ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。

身体障害・精神障害の社会モデルとその違い

 私は身体障害と発達障害の両方を持っているが、身体障害者及びその周辺と発達障害者及びその周辺を比べた時、「障害の社会モデル」の考え方の浸透具合が全く違うことに驚かされる。

 身体障害者やその周辺(支援者・介護者・行政・医療関係者など)では、「障害の社会モデル」は現時点で広く共有されている。当事者団体の中では「障害は社会の側にある」という考え方は常識であり、周辺の健常者も殆どがそれを受け入れている。従って、障害を個人の側に帰し、身体障害者本人の意に反してリハビリや治療等の「自助努力」を強制されるようなことは殆ど無いと言っていい。それよりもむしろ「うまく人の手を借りながら自分らしく自己決定していく」「依存先を増やすことで生活の安定を図る」ことの方が推奨されている。

 それに対して発達障害の場合は、「障害の社会モデル」は驚くほど浸透していない。「発達障害者はまず甘えを捨て、医療機関による適切な治療・訓練はもちろん、極限までの自助努力・工夫を行うべきであり、その後初めて周囲に配慮を求めることができる。」という考え方が非常に根強い。社会だけでなく当事者の周辺、もっと言えば当事者の中でさえかなりの割合の人がこの考え方を内面化しているのである。

 このような身体障害と発達障害の間での「障害の社会モデル」の浸透度合いの違いは何故生まれるのだろうか。その手掛かりとなるのが、白田幸治, 2014,「障害の社会モデルは解放の思想か?―精神障害のとらえがたさをめぐって―」*1である。この論文では発達障害だけでなく精神障害全般を扱っているが、議論の枠組みとしてはそのまま使えると考える。以下に白田の論文を私なりの解釈で簡単に要約する。身体障害においてはインペアメントもディスアビリティも比較的明確であり、インペアメントが社会制度によってディスアビリティとなるという図式もあてはめやすい。従って、「インペアメントがあっても社会制度を変えることによってディスアビリティを取り除くことができる」という「障害の社会モデル」を適用することができる。ところが精神障害では何がインペアメントで何がディスアビリティなのか判然としない上、それらは互いに混じりあい、境界や因果関係や関連性もはっきりしないため、「障害の社会モデル」を単純に適用することはできない。加えて、身体障害のインペアメントが「手足が無い」「目が見えない」などの比較的分かりやすく誰の目にも明らかな形で表れるのに対し、精神障害者と定義されるにはそもそも医者(治療者)による診断が必要であるから、どこまで行っても治療者の影響力から脱しきれず、治療モデルからも脱しきることができない。
 以上の白田の議論には私も全面的に同意したい。付け加えるならば、精神障害において社会モデルが浸透しない理由は更に二つあると思う。

 一つ目は、精神障害者の、問題とされる行動なり態度が、障害によって引き起こされたのか、障害以外の当人のパーソナリティによって引き起こされたのかを峻別することの困難さである。一人の人格の中から「障害の部分」と「障害以外の部分」を切り分けることなど本当に可能だろうか。仮に可能だとして、精神障害が当人の人格形成に影響を与えている場合、どの程度当人に帰責性があるのだろうか。こうしたことを考え出すと非常に面倒なので、「精神障害は全部甘え」ということで一括りに断罪されやすい。

 二つ目は、精神障害の概念が、「自分の意志は自分のものであって自分の自由にできる。よって自分の意志に責任を持つべき。」という近代社会のそもそもの前提を掘り崩すことへの抵抗感である。では自由意志とは何だろうか。

 意志の元となる自分の脳も身体も、遺伝と環境によってできている。遺伝も環境も当然自分ではコントロールできない。「環境は自分の意志で変えられるではないか」という反論もあるかもしれないが、その自分の意志も遺伝と環境によってできている。つまり人間に自由意志など無い、以上!という考え方もできる。しかしそれでは「責任を持った個人」が存在せず、法律、契約、刑罰なども全て無効になってしまい、現実的に社会を成り立たせることができない。そこで、一応「責任能力を持った個人」という概念を便宜的に作り、「脳みその中のことはその脳みそを持つ人の責任」ということにして何とか社会を成り立たせているのである。

 ところが、精神障害という概念はそうした社会のお約束をいわば無効にしてしまう。そうした前提に加えて「精神障害は社会が生み出すものであるから、合理的配慮をしなければならない」「精神障害者を無理矢理治療しようとしてはいけない」と言われれば、自らを精神障害者ではないと自認している者からすれば「一体どこまで譲歩すればいいんだ」と感じられるのかもしれない。今後社会の変化に合わせて「新しい障害」が「発見」される度に同様のコンフリクトが繰り返されていくのだろう。

