ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。

VRと障害者 ―インターネットを侵食する肉体―

 私はVtuberが大好きである。ときのそら、富士葵、もちひよこ、ねこます、芙容セツ子、輝夜月、スズキセシル、つのはねあかぎ…(敬称略) 好きなVtuberの方々は他にも数え切れないほどいるが、私が最も感銘を受けた動画はこれである。


誰もがなりたい自分になれる時代 / バーチャルとファッション【neralの難しくない話】#002

 淡々とした語り口でありながら、聴く者の心を激しく高揚させる。天才的イデオローグとしか言いようがない。

 詳しくは是非neral氏の動画をご覧頂きたいのだが、私が感動したのは「生まれ持つ体は選べないのに、それを”ありのままの自分”として愛せるべきだって考え方も疑問だなって」「選ぶことのできない生まれ持った体を愛せなくてもそれは悪じゃないはずです」「むしろ、自分の意思が何ら反映されていないものの責任を取らされて、生涯有利になったり不利になったりしていることのほうが理不尽なんじゃないか」というくだりだ。私は脳性麻痺によって奇妙に湾曲した肉体に生まれ、そのことを絶えず父から責められ、自分でもこの醜い容姿が嫌で、そう思ってしまう自分はもっと嫌で、ずっと苦しんできた。そんな私が、neral氏の説く「バーチャルやファッションによって肉体を乗り越え、魂の姿になることができる」という思想にどれだけ勇気づけられたかは、言うまでもないだろう。私はVRに駆り立てられた。Vtuberになるぞ。VRChatに入るぞ。今すぐこの汚らわしい肉体を打ち払って、魂を解放せねばならない。

 しかしそこで私はハタと気付いた。私がVIVEやOculus Riftを買ったとして、一体どこにトラッカーを付けるというのだ? 私の体のうちわずかでも動くのは頭と左手だけである。それ以外の場所にトラッカーを付けても、麻痺で物理的に動かないのだから意味がない。なんということだろう、私はVR上でも自分の肉体から逃れることはできず、依然として障害者だったのである。

 この時、私はVRブームには「魂の肉体からの解放」とは真逆の側面があることに気付いた。それは「インターネットへの肉体の侵食」である。

 元々黎明期のインターネットでは文字のやり取りが中心であった。それが徐々に画像、音声、動画、とやり取りできるデータの種類が拡大し、VRに至っては「三次元の肉体の動きそのもの」を「望んだ姿で」リアルタイムにやり取りできるようになったのである。この「望んだ姿で」という部分に着目すれば「魂の肉体からの解放」という捉え方になるが、私はあえて「三次元の肉体の動きそのもの」をやり取りしているという部分に着目したい。

 そもそも、VRが登場する前から、人々は様々な手段でインターネット上で自己表現をしてきた。テキストサイト全盛期には文章を書き、画像のやり取りが容易になれば絵を描き、動画サイトができてからは音楽や映像を制作してきたのである。言い換えれば、身体的な情報が制約された中で、文字、絵、音、映像等のフィルターを介して自己表現をしてきたのである。*1

 ところが、VRChatやVtuberのClusterライブで交換され、消費されるのは、目の前で行われる「身体の動き」そのものである。VRChatのアバターやVtuberが動いている時、その裏側では必ずアクター(中の人)も肉体を動かしている。ネット上のコミュニケーションと生身の肉体の運動がここまで強く直接結び付けられることは今までなかった。「肉体がネットを侵食する」新たな時代が幕を開けようとしているのである。そしてこのことは、私のような重度身体障害者から見れば、文字、絵、音、映像等のフィルターを介して交流していた時代のインターネット上においては無効化されていた「健常者との肉体的差異」が、VR技術(トラッキング)により顕在化することをも意味しているのである。*2

 さて、以上のような考察を経て私が選んだのは、「ブログ(文字)という肉体的差異が無効化され健常者と対等に渡り合える土俵で、あえて身体障害のことを書く」という方法だった。魂が肉体に屈服するのでも、魂と肉体を切り離すのでもない。どこまで行ってもこの肉体からは逃れられないのだ。それならばいっそのこと、生まれてから今までこの肉体に苦しめられてきた経験を自伝としてコンテンツに昇華してやる。この肉体を魂の満足のための道具として徹底的に使役する。それが私なりの肉体への復讐であり、肉体との折り合いの付け方なのである。

*1:リアルYoutuberについては別の機会に考察したい。VRブームは私のようないわゆるオタク層にも身体性を持ち込んだ点がリアルYoutuberと比較しても新しい点として挙げられる。

*2:もちろん障害者にとってプラスの面もある。それは体験できるものが増えること。先日はOculus Goでエベレスト登頂体験をした。VRがなかったら身障者がこんな経験は絶対できなかっただろう。

ブラインドの向こう

 良く晴れた土曜の昼下がり、大勢の人でごった返す都心の賑やかな通りに面して、その細い雑居ビルはひっそりと建っている。初めて来た時はその狭い入り口をなかなか見つけられず、あたりをしばらくうろついた記憶がある。

 エレベーターのドアが閉まると、まるで最初から存在しなかったかのように、街の音が唐突に消える。エレベーターの微かな駆動音だけが世界の全てになる。

 ドアが開く。ホワイトで統一された空間が目に飛び込んで来る。狭くて薄暗い空間に、人々が静かにひしめき合っている。20人程度は居るだろうか。今日はかなり多い。

 手続きを済ませて順番を待つ。相当時間がかかるだろう。聞いたことがあるような無いようなクラシック音楽が曖昧に流れている。街の音は全く聞こえない。

 暫くスマホを弄った後、飽きて外を見る。といっても、ブラインドは完全に下ろされているので、そこに少しだけ隙間を作って覗き込む。無数の人々が無音で街を行き交っているのが眼下に見える。だが彼らがこちらを見ることは無い。今ここに20人程の人間が息をひそめて座っていたことを、彼らは一生知らないだろう。ついさっきまで自分もその一部だった窓の外の風景が、どこか遠い異世界のようによそよそしく感じられる。

 一際キビキビと姿勢良く歩く女性が視界の端に見えた。彼女はこの異世界の風景と完全に調和している。何となく目で追っているうちに見失ってしまった。しばらくして、背後のエレベーターから人が出てきた。振り返ると、先程まで目で追っていたあの女性がいた。私はスクリーンから急に登場人物が飛び出してきたように感じて戸惑った。彼女は手続きを済ませ、私の近くに俯いて座る。ここにいる彼女と先程まで街を歩いていた彼女がどうしてもうまく重ならない。ただ服装と髪型の完全な一致だけが、両者が紛れもない同一人物であることを示していた。実はあのエレベーターは外の異世界とこの部屋の世界を繋ぐ転送マシンなのだが、人格データだけはいまだに完全に転送することができない。そのため、世界間移動を繰り返す度にその代償として搭乗者の自我や記憶が少しずつ失われていくのだ……

