ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。

人狼に勝って生き方で負けた話

 2月22日(金)、サークルクラッシュ同好会の例会で人狼*1をした。そこで得られた知見について述べたい。

人狼に抱いていたイメージ

 人狼は私にとって鬼門とも言える因縁のゲームである。というのも、私が大学の時に属していたゲームサークルに居辛くなった直接的な原因は、人狼で三連続で大ポカをやらかして場を白けさせたことにあるからだ。人狼自体は大好きなのだが、実力がそれに全く伴わない。いかんせん社会の縮図のようなゲームである。まず個人の意思とは関係なく各々に役割が割り振られ、一見自由に見えて役割ごとにある程度取れる行動は決まってくる。そしてそこから少しでも逸脱したりミスすると「ゲームを壊す者」として厳しく非難される。挙動不審な者、寡黙な者は真っ先に処刑されるので、皆必死で場に同調し、それらしく見せようとする。「まさに社会そのもの」というのが私が人狼に抱くイメージであり、それが苦手意識に繋がっていた。その日も、とにかくミスしてはいけないという恐怖心のみを抱えてゲームに臨んだ。

当日の試合経過

 ところが実際に起こったのは私が心配していたのとは真反対の事態だった。

 それは二試合目に起こった。ホリィ・センさんはゲームマスターでありプレーヤーとしては参加せず、プレーヤーは8人。8人の内訳は、占い師1、霊能者1、騎士1、人狼2、村人3である。私は占い師になり、ゲームを壊してはいけないというプレッシャーで早くも胃がキリキリし始める。

 一日目、私が占い結果を告げると、なんとAさんとBさんの二人も占い師であると宣言した。もちろんAさんとBさんは人狼なのだが、後から分かった所によると、二人の間で意思疎通が上手くできなかったためこのような状況になってしまったらしい。こうなってしまうと、セオリー的に見て「占いローラー*2」一択である。私は一本道の展開になったことに内心安堵しつつ、占いローラーを強く主張した。もちろん、AさんやBさんは人狼であるから、少しでも紛れを出すために、村人や霊能者が占い師を騙っている可能性などを持ち出して攪乱してくる。私は村人が少しでもそれに流されることを恐れ「いやいや、そんなことをするメリットなんて何もないし、セオリー的にありえないし、全く意味が分からない」というような感じでまともに取り合わず、いかに相手が苦し紛れの主張(実際そうなのだが)をしているかを印象付ける作戦を取った。参加者の過半数人狼経験者だったこともあって結果としてこれは成功し、占いローラーは完遂され、無事村サイドの勝利に終わった。

セオリーと楽しさの狭間で

  しかし、試合後に感想を言い合う中で、楽しくゲームをするという観点から見ると私のプレイングはまずかったかもしれないと気付かされた。

 というのも、Aさんが「私の高校ではセオリーなんてそんなに厳しくなかったし、村人や霊能者が占いを騙ることも珍しくなかった。だから、あなたが占いローラー以外有り得ないという前提で話を進めたことに違和感を持った。」という旨の事を述べたからだ。加えて、村人としてゲームに参加していた複素数太郎さんも、「場がめちゃくちゃになった方が楽しいので、セオリー的にありえない騙りもどんどんやることがある。」という旨を述べていた。

 私はこの二人の話を聞いて大きな衝撃を受けた。というのも、「人狼とは、いくつかのセオリーの範囲内で各人が最善手を選んでいき、どれだけ高い精度で役割を遂行するかというゲームである」という私の思い込みがいかに独善的なものか思い知らされたからだ。私の人狼へのアプローチの仕方は数ある楽しみ方の一つに過ぎない。そもそも、全ての参加者がセオリー通り、つまり確率的最善手を選び完璧なロールプレイをこなしきったとしたら、その行き着く先は無味乾燥な単なる運ゲーである。それがどのようなものかはインターネット人狼を見て頂ければ分かると思う。「2-2進行か」「潜伏1」などと専門用語が飛び交い、淡々と進んでいく様はまるで作業のようである。「この中に嘘を付いている奴がいる」または「しれっと嘘を付き続ける」ということが持つ非日常的な緊張感やワクワク感こそが人狼の本来の面白さではなかったか。