 以上の議論を踏まえると、精神障害の社会モデルが浸透していくにはまだまだ時間がかかると思われる。

 身体・精神両方の手帳を持つ者として私が一つ残念に思うのは、身体障害者と精神障害者がしばしば対立しがちなことである。当事者団体同士も多くの場合あまり仲が良くないと聞く。身体障害者から見た精神障害者は「ただでさえ少ない福祉の予算や障害者雇用率のパイを奪いに来た、甘えた健常者」と映る。逆に精神障害者から見た身体障害者は「長年にわたって健常者から優遇され、利権を独占してきた既得権益者層」と映る。確かに、一部利害が競合する面もあるだろう。だが、身体障害者には身体障害者の、精神障害者には精神障害者の生きづらさがある。だからこそ互いを理解する努力をしなくてはならない。その努力なくして、共生社会の実現などと主張する資格は無い。*2

*1:http://www.r-gscefs.jp/pdf/ce10/sk01.pdf

*2:私が当事者でないため、本稿では知的障害には触れなかった。また別の機会に「大学入試と知的障害者」というテーマで論じたい。

アニメの中の障害者キャラクター

 私は重度障害者のアニオタだが、もっと障害者がアニメに何の理由もなく出てくるようになってほしい。そこで、本記事ではアニメにおける障害者キャラの取り扱いについて考察する。

 まず、日本のアニメに出てくる障害者のうち、殆どは後天性の障害者である。何かの事故で、あるいは事件や戦いの中で傷を負い、障害者となるパターンが圧倒的に多い(コードギアスのナナリーなど)。このパターンだと、障害を持っている理由を簡単に説明できるうえ、過去のトラウマ・因縁との対決という図式で話も作りやすい。つまり対決すべき暗い過去としての障害である。

 稀に先天性の障害者が出てくることもある。だがそういう場合、大抵は障害と引き換えに超人的な能力を持っている(例:盲目だが敵の気配を全て察知する剣士など)。いわゆる強キャラポジションである。この場合、障害はキャラの強さに対する箔付けや、キャラの能力をピーキーにするための理由付けとして用いられる。

 もちろんこれらが悪いと言っているわけではない。私もアニメの様式美は大好きだ。だが、私達現実の先天性障害者は、対決すべき過去によって理由付けられて障害者になったのではないし、障害と引き換えにチートじみた能力を手にしてもいない。そんな普通の障害者が、何の理由もなくアニメに登場してもいいのではないか。

 そういう意味で放送前から非常に注目していたのが「結城友奈は勇者である」の東郷美森である。彼女は特に何の説明もなく車椅子に座っており、他の登場人物からも当然のように受け入れられ、介助されていた。これを見た時私は「とうとう日常系アニメにも先天性障害者が当たり前に出る時代になったか!」と興奮したのを覚えている。(以下ネタバレ)ところが話が進むにつれて結局東郷美森の足が動かないのは過去の戦いの代償であることが分かり、最終話ではその呪いも解かれてスタスタ歩けるようになってしまう。これには大変がっかりした。(ネタバレ終わり)

 アニメにおける障害者の扱いを考える上で大変示唆的なのが映画「聲の形」である。聴覚障害者のヒロイン西宮硝子の内面は非常に分かりにくい。考えれば考える程、何を考えているか全く分からないキャラである。ところが、周りの健常者のキャラクターはそんな硝子から勝手に思い思いの分かりやすいメッセージを読み取り、いじめたり、怒ったり、泣いたり、同情したり、好きになったりと大わらわである。障害者自身が何も言ってないのに、周囲の健常者が勝手に本人の意思を読み取って本人そっちのけで大騒ぎするというのは現実でも頻繁に起こることである。実際、この映画をめぐっては「感動ポルノか否か」「障害者差別か否か」という議論が当の聴覚障害者そっちのけで白熱した。「聲の形」はそうした現実を端的に戯画化した秀逸なメタ批評的コメディ映画と言えるだろう。

 さて、私はこの「聲の形」のストーリーやそれを巡って巻き起こった議論の中にこそ、アニメに障害者が出てこない理由が隠されているように思う。つまり、障害者を登場させると、望むと望まざるとに関わらずそこに勝手に文脈が付与されてしまう。周りのキャラも視聴者もそれに振り回され、ストーリーと関係ないところで盛り上がってしまう。「キャラクターのうちの一人」にとどまることができず、作品全体を引っ掻き回してしまう。特段障害をテーマにしていない作品にとってそれはマイナスにしかならない。だから理由もなく障害者を登場させることはできず、登場する際には何らかのエクスキューズを付け、その中にキャラの影響力を封じ込めなければいけないのである。

 私には夢がある。一つ目は、きらら系アニメの登場人物に障害者枠を設けること。障害者の日本国民に占める割合は約7.4%である*1。この現実をアニメに反映させるならば、きらら系アニメの1作品あたり平均登場人物数を仮に7人程度とすると、2作品に1人は障害者キャラが登場せねばおかしいということになる。当然障害者キャラに対しては合理的配慮義務が生じるから、例えば車椅子のキャラがいる場合はきららジャンプなどもってのほかである。厳しすぎると感じる方もおられるかもしれないが、芳文社が持つ社会的影響力の大きさを考慮すればこの程度の道義的責任は引き受けて然るべきだろう。共生社会の実現に向け、きらら系アニメにもダイバーシティを取り入れることを求めたい。