 その時不意に名前を呼ばれた。私は下らない妄想を打ち切り、指示された部屋に入る。

「どうですか」

「良くも悪くもないです」

「じゃあいつも通りでいいですか」

「はい」

「じゃあいつも通り出しておきますので」

「ありがとうございました」

 私は一礼し、十数秒前に入ったばかりの部屋を後にする。

 待合に戻ると、先程の女性は俯いてじっとスマホを覗き込んでいた。もう違和感は感じない。彼女はまるで生まれた時からここにずっと座っていたかのように、この空間に位置を占めている。それはとても自然なことに感じられる。街を歩いていた彼女の姿を思い出そうとするが、うまくいかなかい。会計を待つ間にも、エレベーターにたくさんの人が乗り込んでいき、エレベーターからたくさんの人が出てくる。彼らはどこから来てどこへ向かうのだろうか。

 再び名前を呼ばれる。お金と引き換えに目的の紙を手に入れる。お大事に、と言われる。抽象的な言葉だな、と漠然と思う。

 無意識のうちにエレベーターに乗っている。1階で扉が開いた瞬間、街の喧騒がどっと流れ込んできた。通りに出て、さっきまでいた階を見上げてみるが、ブラインドに遮られて何も見えなかった。

 人混みに紛れて歩く。再び街の一部になる。私がさっきまであの場所にいたことは、もう誰にも分からない。この人混みも、家族も、友人も、誰も知らない。私もあの場所にいた人達の顔をはっきりとは思い出せない。ひょっとすると、あの場所はどこにも存在していなくて、ずっと幻を見ていたのかもしれない。

 ふと、手に紙を持ったままであることに気付く。

「…Rp.5 コンサータ錠18mg 1T コンサータ錠27mg 1T 分1、朝食後服用 28日分 Rp.6…」

 その紙に記された無機質な文字の連なりが意味するところについて、今まで多少なりとも分かったつもりでいた。用法、効果、作用機序、症状、障害、自分のこと、他の人のこと、人間関係、生活、生きること、社会、文脈、インターネット、信仰、そういったあれやこれやについて、この紙を見れば全て分かるような気がしていた。けれども私はそれらの事柄について、本当のところは何一つ分かっていない。この紙には何が書かれているのか。どうして私はそれを手に入れなければいけないのか。何も分からない。

 私は再び紙に目を落とす。

「…Rp.3 マイスリー錠5mg 1T 分1、就寝前服用 28日分…」

 文字列はやはり意味を形成することなく頭の中を上滑りしていく。この世界の色々な難しい事柄について、何も教えてはくれない。それでも、この紙から分かることが少しだけある。あの場所は幻ではなく、都会の喧騒からブラインド一枚だけ隔てた向こう側に、確かに存在するということ。良く晴れた土曜の昼下がり、あの狭い空間の中に、静かにひしめき合う人達が確かにいたこと。街行く人はもちろん、私や彼らと日常的に接する人ですら、多くはそのことを知らない。それでも、あの時あの場所にいた私達だけは、互いにそのことを知っている。

  街は次第に夕暮れに差し掛かっている。私は処方箋を鞄にしまいながら、家路を急ぐ。

自己啓発本に意味はあるか ―カーネギーの著作を全部読んで思ったこと―

きっかけ

 私は自己啓発本やビジネス書の類が大嫌いな人間で、それらを一切読んで来なかった。もっと言えば、そういった書物を鵜呑みにする人を「自分の頭で物事を考えられない、自我が無い人」と半ば見下していた。

 ところが最近、とても仕事のできる同僚がかなり熱心に自己啓発本を読み漁っているということを知った。もしその同僚の有能さの一部でも自己啓発本の功績だとしたら、私はそれらを食わず嫌いするだけで良いのだろうか。彼らがどういう考え方をしているかくらい触れておいても損は無いだろう。

 とは言え、世の中には膨大な数の自己啓発本があり、今も出版され続けているため、全部読むのはとても無理だ。そこで、自己啓発の元祖と言われているD・カーネギーの著作を一通り読むことにした。「全ての自己啓発本はカーネギーの焼き直し」という話もよく聞く。これが事実なら、カーネギーを読めば大半の自己啓発本に通底する考え方を掴めることになる。

当たり前のことしか書いてない

 カーネギーの全著作を読み終えての率直な第一印象は「当たり前のことしか書いてないな」だった。カーネギーの教えの一部を下記に列挙してみる。読み飛ばして頂いても構わない。

  • 相手に同情を寄せよう
  • 相手をまず褒める(特に相手を詰める前は)
  • 相手との共通点を探す
  • まず自分の誤りを話した後相手に注意する
  • 命令をせず、意見を求める
  • お世辞ではなく、小さくても具体的な事実に基づいて相手を褒める
  • 相手に感謝を求めない
  • 人を動かす必要があるなら、相手の身になって相手の利益を考える
  • 強がりでも自信があるように振舞えばいつか本物の自信がつく
  • 今日一日に集中する
  • 不安の治療法は、何か前向きなことに完全に集中することだ。行動あるのみ。
  • 人生は短いので小さなことを気にするな
  • 心配や不安は九割杞憂に終わるので楽観的になれ
  • 変えられないものを変えようとせず、変えられるものに集中せよ
  • 持っているもののことを考え、持っていないもののことばかり考えるな
  • 憂鬱を追い払うには他人を喜ばせろ

 確かに、間違ったことは何も書いてないと思う。これらが実行できれば、社会的成功が保障されるとはいかないまでも、その確率が高まるであろうことは感覚的に分かる。私は、自己啓発本にはもっと怪しいおまじないみたいな事ばかり書かれていると思っていたので、予想以上にもっともらしい事が書かれていて驚いた。

 ただ、「それができれば苦労しねえよ、できないから苦しんでんだよこっちは」という感想も同時に持った。カーネギーが言っている事というのは、野球に喩えると「毎日筋トレや素振りを限界でやり込めば、バットをボールに当てやすくなり、また打球を遠くまで飛ばしやすくなります。バットをボールに当て、ボールを遠くまで飛ばすと、ホームランを打つことができます。」というようなものだ。言うのも簡単だし、頭で理解するのも簡単、だが実行するのは至難の業である。自分のキャパシティに照らしてカーネギーの教えをどの程度なら実践できるのか、教えをどのように自分の生活の中に落とし込み習慣化し実践していくのか、自分の性格・能力・価値観との折り合いをどう付けるか、これらの問いには決まった答えなど無い。人間は一人一人違うからだ。個々人が自力で考え、自分なりの正解を見つけるしかない。それは自分以外の誰にも(カーネギーでさえも)分からない領域である。そこに向き合えない人は、自己啓発本を何千冊読んだところで行動に繋がることは無く、従って全くの無意味だろう*1