 つまりこの二人は、知らず知らずのうちにインターネット人狼の「常識」に凝り固まっていた私に、もっと自由な遊び方をしてもいいのだと教えてくれたのだった。Aさんの場合は、あくまで勝ちを目指しながらも、それは勝率を高めるセオリーに頼ることによってではなく、各人の自由な行動、注意深い観察、鋭い直感によって成し遂げられてはじめて価値があるという考え方を提示してくれたように思う。これはリアル人狼ならではの楽しさを最大限享受するということを目的とするならば極めて合理的なアプローチである。だからこそ、Aさんもその高校時代の仲間も、セオリーが理解できなかったのではなく、あえてセオリーを遠ざけたと見るべきだろう。複素数太郎さんの場合は、そもそも勝利を目指さないという点で、より大胆な価値観と言えるだろう。ネット人狼であればアクセス禁止処分になってもおかしくない。だがリアル人狼では、その人の普段からの人望やキャラクターによっては敗退行為も許されることがある。私が敗退行為をしたら微妙な空気になるだろうが、複素数太郎さんのトリックスター的なキャラクターや人望の厚さを考えれば、仮にめちゃくちゃなプレイングをしたとしても私も含め誰一人不快には思わなかっただろう。つまり複素数太郎さんはゲームの勝敗以前にメタレベルのコミュニケーションで勝利しているのだ。

私はどのようにプレイングすれば良かったのか

 以上のことを考え合わせると、私に求められていた最善のプレイングとは以下のようなものだっただろう。つまり、セオリーを盾にAさんやBさんの主張をただ無意味だと退けるのではなく、きちんと皆で検討した上で論理的に反論する。また、複素数太郎さんのようなトリッキーなプレーヤーがいることも仮定し、色々なパターンをみんなで話し合いつつ、最終的には皆を納得させて占いローラーという自分の考える最善手に誘導し、村サイドを勝利に導くべきだった。

 しかし、私のコミュニケーション能力不足、頭の悪さ、ミスへのトラウマ、5分という時間制限などが重なり、上記のようなプレイングになってしまった。言い訳にはなるが、占い師には村サイドを勝たせる責任があるというプレッシャーも一因だ。私のせいで不快になった方がおられたら本当に申し訳なかったと思う。

ホリィ・センさんのゲームマスターとしての素晴らしさ

  私の無能ぶりとは対照的に、ホリィ・センさんのゲームマスターとしての能力が光った場面があった。第一試合の初日、皆がまだどうしていいか分からず沈黙になった時、「占いなしでランダムに処刑すると村サイドの人を処刑する確率は6/8ですね」とさりげなくヒントを与えたのだ。これが絶妙で、その一言をきっかけに試合は一気に盛り上がった。人狼経験者と初心者が入り混じる試合を皆が楽しめるように取り仕切るのはそう簡単なことではない。私がゲームマスターだったら「初日は占い師が出るのがセオリーです」とプレーヤーを誘導して自発性を奪うようなことを言ってしまうか、あるいは一切ヒントを与えないか、その両極端だと思う。その点ホリィ・センさんは客観的な事実を告げて経験者と初心者の差をさりげなく埋めつつも、その事実をどう解釈してどう行動するかはプレーヤーに委ねることで、ゲームへの介入を必要最小限に留めている。このパターナリズムリバタリアニズムの絶妙なバランス感覚こそがホリィ・センさんの真骨頂であり、カリスマ性の源泉でもあると思う。それがこの一言に象徴的に表れたのだ。やはり凄い人物だと再認識させられた。