 二つ目は、いつか登場人物が障害者ばかりのきらら系部活アニメが出てくることである。肢体不自由者、視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、精神障害者等々、これらの人々はそれぞれできること、できないことが違う。それが一つの部室で過ごすのだから、必然的にお互いに助け合うことになる。濃密な関係性が生じる。そこに百合の可能性がある。例えば、車椅子を押してあげる、手話で話す、掌に指文字を書いてあげる、これらは立派な百合行為(関係性をつくること)なのだ。百合のフロンティアはここにある。

障害者が簡単に作文コンクールに入賞する方法

 私は作文や読書感想文のコンクールで県最優秀賞を三回取ったことがある。ただ、何か中身のあることを書いたわけではない。今読み返してみても寒気がするほど薄っぺらい内容だ。裏を返せば内容が薄くともポイントさえ押さえれば、この種のコンクールにおいて障害者は圧倒的に有利なのだ。以下にポイントを解説する。

①「自らの成長」を必ず盛り込む

 障害者に限らず、この手のコンクールで好まれるのは「体験なり読書なりを通じて成長させられた(大事なことに気付かされた)」というストーリーである。もっと言えばこの基本構造を抑えない限り評価されないと言っても過言ではない。例えば大学のレポートなどでは「あなたの体験はどうでもいいから対象についての客観的かつ論理的な考察を書け」と指導されると思うが、こと作文コンクールにおいては真逆である。どれだけ客観的で優れた論評を書こうとも、それは「学生らしくない(可愛げがない)」と見なされるだけである。いかに自分の体験に結び付け、成長という物語をでっち上げるかが鍵になる。

②障害者であることに言及する

 ①で述べたように自分の体験と結びつけることが必須である以上、その体験の目新しさが作文の評価に直結することになる。ここで障害者であることが効いてくる。障害者は応募数自体が少ないから、それだけで審査員の目を引くことができる。加えて、健常者では書けないような体験をいくらでも引っ張ってくることができる。これは大きなアドバンテージである。実際、私が県最優秀賞を獲った三つの文章には全て障害者としての体験が盛り込まれている。

③障害を文章の「主題」にはしない。あくまでさりげなく触れる。

 注意したいのは、障害を文章の「主題」にしてはいけないことである。主張が強いのは嫌われる。例えば、「この障害者を差別する社会を当事者運動によって変えていきたい」というような内容は生意気だと見なされて評価されないだろう。

 大事なのは、あくまで①の作文の基本構造を守ったうえで、その構造を補強する形でさりげなく障害のことを持ち出すこと。「障害がある私にとって〇〇というテーマは他人事ではない。というのも、以前××(障害に絡めたエピソード)ということがあったからである。しかしこの体験(本)を通じて、□□の大切さに気付くことができた。」という具合である。あくまで「たまたま主題に沿っていたから障害のことを出したんですよ」という体で行かなければならない。

 この「主題」というのはどれだけ陳腐で浅い内容でも構わない。私の作文を例に出すと、「目標を持つことは素晴らしいことだ」とか「他者とつながろうとする心が大事だ」といったことが主題であった。とにかく学校の先生が喜びそうな意見なら何でも良い。

まとめ

 以上を守れば、かなりの確率で良いところまで行けると思われる。文章力に自信がないという人も全く問題ない。国語の先生に徹底的に添削してもらえばいいのである。国語の先生というのはいわば作文を読むプロであるから、審査員の心をくすぐる方法もたくさん知っていることだろう。

 大事なのは、決して中身のあることを書こうなどと思わぬことである。「作文コンクールとは一つのゲームである」と捉え、ハイスコアを目指して存分に楽しんで欲しい。

キャリア官僚無内定者の官庁訪問狂騒曲

 この記事では、関西の大学から国家公務員総合職試験に合格し官庁訪問で全落ちした私が、官庁訪問のことを中心に採用プロセスで印象に残った諸々を書いていきます。

 まず、国家総合職試験や官庁訪問のあらましについては総合職試験採用情報|国家公務員試験採用情報NAVIをご覧ください。私が国家総合職(以下、官僚)を目指していたのは3年前なので体験談と現行制度に食い違いが生じるかもしれませんがご了承下さい。また、本記事は伝聞情報を多く含みますが、その正確性は保証いたしかねます。本記事を参考にされた結果生じたあらゆる事象に対して一切責任は負いかねますのでご了承下さい。

 

官庁訪問前

1.大学歴編

  • 内定者のプロフィールを見ていれば分かりますが、東大卒が減ったとはいえ、官僚になりたいのであれば少しでも偏差値の高い大学に行く方が無難です。感覚で言うと内定者のうち東大が40%、京大が20%、他旧帝大が20%、早慶が15%、その他5%ぐらいだと思います。
  • 東京近辺の大学出身者に集中しないよう、地域枠がある省庁が多いと言われています。東北大、名古屋大、九州大、北大はその恩恵を受けられますが、阪大や神戸大は京大が近くにあるためその恩恵を受けることができません。
  • 省庁による説明会は関西だと圧倒的に京大でやる回数が多いです。一度「他の大学でももっとやって欲しい」と伝えたところ「単純に官僚になる人の中に京大出身が多いからそうしてるだけ。他意はない。」と堂々と言われました。だからといって京大でやりまくってたらますます京大生に偏るのではと思いますが、言っても仕方が無いので諦めましょう。私は京大生ではありませんでしたが一生懸命京大に通い、説明会には殆ど全部出ました。
  • 東京近辺の官僚志望者の情報ネットワークは非常に発達していると聞きます。また、東京の大学生は官庁訪問にも実家や下宿から直接アクセスできますから金銭、時間、精神面で圧倒的に有利です。そう考えると官僚志望者は一浪してでも東大に行く価値はあると思います。