 意識付けとしての意義、宗教との類似

 以上から考えるに、自己啓発本の最大の意義は「成功のためのハウツーを示す」ことではなく「行動への意識付け」にあるのではないだろうか。

 もう少し分かりやすく言うと、「こういうことをやると良い」ということは皆自己啓発本など読まずとも心の中ではちゃんと分っている。分かっているのになかなかできない。そのできない理由のうちの一つである「心理的コスト」を下げるのが自己啓発本の働きである。「これをやると良いのは分かってるけど面倒臭いし恥ずかしいなあ……でも成功したカーネギーさんもこれをやれって言ってるからやるかあ」といった具合だ。つまり自分の意志の力だけでは実行できないことについて、「カーネギーの教えに従う」という形に意思決定を単純化・機械化・自動化することで、より少ない意志力で実行できるようにしているのだ。

 よく言われる事だが、この自己啓発本のはたらきは宗教によく似ている。つまり、外部の権威に命令してもらう形を取ることで意思決定にかかる思考コストをアウトソースし、善行をするまでのハードルを下げるのだ。実際、カーネギーは著書「道は開ける」の中で信仰や祈りの重要さについてかなりの紙幅を割いている。自己啓発と宗教が切っても切り離せない関係にあることは心に留めておくべきだろう。

信仰と理性の狭間で

 そして、この宗教性こそ、かつての私も含めた多くの自己啓発批判者が問題視する点であり、自己啓発に親和的な人と最も鋭く意見が対立する部分である。

 カーネギーとは少し離れた具体例になるが、昔「水からの伝言」という本の中の「水に『ありがとう』等の綺麗な言葉をかけ続けると綺麗な結晶になり、汚い言葉をかけ続けると歪な結晶になる」という旨の主張が問題になったことがあった。当然、この主張は何ら科学的・合理的な根拠を持たない荒唐無稽なものであり、批判者の言い分は完全に正しい。

 だが一方で、次のような反論もできる。「水からの伝言」で主張されているのは、思いやりの心や綺麗な言葉を使うことの重要性であり、それ自体は誰も否定できないはずだ。大事なのは人々が振る舞いをそのように改善するという結果であって、その動機付けとなる根拠は、各個人がしっくり来るものであれば何であれ(たとえ明確な誤りであったとしても)問題ない。そもそも我々人間には能力的、時間的制約があるから、全てのことについて正しく認識し合理的に意思決定できる者など一人もいない。合理主義者を自認する人も含め、皆が多かれ少なかれ勘違いや誤った(または根拠の無い)信念に基づいて生きていることを受け入れよう。その上で、我々の人生をより良く豊かなものにする嘘であれば、積極的に活用していこうではないか。

 この「良い行動をもたらす信念であればその根拠の正当性を問わずに内面化しても問題ない。むしろその方が人生が豊かになる。」という主張に対して、私個人としてはまだ明確な答えを出せていない。この主張に賛同できるかどうかが自己啓発本に対する態度を決める分水嶺になるような気がする。

 確かに、間違ったことを公教育で教えるのは問題だ。では、個々人の信条としてならどうか。「水からの伝言」に感銘を受けて前向きに生きている人に「それは何の科学的根拠もない大嘘ですよ。」と教えるのが本当に良いことなのか。もっと言えば、カーネギーの教えを前向きに実践している人に対して「それはあくまで、あなたとは生きた時代も能力も違うカーネギーという一個人の、サンプル数1の、固有の体験を、主観に基づいて法則として記述したものに過ぎませんよ。だから何ら一般化、普遍化できるものではありませんよ。」と正論を述べる事は相手のためになるのか。分からない。何も分からない。正しさを追求するには人生はあまりにも短い。

 最後に、孫引きにはなるが、「道は開ける」の中で引用されている警句*2を紹介して、本稿を締めくくりたい。自己啓発本の思想はこの一言で言い尽くされる。

 

人間は、人生を理解するためではなく、生きるために作られている

ージョージ・サンタヤーナー

 

*1:努力しているかのように錯覚させる気休めの効果はあるかもしれない。

*2:D・カーネギー「道は開ける」東条健一訳, 新潮社 p.245

障害者から見たヘルパーさんと介護業界

 障害者の生活とヘルパーさんは切っても切れない関係にある。私はかれこれ数年間、毎日3時間以上ヘルパーさんのお世話になってきた。そこで本記事では、介護を受ける障害者から見たヘルパー、居宅介護事業所、居宅介護業界について書いていきたい。

 なお、本記事はあくまで私の個人的な経験に基づくものに過ぎず、過度に一般化したりヘルパーの方々や介護事業所を貶めたりする意図は全く無いことを予め断っておく。

ヘルパーと障害者の関係

 「障害者にとってヘルパーとはどういう存在か」と問われると難しい。長い時間を共に過ごし、身の回りの世話をして生活を支えてくれるという側面に着目すれば、家族のようなものとも言える。一方で、そんな綺麗な言葉で片付けられない面があるのも紛れも無い事実である。それは、障害者とヘルパーの利害が根本的に食い違っているからだ。障害者が丁寧な介護、柔軟なサービス時間変更を求めれば求めるほど、ヘルパーの負担になる。ヘルパーとしてはできるだけ楽をしたいが、そうすると今度は障害者側が困る。障害者とヘルパーは身体的距離こそ近いものの心理的距離は遠いと言えるだろう。

 かと言って、「客」である障害者が「労働者」であるヘルパーを完全に支配し命令するような関係かと言えば、それも全く違う。「客」が優位に立ちやすい他の業種と違い介護業界においては障害者と介助者はほぼ対等だと考えたほうが良い。その理由としては以下のようなことが考えられる。

 第一に、障害者はその身体的特徴、症状、求めるケアの内容とその難易度、性格、価値観、こだわり等が一人一人全く違うため、「介護サービスの質」を測定することが難しく、ヘルパーの介護能力を公正に測って給与に反映するということが実質的に不可能である。そもそも、介護事業所に支払われる介護報酬の体系を定めた国が介護の質という概念を想定していない。大まかな介助行為の種類ごとに金額が規定してあるだけだ。つまり、いくら障害者を乱暴に扱って暴言を吐きまくろうが、完璧な介護をしつつ楽しい会話で障害者をもてなそうが、介護報酬もヘルパーの給与も全く変わらない。特に居宅介護ではヘルパーの働きぶりを客観的に評価する上司も居ない。つまり、ヘルパーにはより良い介護を目指すインセンティブは一切無いので、全てはヘルパーの気分次第、善意頼みということになる。