*1:ルール等はここでは述べないので各自調べて頂きたい。

*2:占い師を全て処刑すること。

死に直面して思うこと

魔法の終わり

 一月下旬ごろから徐々に生きる気力が失われてきた。私はこれまで下記のツイートのような気持で生きてきた。

 ただ、これは結局のところブロンによって生じた一時的な空元気に過ぎない。生まれてから今までの二十数年間、私が存在するだけで周りにマイナスになるという感覚が常にどこかにあった。どこにいても、自分は場違いな感じがした。象徴的な例としては、私が満員電車に乗ると3・4人分の場所を取る。私に押し込められた周りの人々のうち、ある人は舌打ちをし、ある人は顔を歪める。別に電車に限らず、どこへ行ってもそんな調子だ。たとえ迷惑に思わない人がいても、その人のどんな些細な言動からでもネガティブな意図を勝手に読み取り、「表立って言わないだけで、この人も本当は私が居ない方が良いに違いない」と思ってしまう。だからいつどこにいても「消えたい」という気持ちが拭えなかった。生きていること自体が厚顔無恥だと思った。

 去年の下旬から今年にかけて、多くの人と交流したりブログやツイッターをしたりして、その最中は本当に楽しかった。私は根っからの小心者なので、ブロンでハイになることでようやく人並みの自己表現ができたのだと思う。コミュニケーションの楽しさや、それまで見たこともなかった世界に数多く触れることができ、本当に得難い経験だったと思う。ただ、徐々にブロンに耐性が付き、シラフに戻ってその期間のことを思い出したり読み返したりすると、あまりに恥ずかしくて気が狂いそうになる。と同時に、その期間に関わった全ての方々に「私ごときが調子に乗ってしまい誠に申し訳ございませんでした!」と全方位土下座したくなる。なんのことはない、ブロンやコンサータの効果が切れ、このブログを始める前の卑屈で小心な私に戻っただけのことだ。そして、そうやって人に迷惑を掛け倒しながらも生きてやろうという気力ももはや無くなってしまった。

もう長くない

 そうやって悶々と日々を過ごしていたのだが、ある時はっきりと悟った。死にたいとか死にたくないとかいう以前に、どのみち私はもはやそう長くは生きられないだろう、と。私のような重度障害者はただでさえ寿命が短い。その上私は処方内、処方外問わず日ごとに増加する大量の薬物を飲みながら生きている。おそらくこれは体に著しい負担を掛け、物凄い勢いで寿命を削っているだろう。こんなことが長く続けられる筈は無い。このままだといつかは心臓発作等で死ぬだろう。それが明日か、明後日か、数か月後か、はたまた数年後なのかは分からない。ただ直感として30まで生きるのは厳しく、35はほぼ生きて迎えられない気がする。少なくとも親よりは早く死ぬことになると思う。

 こうして死に直面した時、自分が思いのほか冷静であることに驚いた。恐怖心や絶望感も無いし、逆に使命感や信仰心が急に強まるということもない*1。人は皆死ぬし、それが遅かろうが早かろうが大した違いは無いように思える。

 プラスの心境の変化としては、人生で初めて、「死にたい、消えたい、恥ずかしい」といった気持ちが綺麗さっぱりなくなったこと。どうでも良くなったという方が正確かもしれない。些細な事で一喜一憂したり、怒ったり、不安を感じたりすることもなくなった。どうせ死ぬと思うと大抵のことは受け入れられる。市役所の窓口で怒鳴り散らしているおじいさんなどを見ると、「それだけ歳を取ってまでよく物事に熱く拘れるなあ」と皮肉抜きでそのエネルギーに感心してしまう。

死ぬ前にやりたいこと

 死ぬ前にやりたいことは一杯思い浮かぶだろうと思っていたが、いざ真剣に考えてみると全く無いことに気付いた。「やりたくないことをやらない」というのは実現したいので、仕事を辞める時期を当初の予定より早めるかもしれない。ただ、それはいわば消極的な願望である。積極的にやりたいことというのは驚くほど少ない。

 美味しいものを食べる、セックスをする、世界の名所を訪れる、といったパッと思い付くことにも全く興味が無くなった。思うに、これらは生き続ける前提があってはじめて喚起される欲望ではないだろうか。いざ死ぬとなったら心底興味が無くなってしまった。