2.京僚会

  • 関西の官僚志望者グループを「京僚会」と言います。官庁訪問対策のために志望省庁別に勉強会を行うのが主な活動です。ここで様々な非公式情報がやり取りされるため、京僚会に入らないという選択肢は事実上ありません。どの大学の学生でも入れますが、団体名の通りその中心はやはり京大生であり、勉強会も殆どが京大で開かれます。私も一時期は自分の大学より京大に通う回数の方が多いくらいでした。ただ元々京大生を母体にした組織でしょうから、そこに入れてもらっているという立場上文句は言えません。
  • 勉強会でリーダーシップの労を取ったり、しっかり準備をして皆にとって有益な情報を共有しようという人はやはりよく内定を取っていった印象があります。

3.内定者の実像

  • 京僚会や各省の説明会では、前年度内定者の合格体験記がもらえます。これを見て官庁訪問の情報を学ぶわけですが、生存者バイアスの塊のような読み物なのであまり真に受けすぎないようにしましょう。
  • 当たり前ですが意識が高い人が多いです。良く言えば高い志がある、悪く言えばメサイアコンプレックス、自我が肥大気味。「日本を救いたい」「一緒に日本を良くしていきましょう」ぐらいはバンバン言います。まあ超絶劣悪過労死上等の職場環境にわざわざ飛び込んでいこうとするのだから、それぐらいの気概がないとやっていられません。少なくとも入省時点では、世間の官僚のイメージとしてあるような、保身のみを考え私欲のままに権力を貪ろうという人達では全くないです。特に防衛省内定者などは凄くて、「日本を守るために生まれてきた」と平然と言ってのける人もいました。
  • 帰国子女が意外と多い。「海外生活で、世界から見た日本の立ち位置や特性を客観的に把握するとともに、日本人としてのアイデンティティに目覚め、自分が日本を良くしていきたいと思った」という志望動機を作ってくるパターンが多い。
  • 当時(今も続いているのかもしれない)はどの省庁も元々低い女性の比率を上げるために女性を積極的に採用していました。それもあってか内定者には女性も多いです。「女性の方が官庁訪問で圧倒的に有利」というのが暗黙の了解であり、中にはそれに反発する男性もいました。

官庁訪問

独特の熱気
  • 官庁訪問には全体的に謎の熱気があります。たとえるなら甲子園のような感じです。官庁訪問には決まり事や形式的な儀式、手順、言い回しが多く、それが一種のゲームのような雰囲気を作り出すのだと思います。 
官庁の序列
  • 当然ですが、一般的に受験者は志望度の高い官庁から回り、官庁は早い日に来た受験者ほど優遇します。その結果として各官庁の人気に応じて自然と内定難易度の序列が生まれ、難しい順に、1日目官庁(1日目に訪問しないと採用されにくい官庁)、2日目官庁(2日目までだったら十分可能性がある官庁)、3日目官庁(3日目に回っても十分可能性がある官庁)と呼ばれています。時代によって変わると思いますが、私の頃は概ね以下のような感じでした。それにしても、官庁によって扱う政策分野が違うのに官庁間で序列ができるというのは考えてみると不思議ですね。