 第二に、障害者のクレームをヘルパーが真面目に聞き入れる必然性が薄い。仮にヘルパーの介護の質や態度が悪い場合、障害者はそのヘルパーが所属する介護事業所にクレームを入れることになる。しかし、現状ではヘルパーは著しく不足しているため、殆どの事業所は各ヘルパーに無理を押して過労寸前まで働いてもらっている。そうした状況下では介護事業所もヘルパーに辞められると困るので強くは注意できないし、ヘルパーも万一クビになっても簡単に転職先が見つかるため事業所からの注意を真面目に聞く必要は無い。実際、何の理由も無く利用者をボコボコに殴ったり、サービス時間中ずっと煙草を吸って何も介護しなかったという猛者もいる。辞めるかどうかで長期間揉めた末流石にクビになったらしいが、体面を気にした事業所側が必死で警察沙汰を回避したため、そのヘルパーは今も何食わぬ顔で他事業所で介護をしていることだろう。

 第三に、障害者の側からすれば生活の全ての基盤をヘルパーに握られている。ヘルパーがサービスを一回でもストップした途端に一切の生活が不可能になる。また、特に私のように一人暮らしをしていて密室で居宅介護を受ける側は、自分の生殺与奪を握っているヘルパーに対して面と向かって文句は言いにくい。癇癪持ちのヘルパーの機嫌を損ねたら最悪殺されるという恐怖感もある。これは決して誇張ではない。従って、ヘルパーの気分次第で莫大な身体的・精神的苦痛を甘受せねばならない。極めて弱い立場なのだ。

 このように考えると、障害者がヘルパーに対して優位だとは全く言えない。それでも言う通りに動いてもらおうと思えば、宥め透かし、褒めちぎり、自尊心を煽り、時には強めに叱責し、社長、サービス提供責任者、ケアマネ*1も巻き込み、ありとあらゆる手練手管を使いながら日々駆け引きを行わねばならない。これにはゴールがない。良くなったかなと思ったらまた駄目になったり、急に怒鳴られたり、長い時間をかけて信頼関係を築いた人が辞めて代わりにとんでもない人が入ってきたりする。ヘルパーとは敵とも味方とも言えない微妙な緊張関係を保ちつつ共存していくしかないのである。

ヘルパーの実像

 介護業界は極めて離職率が高いため、これまで数十人のヘルパーと接してきた。その中で見えてきた傾向を以下に列記する。

  • 自分から進んで介護の道に入る人は滅多にいない。少なくとも私はお目にかかったことが無い。他の仕事で通用しなかった人が消極的に選択する職業になっているのが現実である。稀に有能な人もいるがそういう人はほぼ間違いなくすぐに他業種に移っていく。後述する過酷な労働条件を考えれば当然と言える。
  • 学歴の比率は、概ね大卒1割、高卒6割、高校中退3割。
  • 男女問わず元ヤンキーが多い。男性は何故か半数近くがバンド経験者である。ただしアニオタも2割くらいいて、話が合うので大変助かる。女性については、シングルマザーが非常に多く半数近くを占める点が特徴的である。
  • 新興宗教や引き寄せの法則、スピリチュアル等に傾倒している人の割合が有意に高い気がする。ただ、そういう人はそうでない人に比べて仕事のモチベーションが高く自発的に質の高い仕事をしてくれるので、こちらとしては何も文句は無い。
  • ヘルパーにも正規と非正規(登録ヘルパーと呼ばれる)の区別がある。登録ヘルパーは働く時間の融通が効くため、僧侶、ホスト、マッサージ師等を本業にしつつ副業としてヘルパーをやっている人も多い。
  • ヘルパーに限って言えば、介護経験年数が同じなら一般的に若ければ若いほど有能と考えて差し支えない。腕力が強い、物覚えが速い、コミュ力が高い、変なプライドを持ってなくて比較的素直、などがその理由である。中年で入社してくる人には①他の居宅介護事業所からの転職②介護施設職員からの転職③介護とは無縁の仕事でクビになった④今まで音楽や演劇で夢を追っていたorニートだったが身を固めることにした、の4パターンがある。①は比較的問題無い。②は作業スピードは速いが利用者の扱いが手荒なため痛みが伴う。③④は本当に厳しい。介護経験が無いためまず介護の基礎を身に付けるところから始めなければならない。しかしじっくり育成する余裕のある介護事業所など無いので、殆どいきなり現場に放り込まれる。OJTと言えば聞こえは良いが、障害者側が痛みに耐えながら練習台にならなければいけないのである。にも関わらず殆どが戦力になる前に辞めてしまうので、「あの痛みを我慢したのは何のためだったんだ…」という虚脱感だけが残る。誰も得をしない。

 ヘルパーの労働環境

 ここまで読んで下さった方は、「なんかヘルパーってろくでもないな」という印象を持たれたかもしれない。しかし、ヘルパーの労働環境の過酷さを考えればまともな人が集まって来ないのは当然であり、とても彼らを責める気にはなれない。それどころか厳しい条件下でよくやってくれているとさえ思う。ヘルパーの労働環境とはいかなるものなのか、以下に列記していきたい。

  • 休みは週一回貰えればかなりホワイトな方。30連勤、40連勤はざらである。もちろん土日や有休などという概念は無い。
  • とにかく人手が足りないので、朝6時半頃から夜11時くらいまで働くことはざらである。昼間は居宅介護の需要が少ないので就業時間とはいえ実質的に休めるかと思いきや最近はそんなこともなく、同時展開する障害者グループホームでの介助のシフトに入れられたりして結局なんやかんやで1日16時間ぐらいほぼぶっ通しで働くことになる。
  • 大抵の居宅介護事業所では、たとえ毎日16時間働こうがみなし残業制度のため残業代は一定額しか貰えない。これを嫌って、あえて正社員にならず登録ヘルパーにとどまる人も多い。
  • 常にカツカツの人員で回しているので、どれだけ高熱を出そうが腰を痛めようがシフトに入らなければならない。シフトに穴を開けることは即座に利用者の命の危機に直結するからである。
  • 休んでいても利用者側の急な時間変更で叩き起こされることも日常茶飯事。
  • 20代前半の月間手取り額だけ見れば、介護職は他職種よりも多い。ただ他職種と違うのは、昇給が殆どゼロに等しいことである。これは前述のように介護の質が介護報酬に反映されない、つまりスキルアップが正当に評価されないことに起因している。従ってキャリアパスも無い。これでは人生設計への展望や能力向上への意欲など持ちようがない。国は介護福祉士という資格を設けているが、その資格の有無が能力評価や給与査定に与える影響は非常に小さく、うまく制度として機能していない。