 妻子がいる人は少しでも家族との時間を多く取るようにするかもしれない。ただ私には妻子はなく、家族は父母姉のみだ。彼らにも一回ぐらいは会ってお別れの挨拶はしたいが、死ぬまでずっと一緒に居たいかと言われるとそこまでではない。

 ただ、一つ心残りがあるとすれば貯金のことだ。もう少し長いこと生きるつもりだったので結構な額が残っており、これを使い切らずに死ぬのはもったいない。ただ、それを使い果たすことに躍起になったのでは逆に貯金に縛られてしまい本末転倒だ。従って、いくらかは遺して死ぬことになるだろう。今はいつ死んでも良いように遺産配分のための遺言書を書いている。難しいのは、お世話になった人とかお金を受け取るに値する人格者というのは、そんなお金を貰わなくても自力で十分生きていける人が多い。逆にお金に困っていそうだなという人達については、その中にあまりお金をあげたいと思える人がいないという問題がある。その辺のバランスを考えながら遺言書を書くのは、難しいけれども結構楽しい。ただし遺言書に確実に法的効力を持たせたかったら公証役場で書いてもらう必要があり、それにも結構なお金がかかる。世知辛い。

数少ないやりたいこと2つ

①ダブル手帳のテーマソングをラップで誰かに作って欲しい。理由は、ラッパーの多くはセルフボーストのためのテーマ曲を持っていてかっこいいし、それを使えば手短に自己紹介ができて掴みもバッチリだからである。私が生きたという証にもなる。ただ、希望としては私のブログの記事を全部読んで下さった方にやってもらいたいというのがある。相場はよく分からないが、レゲエのダブプレートとかの相場を参考にする限りでは数万円と言ったところだろうか。ラップができる方、ご連絡お待ちしております。

②文フリに「障害」をテーマにした合同誌を出したいという願望がある。既存の障害者運動の文脈に回収されない、新しい発信ができれば結構面白いと思う。これはもしやろうとすれば企画、募集、選別、編集、校正、謝金の支払いなどを全部自分でやらないといけなくなるので相当気合を入れないといけない。おそらく取り掛かれるのは退職後になるだろう。協力して下さるという方がいらっしゃったらご連絡頂ければありがたい。

他の人が死ぬまでにやりたいこと

 自分の参考にしたくて、最近はあらゆる人に「もし余命一ヵ月だったら何がしたいですか」と聞いて回っている。人によって全然価値観が違うので面白い。ある人は「今は家族と暮らしているが、最後の時くらい自分の思い通りにしたいので、一人になるために一人旅をする。」と言った。またある人は、「特別な事は何もせず、仕事も辞めず、最後の瞬間まで普段通り生きる。」と言った。周りに余計な心配を掛けたくないからだという。これも美学を感じて格好良いと思った。皆さんはどうだろうか。是非教えて欲しい。

このブログについて

 誤解の無いように言っておくと、今日明日死ぬとか、自殺するとかいう話では全く無い。従って、このブログもこれまで通りで何も変わらずやっていく。読者の皆様におかれましては、変わらぬご愛顧の程よろしくお願い致します。

*1:もっと死期が近づいたら心境が変化する可能性はあるが。

恩義は債権のように他者に譲渡できるのか

 以前このブログで取り上げたA先生*1にまだ何も恩返しができていなかったなと思い立ち、ささやかながら贈り物をした。それをきっかけにして二言三言、言葉を交わした。

 しばらくして、A先生から住所と電話番号を教えてくれというLINEが来た。良いですけど何に使うのですかと聞くと、私が住む選挙区で自民党から立候補予定の人(以後Bさん。ただし、私はBさんの名前も知らない)に私を紹介したいと仰る。釈然としない気持ちが残ったが、他ならぬA先生の頼みなので断るわけにもいかず、住所と電話番号を教えた。ただし、「その方のためにお力になれることは無いですよ」ということを重々念押ししておいた。

 何故そんな念押しをしたかというと、仮にA先生の頼みであっても、Bさんの選挙運動に駆り出されたり、献金を求められたりしたらたまったものではないからだ。こう言うと恩知らずに聞こえるかもしれないが、私が恩義があるのはA先生に対してであってBさんに対してでは決してない。つまり、A先生本人に関してなら仮に選挙運動に駆り出されたり献金を求められたりしてもある程度従うが、Bさんに対しては何もする気になれないのだ。