   1日目官庁…総務省、外務省、財務省、経済産業省、警察庁

   2日目官庁…内閣府、文部科学省、厚生労働省、国土交通省

   3日目官庁…人事院、会計検査院、農林水産省、環境省

控室
  • 官庁訪問で一番滞在時間が長いのが控室です。この控室から面接に呼ばれ、終わればまた控室に帰っていきます。文部科学省の控室にはウォーターサーバーがあって、緊張をごまかすために水を飲みまくっていました。そしたら圧倒的な尿意に襲われ、まさにその瞬間に面接に呼ばれ大変困りました。財務省の控室にはお菓子やジュースがあって飲食自由だったのでひたすら貪っていました。ただしその姿も当然職員にチェックされています。
面接のシステム
  • いつ呼ばれるかや1日に呼ばれる回数などは人によってまちまちで全く分かりません。さっき呼ばれたからしばらく呼ばれないだろうと思っていたら急に呼ばれたり、逆に2、3時間くらい呼ばれないこともあります。常に緊張を強いられるのできついです。それが場合によっては23時頃まで続きます。
  • 面接には原課面接と人事面接の二種類があります。原課面接とは、人事ではなく実際に各課で仕事をしている職員と、主にその職員が担当している政策分野について意見を交わすというものです。人事面接は、その名の通り人事担当者と主に受験者自らのことについて話すというものです。特に原課面接は、高く評価している受験者ほど役職が高い職員が対応します。従って、中盤になっても係長クラスにしか会えなかったり、面接者の役職が前の面接より下がったりすると、死にそうな気持ちになります。
色々な人々
  • 控室にいる間は必然的に他の受験者と顔を突き合わせることになります。大体の受験者は面接で聞かれた内容をシェアしあうなど協力し合いますが、中には、ライバルを利することをしたくないからか、絶対に面接内容を話さず孤高を貫く人もいます。ライアーゲームみたいで面白かったです。
不採用の瞬間
  • 普通に面接に呼ばれる場合は「〇〇さん、こちらへお越し下さい」と言われるだけですが、不採用を告げられる場合だけ「〇〇さん、『荷物を持って』こちらへお越し下さい」と言われます。そして呼び出された先で「残念ながら〇〇さんの採用の可能性は低くなりました。今後は他の省庁も回られてはいかがでしょうか。*1と極めて遠回しに不採用を告げられます。だから「荷物を持って」は受験者にとって恐怖のワードです。熱く政策を語り合っていた相手が「荷物を持って」と言われた時の泣きそうな表情。そして自分が「荷物を持って」と言われた時の、周囲の受験者に浮かんだ表情。それは気まずさ、同情、自分は逃れたという安堵感、そしてライバルが減ることへのかすかな喜び、そういった複雑な感情が入り混じったなんとも言い表せないものでした。今でも脳裏に焼き付いて離れません。
出口面接
  • こうした肩たたきを逃れて一日の終わりまで生き残った者は、出口面接を受けることになります。ここで、その時点での受験者に対する評価が伝えられます。私は「採用プロセスは順調です。」と言われました。これではどういうことかさっぱりわかりませんので、括弧書きで補足すると、「採用プロセス(お前を落とすための手続き)は順調(お前の評価は順調ではないけどな)です(お前の評価に言及しない時点でどういう評価かは察しろ。まあもう限りなく駄目だけど一応残しておいてやったわ。あまり期待しないでね)。」という意味です。岡田彰布元監督並に情報量を圧縮した発言です。この含意は事前に情報を仕入れていなかったら全く分からなかったと思います。私はアスペルガーなので、「お前はもうほとんど駄目だけど一応次回も来いや」とはっきり言ってくれた方がありがたいです。ちなみに、だいたい評価が高いほど次の回に朝早く集合させられます。
職員と会食
  • 財務省では職員さんが受験生何人かを昼食、夕食に連れて行ってくれました。こういうことは時々あるようですが、これも採用過程の一部と考えると何も喉を通りません。あと、これに呼ばれたから有望とかいうことは全くなく、私はその後普通に落とされました。
採否を分けるもの
  • 内定者も無内定者も口を揃えて言うのが「官庁訪問は運ゲー」という言葉です。それくらい採用基準が不透明で、「人物本位」の名の下に全てが謎に包まれています。合格体験記を見れば見るほど分からなくなってきます。志望動機も適当で良い。知識もなくていい。論理性とかもあんま関係ない。席次も関係ない。じゃあ何なのか。あらゆる体験や伝聞を踏まえたうえで身も蓋も無い良い方をすると、「定型発達力」だと思います。発言や挙動が何となくキモくないこと。正常な感じを抱かせること。違和感、不快感、「まともじゃない」という感じを抱かせないこと。これが民間にも増して重視されていると感じました。

後から思ったこと

千里眼の持ち主

 当時の官僚志望者仲間に、物凄く優秀で、誰が見ても採用されるであろう女性がいました。彼女は文部科学省と某X省で迷っていたのですが、文部科学省が官庁訪問前に優秀な彼女を囲い込もうとして事前面接を行ってきたのです。当然、こうした事前の選考活動を疑われる行為はルール違反ですが、それだけ高く評価されているわけですから、私だったら絶対に文部科学省に心が傾くと思います。ところが、彼女は逆に「教育を司る官庁が陰でそういうことをやることに失望した。」と言って、囲い込みをしてこなかったX省を第一志望に切り替え、見事内定を勝ち取りました。

 その約一年半後、文部科学省に天下り問題が発覚して、私は彼女の慧眼に改めて感心しました。採用のルール違反から彼女が「文部科学省の人事は一事が万事この調子なのではないか」と考えたのならば、それは見事に当たったわけです。更に一歩踏み込んで「人事がそのような調子ならば自分も入庁後公正に評価されるか分からない」と考えたのかもしれません。いずれにせよ、とかく受かることがゴールになりがちな官庁訪問でそこまでの長期的視野に立って考えられるというのは、やはり優秀だなと思いました。

原課面接を行う職員のやる気

 自分が働き始めてから分かったのですが、人事課以外の職員にとっては誰が新規採用されようがそこまで関心がありません。次年度に自分の部署に新規採用者が配属される可能性は高くはないし、仮に配属されたとしてもそれは数ある人事異動の中の一つにすぎません。異動してきた新しい人が何人もいる中に新規採用者もいるというぐらいで、何ら特別視することではありません。