 ここまで書けば、離職率が高い理由も何となくお分かり頂けるだろう。

介護事業所の経営者とヘルパーの関係

 上記のような労働環境では当然ヘルパーの不満が高まる。では介護事業所の経営者はどのようにしてヘルパーを指示に従わせているのだろうか。ここでは一例として、私がメインで使っている介護事業所の実態を記述していく。なお、これらは全て当該事業所に所属するヘルパー達からの内部告発を元に構成している。

 経営者が一番困るのがヘルパー同士で団結されることである。介護事業所は一瞬でもサービスのシフトに穴が開いたら信用問題なので、組合を作ってストライキ・団体交渉・集団辞職などされたりしたらひとたまりもない。そこで、各ヘルパーを分断し孤立させることが最優先となる。そこでこの事業所では、所属するヘルパー同士の連絡、情報交換、集まり、飲み会を全面的に禁止している。他の事業所のヘルパーと必要以上に口を利くことも禁止されている。余計な情報が入ると自分の待遇に疑問を持つ可能性があるからである。

 このようにして情報を遮断した上で、ヘルパー達に互いの陰口を吹き込んでいく。ヘルパー同士を対立させ、互いを信用できないようにするためである。私は利用者としてほぼ全てのヘルパーと話す機会があるので俯瞰的な状況がよく分かるのだが、この経営者側の目論見は長年に渡ってまんまと成功している。つまり、例えば4人のヘルパーが私の所に代わる代わるサービスに来るとして、その4人全員が自分以外の3人のことを「社長に俺に関する虚偽の密告をしてポイントを稼いでいる最悪の卑怯者」と罵っているのである。一時期、「なんでこの事業所はこんなにヘルパー同士の仲が悪いんだろう?」と不思議だったが、辞めていったヘルパーの話を繋ぎ合わせると全て合点が行った。

 こうしてヘルパー同士を仲違いさせたとしても、根本的な労働環境の劣悪さは覆うべくもない。結局、勤続すればするほど実態を知り昇給も無いため不満を溜め込んでいくことになる。つまり、勤続年数が長いヘルパーほど反体制分子になる危険性が高いのである。放っておくと他のヘルパーにも不満が伝播しかねない。そこで経営者側は、見かけ上の給与の高さに釣られて新しいヘルパーが入ってくる目処が立つと、一番勤続年数の長いヘルパーに対して集中的に嫌がらせや人格攻撃を仕掛け、自分から辞めざるを得ない方向に持っていく。その具体的な方法はエグ過ぎるのでここには書かない。

 よく考えると、労働環境の劣悪さも人手不足に起因しているのに何故自分から従業員を減らすようなことをするのか不思議ではある。理由として最も有力なのは、「従業員数を増やしたり給料を上げたりすると赤字になってしまうため、何とか今の人数と労働条件は維持したまま限界ぎりぎりの仕事量をこなさないといけない」というものだろう。その結果酷使と使い捨てのサイクルが確立されたのだとしたら何とも救いようのない悲しい話である。とはいえ、この介護事業所の離職率は他事業所と比べても異常に高いため、経営のやり方にも多分に問題があると思われる。労働環境の話からは少しずれるが、この事業所は社員に健康診断を受けさせていなかったり、実際には行っていない介護サービスを行ったと偽り介護報酬を架空請求して厳重注意されたりと、何かと黒い話が絶えない*2

介護事業所の経営者と障害者の関係

 「では何故お前はあえて上記のようなブラック事業所をメインで利用しているのか」と思われるかもしれない。理由は簡単で、サービス利用者にとって都合が良いからだ。労働者の権利やコンプライアンスの軽視は、裏を返せば多少無理をしてでも柔軟に利用者のニーズに応えてくれるということでもある。つまり障害者の利害はヘルパーのそれよりも経営者のそれに近く、障害者と経営者はヘルパーの酷使に関して一種の共犯関係にあるのだ。

 分かりやすいように具体例を交えて説明したい。例えば、障害者にとっては自分のスケジュールや体調の変化に応じてサービス時間を直前でも自由に変えられる方がありがたい。このニーズに対して、儲けを最優先しヘルパーを無理させてでも時間変更に応じる事業所と、ヘルパーを大事にして応じない事業所があれば、私は迷わず前者を選ぶ。私がヘルパーについて苦情を申し立てた時、多少黒い方法を使ってでもヘルパーを統制下に置いていて、私に代わってヘルパーを直ちに強く指導してくれる事業所と、「ヘルパーの言い分にも耳を傾けたい」と言ってあくまで第三者的な仲裁しかしない事業所があれば、私は迷わず前者を選ぶ。ヘルパーが過労死寸前だが決められたサービス時間は必ず守る事業所と、ヘルパーが週休二日と有休を全部消化して活き活きしているがしょっちゅうシフトに穴を開ける事業所があれば、私は迷わず前者を選ぶ。

 それが悪いことだとは思わない。世の中の消費者が皆やっていることである。障害者とて例外ではない。障害者には障害者の利害がある。我々も生きていかなければならない。もちろんヘルパーにも可能な限り幸せになって欲しいし、最終節で後述するように、マクロ的に見れば障害者もヘルパーの待遇改善に力を合わせて取り組んでいくべきだ。しかし日々の生活では現行の福祉制度をひとまず所与のものとして受け入れた上で自分の幸福をミクロ的に最大化する必要に迫られる。それが結果的にヘルパーを追い詰めるのは心苦しいが仕方ない。何故なら他人よりも自分の方がかわいいからだ。

 ただ、使いやすいからといってこのようなブラック事業所に全面的に依存するのは危険である。いつ行政に摘発されるか分かったものではないし、それでなくてもヘルパーが二人同時に辞めるだけでたちまち倒産するだろう。また、一つの事業所に依存することは障害者側の交渉力を弱める。そこで現在は四つの事業所を組み合わせてリスクヘッジしている。大手と零細、かっちりしている事業所といい加減な事業所、それぞれの長所と短所を熟知した上で適材適所のタイムスケジュールを組むのが賢いやり方である。

ヘルパーの労働組合は何故無いのか

 ヘルパーがいつも待遇の悪さを愚痴っているので「組合作ってストライキしたらどうですか? そんな事業所なんか一発で潰せますよ。」と言ってみたことがある。そのヘルパーは組合やストライキというものが何だか分からず、ピンと来ていないようだった。もっとも、実際にストライキなどされたら一番困るのは我々障害者なのでそれ以上敵に塩を送るようなアドバイスはしなかったが、何故ヘルパーはあまり組合を作らないのだろうか。

 第一に、現状の介護業界は労働市場の流動性が高いため、組合を作って交渉などするよりもさっさと別の事業所に転職して労働市場の賃金調整機能に委ねた方が手っ取り早く合理的と考えられるためであろう。