 これは恩義というものの属人性、譲渡不可能性をよく表していると思う。この特徴は債権債務とは対照的である。例えば、仮に私がA先生に対して100万円の借金をしているとする。そしてA先生がこの私に対する債権をBさんに売ったとする。そうすると、私は問答無用でBさんに100万円を返さなければならなくなる。そこに感情や疑問を差し挟む余地は無い。ここが決定的に恩義と違うところである。このようにサービスの交換や貸し借りをより効率的かつスムーズに行えるという優位性があるからこそ貨幣経済というものが発達したのだろう。

 ただ、政治家の仕事というのは、その幅広い人脈を活かして通常は交換不可能なものを交換する媒介になることだ。それは票、行政への影響力、各種団体とのコネクション、メンバーシップなどだ。それが政治家というものである。だから私のように恩義を債権と同様に考えない者は政治家にとってはスムーズな物事の進行を滞らせる面倒な邪魔者ということになる。でも私はもう政治家になる気は全く無いから良いのだ。それに、恩義というものに関して私と同じように考える人も少なくないと思う。皆さんは、いかがだろうか。

ヤンキーの研究

 「ヤンキー」と呼ばれる人達が何を考えているのか、すごく興味はありつつもよく分からなかった。ヘルパーさんの中には元ヤンの人が多いので色々と学生時代のことを聞いてみたりもしたが、現役ではないのでやはりよく分からない。そういう意味では下記の本は大変面白かった。

  以下、特に印象に残ったポイントを3つ挙げる。

①ヤンキーは意外にも教師を非常に肯定的に評価している

 これは目から鱗だった。よく、勉強ができる生徒や真面目な生徒から「教師連中が僕らよりもヤンキー連中の方を可愛がって贔屓しているのは何故だ? 真面目にやっているこっちが馬鹿をみるなんて理不尽だ!」というような不満が出ることがある。かくいう私もそう思っていたクチだが、この本で謎が解けた。ヤンキーが教師を肯定的に評価しているのならば、教師がヤンキーを憎からず思うのも不思議ではない。これは、塾で先取り学習をするような高学力層がしばしば腹の中で教師を見下す傾向にあるのと対照的である。

陰キャに優しくする余裕があるのはカーストが高いヤンキーだけ

 端的に表現された箇所があるのでそのまま引用する。

「すなわち、坂田は集団内で高い地位にあったからこそ、〈インキャラ〉という解釈枠組みに対する異議申し立てをおこなうことができたのに対して、ダイは、集団のなかで自らの地位が周辺的だったために、〈インキャラ〉を攻撃・嘲笑しなければ、自らを集団内に位置づけることができなかった。」(p.135)

 これは学校で陰キャ側として過ごした私の経験にも合致するし、極めて納得感が高い。しかしなんというか、まさに社会の縮図という感じで、身も蓋も無い悲しい話である。

③客観的に見て酷い親に対して、否定的になりきれない

 ヤンキーの多くは、良好とは言い難い家庭環境で育っているようだ。なかでも前出の「ダイ」の親は客観的に見て虐待としか思えない行為を繰り返している。ダイはそのことを認識しつつも、親を庇ったり称揚するかのような言動も見せる。このダイの言動は良好な家庭環境に育った人には理解できないかもしれないが、私にはダイの微妙な心理がよく分かる気がする。というのも私も虐待を受けながら育ったからだが、そのことを客観的に記述しつつも*1、いざ他人から親を悪く言われると「でも良い所もあるんですよ」などと言ってしまうことがある。これは一種の正常性バイアスのようなもので、親のことを完全な極悪人とは思いたくないという心理の表れなのかもしれない。
 

