコミュニケーションとして成立するわけではないことに注意が必要である。

 これは「コミュニケーションの一形態」として論じられないような暴力について考えれば分かりやすい。例えば、金銭や快楽などを得るための手段に過ぎないような暴力や、相手を存在しなくしてしまうような暴力だ。言い換えれば、強盗、レイプ、殺人に含まれる暴力を「コミュニケーションの一形態」と捉える言説を、少なくとも私は聞いたことがない。

 まとめると、暴力は「そこに何をくっつけるか」で色々な行為に分類されるが、「コミュニケーションコストを放棄し、コミュニケーションを一旦断絶させる」という暴力の本質自体は、その後に何が続こうとも不変である。

暴力への対処法

 その原則論を確認することは、実生活で暴力に対処する上でも有益だ。暴力を振るう人(便宜的に「暴力者」と呼ぶ)は、仮に一時的であるにせよ、コミュニケーションを放棄し断絶させようとしているのだ。それに対して、暴力を受ける側や暴力を止めたい第三者が考えるべきことは何段階かある。

 まず、暴力者とコミュニケーションする必要があるのか。無いのであれば、逃げるか、防御を固めるか、制裁を加えて制止すれば良いだろう。それができないか、関係の継続を望むなら、暴力者とコミュニケーションする必要があるということになる。そのためには暴力者側に歩み寄るしかない。それは「一旦コミュニケーションを諦めた人に、どうにかして心を開いてもらい、コミュニケーションを再開してもらう」ためにコミュニケーションコストを払うということだ。

暴力の主体が感じるコミュニケーションコストの低減

 そのためには「いかにして暴力者が感じるコミュニケーションコストを下げるか」ということに尽きる。もちろん「暴力は悪」という道徳は絶対に忘れてはならない。だが、単にそれを振りかざすだけでは、暴力は減らないし、暴力に苦しんでいる人を助けることもできない。その現実から目を背けてはならない。暴力を思いとどまらせるような、コミュニケーションコストを下げるための実践的な手段を考えるしかないのである。私は常に「暴力者に媚びる」という方法のみに頼って生きてきたが、それはその手段のうちの1つに過ぎない。私にも、第三者にも、暴力を減らすためのもう少し賢い方法はあっただろう。

 そういった実践的な知見を蓄積するためにこそ、社会でもっと暴力について盛んに議論すべきだ。ソーシャルワーカーなどをはじめ社会福祉に携わる人々は、個々人の経験の中で、色々な知恵や工夫、技能を培ってきたに違いない。それらを体系化・理論化して広く世の中に共有すること。それが、社会学などの人文諸学に私が期待するところである。

*1:不完全燃焼 石川智晶 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

*2:ただし後述する通り、暴力自体がコミュニケーションの一形態だという意味ではない。