 そう考えると、原課面接を任された職員はどのようなモチベーションだったのか気になります。今まさに面接している受験者が、採用まで到達し、なおかつ次年度に自分の部署に配属され、なおかつ自分の仕事に関与してくる確率など、針の穴より小さいでしょう。そもそも原課職員はクソ忙しく、こんな面接は早く終わらせて通常業務に戻りたいはずです。つまり真面目に受験者を評価するインセンティブは何も無いのではないでしょうか。私だったら鉛筆を転がして適当に評価を決めるかもしれません。そしてそれに近いことをやっていた職員は相当数いたのではないでしょうか。仮にそうだとすれば、それが受験者の人生を左右することに面白味というか、運命のいたずらを感じずにはいられません。

*1:省庁によって細かいバリエーションはあるだろうがだいたいこんな感じ

VRと障害者 ―インターネットを侵食する肉体―

 私はVtuberが大好きである。ときのそら、富士葵、もちひよこ、ねこます、芙容セツ子、輝夜月、スズキセシル、つのはねあかぎ…(敬称略) 好きなVtuberの方々は他にも数え切れないほどいるが、私が最も感銘を受けた動画はこれである。


誰もがなりたい自分になれる時代 / バーチャルとファッション【neralの難しくない話】#002

 淡々とした語り口でありながら、聴く者の心を激しく高揚させる。天才的イデオローグとしか言いようがない。

 詳しくは是非neral氏の動画をご覧頂きたいのだが、私が感動したのは「生まれ持つ体は選べないのに、それを”ありのままの自分”として愛せるべきだって考え方も疑問だなって」「選ぶことのできない生まれ持った体を愛せなくてもそれは悪じゃないはずです」「むしろ、自分の意思が何ら反映されていないものの責任を取らされて、生涯有利になったり不利になったりしていることのほうが理不尽なんじゃないか」というくだりだ。私は脳性麻痺によって奇妙に湾曲した肉体に生まれ、そのことを絶えず父から責められ、自分でもこの醜い容姿が嫌で、そう思ってしまう自分はもっと嫌で、ずっと苦しんできた。そんな私が、neral氏の説く「バーチャルやファッションによって肉体を乗り越え、魂の姿になることができる」という思想にどれだけ勇気づけられたかは、言うまでもないだろう。私はVRに駆り立てられた。Vtuberになるぞ。VRChatに入るぞ。今すぐこの汚らわしい肉体を打ち払って、魂を解放せねばならない。

 しかしそこで私はハタと気付いた。私がVIVEやOculus Riftを買ったとして、一体どこにトラッカーを付けるというのだ? 私の体のうちわずかでも動くのは頭と左手だけである。それ以外の場所にトラッカーを付けても、麻痺で物理的に動かないのだから意味がない。なんということだろう、私はVR上でも自分の肉体から逃れることはできず、依然として障害者だったのである。

 この時、私はVRブームには「魂の肉体からの解放」とは真逆の側面があることに気付いた。それは「インターネットへの肉体の侵食」である。

 元々黎明期のインターネットでは文字のやり取りが中心であった。それが徐々に画像、音声、動画、とやり取りできるデータの種類が拡大し、VRに至っては「三次元の肉体の動きそのもの」を「望んだ姿で」リアルタイムにやり取りできるようになったのである。この「望んだ姿で」という部分に着目すれば「魂の肉体からの解放」という捉え方になるが、私はあえて「三次元の肉体の動きそのもの」をやり取りしているという部分に着目したい。

 そもそも、VRが登場する前から、人々は様々な手段でインターネット上で自己表現をしてきた。テキストサイト全盛期には文章を書き、画像のやり取りが容易になれば絵を描き、動画サイトができてからは音楽や映像を制作してきたのである。言い換えれば、身体的な情報が制約された中で、文字、絵、音、映像等のフィルターを介して自己表現をしてきたのである。*1

 ところが、VRChatやVtuberのClusterライブで交換され、消費されるのは、目の前で行われる「身体の動き」そのものである。VRChatのアバターやVtuberが動いている時、その裏側では必ずアクター(中の人)も肉体を動かしている。ネット上のコミュニケーションと生身の肉体の運動がここまで強く直接結び付けられることは今までなかった。「肉体がネットを侵食する」新たな時代が幕を開けようとしているのである。そしてこのことは、私のような重度身体障害者から見れば、文字、絵、音、映像等のフィルターを介して交流していた時代のインターネット上においては無効化されていた「健常者との肉体的差異」が、VR技術(トラッキング)により顕在化することをも意味しているのである。*2

 さて、以上のような考察を経て私が選んだのは、「ブログ(文字)という肉体的差異が無効化され健常者と対等に渡り合える土俵で、あえて身体障害のことを書く」という方法だった。魂が肉体に屈服するのでも、魂と肉体を切り離すのでもない。どこまで行ってもこの肉体からは逃れられないのだ。それならばいっそのこと、生まれてから今までこの肉体に苦しめられてきた経験を自伝としてコンテンツに昇華してやる。この肉体を魂の満足のための道具として徹底的に使役する。それが私なりの肉体への復讐であり、肉体との折り合いの付け方なのである。