 第二に、いくら組合を作って交渉したとしても、そもそもの事業所に入ってくるお金が市場ではなく介護報酬という公定価格によって規定されてしまっている以上、一定以上は給与や労働条件を引き上げようがないことを理解しているためであろう。

 介護報酬の引き上げを

 誤解して頂きたくないのだが、私はヘルパーの待遇改善を真剣に願っている。ヘルパーの待遇が改善すれば優秀な人材が入って来て介護の質が上がるからだ。それには結局本質的にはパイを大きくする、すなわち介護報酬を引き上げるしかない。今は小さなパイをヘルパー、事業所経営者、障害者が必死になって奪い合っている状況である。これではどうしたって誰かが割を食う。皆が満足するには大元のお金の供給を増やすしかない。もはやヘルパーの需給バランスが崩れているのは誰の目にも明らかなのだから、国は早急に介護報酬を大きく引き上げるべきである*3

 ところで、ヘルパーの数は相当多いはずだが、強い政治力を持っているという話は聞いたことが無い。例えば医療業界だと日本医師会という約60%の組織率*4を誇る業界団体があり、診療報酬の決定に強い影響力を持っている。ではヘルパーの業界団体はどうだろうか? 調べてみたところ、一応存在はしているものの、なんと組織率が約3%強しかないというのである*5。確かにヘルパーからも業界団体に入っているという話を一度も聞いたことが無い。これではとても介護報酬の引き上げに影響力を持つなど不可能だろう*6

 業界団体が当てにならないのならば、介護を受ける側の我々障害者もヘルパーの待遇問題を自分事として捉えて声を上げていくべきだろう。それが回り回って障害者のQOLの向上や安全にも資する。このままヘルパーに過重な負担を掛け続ければ、それはやがて障害者や高齢者に対する憎しみを生み、虐待や殺傷事件を多数引き起こしかねない。そうならないためにも一刻も早くヘルパーが人間らしい生活を送れるようにする必要がある。障害者団体は長い運動の歴史の中で国に対する要求や交渉のノウハウを蓄積してきたのだから、協力できるところは多いはずである。

 以前、障害者団体が母体となってできた介護事業所の理事長(障害当事者)が「昔のヘルパーは我々の障害者運動に手弁当で参加するのが当たり前だった。最近のヘルパーは運動に駆り出すならその分も賃金をよこせと言う。けしからん。」というようなことを言っていて、唖然としたことがある。仮にも障害者運動という人権を根拠とした活動をする者が、自分の事業所で雇用している労働者の人権を踏みにじるようなことを公然と発言してしまっては、運動の正当性はガタ落ちである。残念なことに、運動に携わる障害者の中にはこのような人が少なくない。今後の障害者運動では、そういった古い意識を変え、ヘルパーの人権という新たな課題に真正面から取り組むことが求められる。

*1:殆ど頼りにならない。むしろ問題をややこしくすることの方が多い。あてにしないほうが吉。

*2:これは氷山の一角で、もっとエグい話が山ほどあるが流石にここには書けない。

*3:財源の問題は当然あるが、ここでは本題から逸れるため割愛させて頂く。

*4:https://www.med.or.jp/nichiionline/article/005355.html

*5:https://www.minnanokaigo.com/news/nakamura/junyaishimoto1/

*6:それにしても何故こんなに低いのだろうか? 読者の中でどなたかご存知の方がいらっしゃったら是非教えて頂きたい。

社交辞令を全部真に受けよう

 発達障害者にはありがちなことと思うが、私は社交辞令とそうでないものを見分けるのが昔から大の苦手だった。相手の言葉が単なる社交辞令なのか、本心から発せられた言葉なのか、全く分からない。普通の人は相手の言葉の抑揚や身振り、状況などから直観的に判断できるのだろうが、私にはいくら考えても分からない。社交辞令を真に受けた結果傷付くこともたくさんあった。

 私はその反動で相手の発言を極度に疑ってかかるようになった。この発言は社交辞令なのではないか? そうに違いない。だからそれを真に受けて舞い上がるようなことがあってはならない。相手の言葉の裏を読み、適切な距離感を保ち、抑制的に振る舞わなければならない…

 しかしこのように疑心暗鬼が行き過ぎると今度は全く友達ができない。相手からの好意的なアプローチも全て社交辞令として処理してしまうからである。

 ではどうすれば良いのか? 私が悩んだ末に見つけ出した解は「社交辞令を全部真に受けてみる」というものであった。つまり、「機会があれば食事でも行きましょう」と言われれば必ずその後こちらから食事の誘いをするし、「是非うちに遊びに来てくださいね」と言われれば即座に遊びに行くための日程調整に入る。こういうことを言ってくる人の九割は社交辞令だが、逆に言えば一割の人は本心から誘ってくれている。その場合、相手も「内心迷惑に思われていないだろうか」と心配しながらこちらの反応を窺っていることが殆どである。これは忘れがちだが重要な点で、私が相手の真意を推し量ろうとしているだけではなく、相手もまた私の真意を推し量ろうとしているのである。従って、相手の誘いに対してこちらから具体化のアクションを起こしていくことは、相手に「全然迷惑ではないですよ。むしろあなたともっと仲良くなりたいです。」というメッセージを送って安心させる効果があるのだ。実際この方法で何人か友達ができた。

 もっとも、それは本心から誘ってくれた一割の人に限った話で、社交辞令で言った九割の人は良い印象を持たないだろう。「社交辞令に決まってるだろ… 普通に分かれよ… 空気読めよ、図々しいやつだな…」と思われるに違いない。これは仕方がない。一割の人と仲良くなるためには九割の人に嫌われる覚悟が必要である。

 ただし、社交辞令を全部真に受けることによって以下のような副次的効果もある。

  • 相手は私のことを「言葉を全部額面通りに受け取るヤベー奴」と認識するため、以降は本心からの発言しかしなくなる。こちらとしては相手の発言を字義通りに解釈すればよくなるので非常に楽である。
  • 「言葉の裏を読めないのは人としてありえない」と思っているような人は勝手に離れていくため一種のフィルタリングになる。常に言葉の裏を読むようなハイコンテクストなコミュニケーションを要求してくる人と私はどのみち仲良くなることはできないので、早い段階で合わないと分かる方がお互いのためである。
  • はじめは社交辞令から発せられた言葉だったとしても、こちらが真に受けていくことで稀に本物の友情に変わることもある。FAKEもREALに変えるぐらいの勢いでいくと人生が楽しい。

  ちなみに、私自身は絶対に社交辞令を言わないようにしている。本当に来て欲しいと思った時以外は口が裂けても食事や家に誘ったりはしない。そして誘う時はその場ですぐ日程調整を開始する。社交辞令ではないことを示し、相手にこちらの真意を推し量る手間を取らせないようにするためである。それが私なりの誠実さであり、筋の通し方だと思っている。