*1:リアルYoutuberについては別の機会に考察したい。VRブームは私のようないわゆるオタク層にも身体性を持ち込んだ点がリアルYoutuberと比較しても新しい点として挙げられる。

*2:もちろん障害者にとってプラスの面もある。それは体験できるものが増えること。先日はOculus Goでエベレスト登頂体験をした。VRがなかったら身障者がこんな経験は絶対できなかっただろう。

障害者雇用率水増し問題に関する戦いの記録

 本記事では、障害者雇用率水増し問題に関して私が各所に働きかけた結果をまとめておこうと思う。何か世の中に異議申立てしたいという人の参考になれば嬉しい。

 はじめにこの問題についての私の主な主張を再度まとめておく。

 私は、官庁訪問を経験した障害者として、

  1. 水増し期間中に官庁訪問した全ての障害者に対し、再度官庁訪問の機会を与えるべき。
  2. 不足が明らかになった約3400人分の障害者を今後雇用する際、可能な限りプロパーの職員として政策立案に携わらせるべき
  3. 国家公務員採用において障害者枠を創設すべき

の3点を主張した。詳しくは下記エントリを参照頂きたい。

 

double-techou.hatenablog.com

  私にはコネも何も無いので、影響力のありそうなところに片っ端から自分の主張をメールで送った。その結果を下にまとめる。

①マスコミ

朝日新聞

 一番親切だった。すぐに電話取材があり、結果として8月28日の朝刊で匿名ではあるが長めに取り上げて頂くことになった。

www.asahi.com

 国家総合職試験に受かって官庁訪問した障害者が実際にいたということ、また障害者の政策立案への関与という論点を世の中に示せたことは、今後障害者の採用制度を検討する国への牽制という一定の意義があったと思う。この記事でTwitter検索を掛けると多くの人が反応しており、落ちぶれたと言われつつも新聞社の影響力はまだ大きいことを実感した。また、「この記事に出てくる国家公務員志望者です」という形で自己紹介すると各種団体の食いつきも格段に違ったので、名刺代わりになるという意味でもこの記事は良かった。

 朝日新聞は他にも、後述する弁護士の紹介など非常に良くしてくれた。

NHK

 一回簡単な電話取材を受けたが報道には至っていない。いつかこの問題で特集を組むと思うので一度正式に取材する機会があるだろうと言われ続けていたが、これは取材対象をキープするための方便であって、今後何かの報道に繋がる可能性は薄いと思われる。向こうも暇ではないので仕方がない。

 芸が細かいと感心したのは2点。私の出身大学を見抜き、同じ大学出身の記者をぶつけてきたこと。こちらから電話を掛けると、必ず「電話代がかかってはいけないのでこちらから掛けますね」と言うこと。取材対象者の心証を良くするためにはこれぐらいのことは朝飯前なのだろう。

②障害者団体

日本盲人会連合

 私は視覚障害者ではないにも関わらず、声明文に私の主張を大幅に取り入れて下さった。

nichimou.org

 特に2,7番については私の主張が色濃く反映されている。6,8番についても私の考えと一致する。この声明文ができるまで、日本盲人会連合の関係者とは緊密に文案をやり取りし、本当に真摯に私の意見を聞いて下さった。

 また、野党合同ヒアリングが今後もある場合には私の主張も代弁すると仰って下さった。心から感謝したい。

日本障害者協議会

 厚生労働省が通報専用窓口(https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_01335.html参照)を設置したことを教えて頂くなど、良くしてもらった。ちなみに通報窓口には早速私の主張を送っておいた。

③政党

 野党5党にメールを送信した。共産党から赤旗の記事を紹介する事務的な返信が来た他は、一切無反応だった。個人で政党を動かすのは無理だということが分かった。居住する選挙区の議員個人と普段からコネを作っておいてそこに働きかけるという方が現実的だろう。私にはそんなコミュ力は無いが。

④弁護士

 本稿冒頭の1の主張の実現には訴訟も必要と考えたので、弁護士も探してみた。まず弁護士会の無料相談を使ってみたが、国に対して訴訟をする弁護士は少ないということで紹介してもらえなかった。やはり対国の訴訟は、勝ち目が薄い、大変な労力が掛かる、といった理由から旨味が少なく、誰も受任したがらない傾向にあるらしい。法テラスは資力要件で利用できなかった。自分で法律事務所に電話しまくったりもしたが殆ど相手にされなかった。

 結局、朝日新聞の記者から紹介してもらった弁護士に法律相談(1時間1万円、税別)を依頼した。言われた内容としては、やるとすれば実名を出して記者会見し、同じ境遇の人々を集めて集団訴訟をする流れになるだろうということだった。勝訴の見込みは薄いが社会的意義はあるとのことだった。

感想

 私のようにコネもコミュ力も無い一障害者でも、手当たり次第にコンタクトを取れば大きなアクターを動かせることもあるということは大きな発見だった。また、今回はメールと電話のみを武器として活動し、こうした昔ながらのやり方がかえって効果的な場合もあるということが分かった。SNS以外にも世の中に物申す方法はあるので、参考にしてほしい。

 ただ、これらの活動を個人でするのは予想外に時間を取られる。ここ数週間は本当に忙しく、仕事との両立のために寝食の時間も削ることになった。活動団体や専業の活動家というものの存在意義が少し分かった気がした。

今後の展望

  • もし訴訟をするのであれば、実名を出し、現在の職や社会的地位、平穏な生活を全て捨てて訴訟にコミットする覚悟が必要になる。加えて最低でも数十万の裁判費用も必要になる。全てを賭けて国と対決するか、一生FAKE野郎で終わるかという究極の選択を迫られている。しかも世間はどんどんこの問題を忘れていくので、やるとしたら今でないと社会的意味がない。胃が痛い。
  • それより穏健な方法として、人事院や厚生労働省に私の主張を送り、その回答を公開して世論を喚起するという方法が考えられる。

重度障害者の民間就活事情

 本題に入る前に、先に私のスペックを書いておきます。私は脳性麻痺で身体1級の重度障害者です。脳性麻痺のため、歩くことも、支え無しで立つこともできません。常に電動車いすで移動します。上半身にも麻痺があるため、背筋は湾曲し、右手も自由になりません。就活時は国立大文系学部に在籍していました。

 このような私が、民間企業の就職活動をしてみた感想を以下に書きたいと思います。なお、公務員試験については別の機会に譲ります。

・健常者枠(一般枠)では相手にもされない。

 初めの数社は健常者枠にも普通に応募したり、インターンや説明会などにも参加したのですが、これは全くの無駄でした。露骨に嫌な顔をされたり、無視されたり、そこまでいかなくてもそれとなく辞退を勧めてくるのが常でした。これは考えてみれば当たり前で、企業としては健常者枠で障害者を雇う理由が全く無いですし、雇うつもりのない人間に一秒でも時間を割きたくないというのが本音でしょう。こちらも時間の無駄だと判断してすぐに障害者枠に切り替えました。

・障害者枠であっても重度障害者はお呼びではない。

 障害者雇用率が年々引き上げられていることもあり、障害者枠なら引っ張りだこだろうと思われるかもしれませんが、全くそんなことはありません。企業が一番欲しいのは「見た目も普通で全く変わりなく働けるが雇用率には算定できる軽度の内部障害者」です。こういう人は確かに引っ張りだこでしょう。重度障害者は厳しいです。特に私のように車椅子から立つこともできず、見るからに不格好な脳性麻痺者は全く需要がありません。仕事中の介助が必要ない私ですらその有様ですから、より障害が重く自力で排泄できない友人は障害者枠でも相手にもされていませんでした。ちなみに彼も四大卒です。

・障害者はマジで理系に行っといた方がいい。

 上述のように、障害者枠であっても、よっぽど突出した専門技能が無いと重度障害者はまず一般就労できないと思ってください。ではその突出した専門技能を身に付けるにはどうしたらいいかと考えれば、絶対に理系に行っておいたほうがいいです。私は文系なので就活時にだいぶ後悔しましたが後の祭りです。健常者の就活の有利さが理系70:文系30くらいだとしたら、重度障害者の就活だと理系99:文系1ぐらいだと思って下さい。これは誇張でもなんでもなく、文系の仕事の大部分は「普通の人ができることをそつなく素早くやること」であることを考えれば自明と言えます。これを見ている重度障害者の高校生がいて、企業への就職を第一に考える価値観の持ち主なら、絶対に理系に行って下さい。

・発達障害の検査を就活前に必ず受けること。

 私は就職してから発達障害が明らかになり、地獄を味わいました。発達障害は、オープンにして就活すれば大変な不利になり、隠して入れば入社後に塗炭の苦しみを味わうという、大変な障害です。もし事前に発達障害が分かっていれば、重度脳性麻痺に加えて発達障害もあるということになりますから、最初から就活自体をしないという選択肢も取れたと後悔しています。特に重度身体障害者は、コミュニケーションや日常生活に不具合があっても身体障害に起因していると考えてしまうため、私のように発達障害の発見は遅れがちです。発達障害の診断が下りれば、それは己の特性を把握できるということですから、色々と身の振りようも出てきます。ですから必ず就活前に発達の検査は受けたほうが良いと思います。

 

 私はWebSanaやクローバーナビといった合同説明会型のサイトの他に、就職エージェントと個別に面談しながら活動していくタイプの障害者就活サービスもいくつか利用していました。そこでエージェントから言われた名言(迷言?)を下に挙げます。

・あなたは特に重度に見えるので覚悟して下さい。
・営業に障害者が行ったらアカンでしょ。
・便を漏らした時のことを考えておいて下さい。

 こういうことを言われながらでもやってやるぞという重度障害者の方は、一般企業への就活を是非頑張って下さい。そうでない方は、公務員、特例子会社、就労継続支援事業所等を狙うか、あるいは障害年金で生活しつつ労働以外に生きがいを見出すか、とにかく別な方法を考えて下さい。私は障害者枠で公務員になって今に至ります。就活は二度としたくありません。