 

 

監視用リスト

 嫌いだった奴が落ちぶれている様をSNSで確認するのが好きだった。

 私はTwitterを立ち上げ、「監視用」と名付けられた非公開リストを開く。そこには嫌いだった奴らのアカウントがぎっちりと詰め込まれている。私のことを散々見下し、コケにしてきた奴ら。特別なITスキルを持たなくとも、情報の断片からいくらでもアカウントは特定できる。あとはフォローフォロワーを辿れば芋づる式である。Twitterには負の感情がそのまま書き込まれている。それが私をハイにさせる。就活で失敗し続け自暴自棄になっている者。友達を全て失い、ひたすら学歴自慢だけをしている者。ネトウヨになってbotみたいな呟きしかできなくなった者。大口を叩いて人を見下しておきながら会社で精神を病んでしまった者。おいおい、てめえらなんだその様は。昔は散々こっちのことを馬鹿にしてくれたよなあ。舐めやがってよ。その結果がこれか?本当にしょうもねえなお前ら。あの時の勢いはどうしたんだよ。ざまあみろ、バーカ。

 私はこの暗い趣味を半年に一回くらいやっていた。ある時、いつものように監視用リストを眺めていた。嫌いだった奴らの状況は、年を追うごとに厳しくなっているようだった。20代半ばに差し掛かり、皆人生という巨大な何かに押し潰されそうになっていた。その圧力からは誰も逃れられないようだった。そして私もそれは同じなのだった。この時、私の中に愉悦の感情が全く現れないことに気付いた。おかしい。嫌いだった奴らがこんなに苦しんでいるんだぞ。狂喜乱舞せねば嘘ではないか。私は慌てて憎しみを呼び覚まそうとして、奴らにコケにされた場面の数々を記憶から掘り起こした。しかしそれはどこか遠い世界のことのように感じられた。奴らの顔も、大学の教室も、それを取り巻く空気も、靄がかかったように曖昧ではっきりと思い出せない。私はすがるような思いでFacebookを開く。憎むべき奴らの名前を一人一人打ち込む。顔写真が次々に出てくる。私はそれを睨みつけてみる。だがそれでもやはり、何の感情も湧いては来なかった。ごく普通の人間達が当たり前にそこにいるだけだった。

 私は再びTwitterに戻った。そしてリストから「監視用」を選択し、一瞬だけ逡巡した後、削除ボタンを押した。

 窓からは朝陽が射し込み始めていた。仕事に行く支度をしなければならない。洗面台に向かい、顔を洗い、歯を磨く。彼らもきっとそうであるように。

ブログをやってみて(開始動機、バズ、Twitter広告、今後の方針など)

ブログを始めた動機

 私は承認欲求や自己顕示欲が強い反面、他人に対する関心や共感が薄い。また、やりたいことが見つからないという悩みもあった。プログラミングやVtuber活動などにも手を出しかけたが、核となる「やりたいこと」が無いのですぐに挫折して続かない。こうした悩みについてサークルクラッシュ同好会*1創立者のホリィ・セン氏(@holysen)に相談したところ、「ブログをやったら良いのではないか」というアドバイスを受けた。とはいえ、世の中には自分より面白い人、頭が良い人が星の数ほどいて、自分ごときが新規性のあることを書いて世の中に価値を付け加えられる気が全くしなかった。そういことを考え出すと何も書けなくなるのだという旨を伝えると、「新規性など気にせず自分の書きたいことを書けば良い」とのことだったので、ひとまずその方針で始めることにした。

訪問者数の推移

 9/3から最初の4日間で5本の記事を書いたが、訪問者は0人~2人くらいだった。もしかしたら自分もカウントされているかもしれない。そんな状況だったが、書くという行為自体が楽しく、全く苦にはならなかった。

 9/7に、ブログ用のTwitterアカウントで何人か好きな人をフォローしてみたところ、Go氏(@Go_8yo)が自伝①地獄編(小学校卒業まで) - ダブル手帳の障害者読み物を取り上げて下さったため、その日の訪問者数は一気に135人まで増えた。これは全く予想もしていなかったことであり、嬉しさのあまり部屋で奇声を発しながら暴れまくった。それと同時に、今まで壁に向かって話していたところに急に人が現れたようなプレッシャーも感じた。

 その後も順調に記事を更新し続けたが訪問者数は漸減していき、9/16には12人まで低迷した。別にそれでも全然構わなかったのだが、9/7の小バズで承認の喜びを知ってしまった私には、やはりもう少し多くの人に読んで欲しいという気持ちもあった。そこで9/17に自伝①のリンクツイートを1万円かけてTwitter広告で宣伝したところ、その日は460人もの訪問者数があった。やはりお金の力は凄いと思った。

 しかしその効果も一時的で訪問者数はすぐに12人まで低迷した。そこで9/22にアニメの中の障害者キャラクター - ダブル手帳の障害者読み物を1万円かけてTwitter広告した。その日は2654人もの訪問者があった。同じ1万円の広告でも記事によってこれだけ反響が違うということに驚いた。ただ前回の広告経験から、すぐにその効果も切れるだろうと冷静に見ていた。

 ところが次の日に起きてみると訪問者数はあり得ない数値を示し、Twitterとはてなブログの通知が無限に鳴り続けていた。ブロンのやり過ぎで頭がおかしくなったのかと思ったが、もしやと思ってはてなブックマークのサイトを見に行くと、なんと自分の記事がトップに表示されているではないか。急いでスクショを取り、今後嫌なことがあったらそれを見るようにしようと思った*2。その日は17533人もの訪問があり、ランキングサイトというものの威力をまざまざと見せつけられた。

 これを書いている9/29現在、バズの影響はすっかり落ち着いたが、それでも毎日600人程度の方が訪問して下さり、コメントやスターを下さる方もいる。本当にありがたいことである。

Twitter広告という承認ガチャ

 Twitter広告のレポート画面を見ていると実に面白い。10000円という数字がどんどん溶けていき、インプレッション(広告が目に入る回数)に変換されていく。インプレッションのうち数%はエンゲージメント(クリックなど、広告に対する反応回数)になる。つまり、リアルマネーでインプレッションという承認石を買い、承認石でガチャを回し、数%の確率で承認(エンゲージメント)が得られるという、いわば承認ガチャなのだ。この様子を見ているうちに、社会の全ての営みは、承認を得るためにガチャを回すソシャゲなのではないかという直観を得た。同じ一万円で、キャバクラに行く人、後輩に奢る人、かっこいい髪型にする人、服を買う人、色々いると思うが、求めるものは皆同じ、全ては承認ガチャである。私にとってはTwitter広告が最もコスパの良い承認ガチャの回し方だった。非常に満足している。

ブログのメリット

  • ひたすら自分の好きなことを一方通行で述べ続けるだけで承認やコミュニケーションが得られる。こんな都合の良いことは現実の会話では絶対にあり得ない。
  • 今まで鍵垢でROMるのみで全く手が届かないところにいた尊敬するオタクの方々がフォロワーになって下さったり、記事に言及して下さったりというような、想像もしなかった栄誉に浴することができる。
  • ブログで思う存分承認欲求や自己顕示欲を満たせるので、現実世界でそれらを求めて苦しむことが減る。例えば、聞き役に徹するといったことが以前よりも無理なくできるようになり、対人関係が円滑になった。
  • ブログを書いている間はあたかも創作活動をしているかのような気持ちになり充実感が得られる。
  • 自分が書いた記事を読み返すのが楽しい。我ながら気持ち悪いナルシストだと思うが、書いたものを読み返すことは推敲にもなるのでブログ向きの性分といえる。

今後の方針

  • まず、間違っても一回のラッキーヒットで調子に乗ってバズ狙いに走らないようにしたい。そもそもそんな能力もない。おもんない奴が勘違いすると碌なことにならないと強く自戒する。とにかく自分の書きたいことを書きたい時に書きたいように自分の言葉で書く。この大原則は絶対に曲げない。
  • 上記の原則を守った上で、できればブログ開始1か月となる10/3までに合計訪問者数3万人を達成したい。9/29時点で27013人なので、丁度良い目標だと思う。
  • 滑舌の訓練のためにVtuberになって生放送をしてみたい。話すことが無さ過ぎて一度は断念したが、ブログがある程度書き溜まった今ならネタはあるだろう。VtuberといってもLive2Dの既存モデルをFaceRigで動かすだけの超ロークオリティのもので、来場者0人とかになりそうだが、それでもいいから美少女になってみたい。

*1:https://circlecrash.jimdo.com/

*2:ちなみにこの記事は週間はてブランキング6位になったのだが、その画面も言うまでもなく即スクショした。

自伝⑥デパス、コンサータ、ブロン(就職〜現在)

 就職する際に、ひとまず自分探しには区切りを付けようと決心した。打ち込めるものというのは探しても見つかるものではなくて、生きているうちに偶然出会うものではないかと考えたからだ。実際問題、就職した途端に自分探しどころではなくなってしまった。

 先に言っておくと、私が配属された部署は極めてホワイトな職場であった。上司も決して理不尽なことは言わない理想的な人物だった。身体障害にも最大限配慮してもらった。にも関わらず、私は全く仕事をこなすことができなかった。これだけ恵まれた環境にいてもこれだけ苦しいのだ、自分は最低の人間だ、これから更に苦しくなることはあっても楽になることはないのだと思うと余計に辛くなり、毎日退職したくて仕方がなかった。あまりに心が辛いので、いつも海外輸入のデパスを呷ってから職場に行った。この時はまだ後述するコンサータも飲んでいなかったから、デパス入り、コンサータ無しの朦朧とする頭で仕事をしていたことになる。今から考えるとそんな状態でまともに仕事ができるわけがない。デパスの健忘作用のためか、一年目の仕事のことは殆ど覚えていない。休日も仕事でミスをして叱責されることへの不安が頭から離れず、常にデパスを飲んでいた。デパスを飲んだからといって不安がなくなるわけではないのだが、飲むと世界が全体的に曖昧になり、不安の棘も少しだけ丸くやわらかくなる。ところがデパスの個人輸入が禁止されたため断薬をしなければならなくなってしまった。この時は精神的にも身体的にも地獄の離脱症状を味わった。

 それでも、とにかくあと1日だけ勤続する、今日1日をとにかく生き残れば良し、という生存戦略に切り替え、なんとか生きていくうちに、少しずつ状況が好転し始めた。

 まず、年度を重ねるに従って上司に優しい人が増えた。私は常に怒られながら育ったために怒られることが大の苦手だった。怒られなくなったことでだいぶ前向きに仕事に取り組めるようになった。

 次に、発達障害の診断が下りてコンサータがもらえるようになった。これによって多少マルチタスクができるようになり、半人前くらいには仕事ができるようになった。コンサータを飲んでいる間は副作用で朝食昼食が一切喉を通らない*1のが悩みだが、人間は一日一食でもなんとかなる。また、中学生時代から続いていた強迫性障害の症状も、カウンセリングによってかなり改善してきた。

 もちろん、この束の間の平穏もいつ崩れるか分からない。人事異動による人間関係や仕事内容の変化。強迫性障害の再発。デパスを飲まないようにする代わりにブロンを飲んでいること。不安要素を数えればきりがない。それでも、生きる屍のようだった一時期に比べれば、自分を客観的に見る余裕が出てきた。

 そうして就職後の自分を振り返った時、何も成し遂げていないことに気付いた。日々死なないようにすることで精一杯で、仕事でも私生活でも何ら足跡を残せなかった。やったことと言えば部屋中をアニメのクリアファイルやポスターで埋め尽くしたことぐらい。完全な虚無である。お金は多少貯まったが特に使い道も無いので、全てが嫌になってひきこもりになる時のための準備資金にしようと思っている。

 そのうち出会えるだろうと思っていた打ち込めることもまだ見つかっていない。もう手放しで若いと言われる年齢ではない。年下で自分より優秀な人間に会う機会が増え、その度に落ち込む。このままでは本当に何もない無のおっさんになってしまう。

 思うに、人間には3種類あると思う。一つ目は、人が好きで、コミュニケーションに喜びを見出す社交的タイプ。二つ目は、コミュニケーションはあまり好きではないが、特定の事物に強い興味関心を持つことができ、やりたいことがはっきりしているオタクタイプ。この二者は、どうすれば幸せになれるかはっきりしているし、世の中に足跡を残せる可能性を持った素晴らしい人々である。三つ目は、人とのコミュニケーションを好まず、かといって「これがやりたい」という自分の中の強い欲望も存在しない、つまり私のような「無の人々」である。この「無の人々」はどうすれば自分が喜びを得られるかを知らないという点で非常に不幸である。「無の人々」の中でもある程度能力が高くかつ他人に合わせることが苦でない人は、なんとなくでも社会的に良いとされるライフコースを歩みそれなりに生きていけるのだろうが、私は残念ながらそちら側の人間ではない。だからコミュニケーションでも、結婚でも、労働でも、趣味でも、宗教でも何でも良いので、打ち込める「信仰」を得て、早く無から有になりたい。

*1:ナウゼリンという吐き気止めを併用するのだが全く効果は無い。どうでもいいことだが、コンサータ・ナウゼリンってランスロット・アルビオンみたいで格好良くないですか?