 以上、つまみ食い的に列挙してしまったが、実際には本書はきちんとした学問的フレームワークに則って体系的に記述されているので是非読んでみて頂きたい。

〈普通の子ら〉のエスノグラフィーが読みたい

 エスノグラフィーの対象になるのは、ある程度特殊性やまとまりを持った集団だろう。マイノリティと言い換えてもいいかもしれない。本書ではそれは「ヤンキー」である。私を何かの属性で表すならば「オタク」「障害者」「ガリ勉」といったものになるだろう。これらの集団についてもそれぞれ既に膨大な研究の蓄積があるに違いない。

 ただ、私が一番知りたいのは「普通の人」が何を考えているかということである。こういうことを言うと、「『普通の人』などいない」「お前も特別でも何でもない『普通の人』だろう」と言われると思うので(実際その通りである)、もう少し分かりやすく公立中学校の40人クラスを例にして説明したい。ここから何かしらの特徴を持った生徒を取り除いていく。明らかなヤンキー、オタク、成績が常に一二を争うような秀才、突出してスポーツが得意な生徒、クラスで一二を争う美男美女、障害者やLGBTなどの社会的マイノリティ、いじめっ子、いじめられっ子などを全て除外する。すると、学力・運動・容姿・コミュ力など全ての要素が中程度でなおかつマイノリティ的な属性も持たないという生徒が残る。私の体感では、この層は40人中少なくとも20人はいると思う。つまりこの「ラベルのない集団」は社会の中心を成す真の多数派であり決して無視できない勢力なのである。そしてこれは完全に私の直感なのだが、この20人は一見バラバラなように見えて、何かその中に通底する共通項・精神性・思想があるように思えてならない。それが何なのかは分からないが、もしそれが分かれば日本社会を解き明かす上で大変有益なはずである。「〈普通の子ら〉のエスノグラフィー」に取り組む研究者が今後現れることに期待したい。

政治諷刺画が持つダサさの普遍性について

 皆さんは、新聞の隅っこに載っている、政治家の顔を極度に誇張した諷刺画を見て、何となく不快な気持ちになった経験はないだろうか。私はあの手の表現がとても苦手で、端的に言ってダサいと思う。別に政治やそれにまつわる表現が嫌いなわけでもないし、諷刺対象にされている政治家が好きなわけでもないが、それでも絶望的にセンスが無いなと思ってしまう。

 今まで、それは日本特有の問題だと思っていた。つまり、日本においては諷刺画の歴史が浅く文化的な蓄積が無いためだとか、そもそも日本人に諷刺的ユーモアのセンスが欠けているためだ、というようにそれらしい理屈を付けて納得したつもりになっていた*1

フランスの諷刺画もダサかった

 それが間違いだということが分かったのは、伊丹市立美術館で開催された「カリカチュールがやってきた! 19世紀最高峰の諷刺雑誌」という展覧会に行ったからだ。

artmuseum-itami.jp

 詳細は上記リンクをご覧頂きたいが、要するに、当時も今も最も文化的に洗練された先進国であるフランスで生み出された、全ての近代的諷刺表現の偉大な起源であり、歴史的価値をも持つ古典、それがカリカチュールなのだ。きっと素晴らしい芸術に違いない!と期待して足を運んだ。

 全ての展示物を見た上での感想を申し上げると、はっきり言ってめちゃくちゃダサくて落胆させられた。面白くもないし格好良くもない。だいたい表現のパターンは決まっていて、実在の政治家がひどく肥満気味の醜悪な姿で描かれていて、高確率で浣腸器を手に持たされている。王族の顔はどれもこれも判で押したように洋梨の形で描かれる。悪徳政治家が百鬼夜行のように行進していて、その影は悪魔だったりする。とにかくワンパターンで俗っぽい。政治的表現は伝わりやすさが重視されるためか、絵にやたら長大なキャプションが付いていたり、絵の中に直接文字で説明が書き込まれていたりして、無粋さに拍車をかけている。

 私がカリカチュールに感じたダサさ、俗っぽさ、つまらなさというのは、日本の新聞やネットに氾濫する政治諷刺画に感じるそれと全くの同型だった。よって日本の政治諷刺画だけが突出してダサいわけではないということになる。もちろん、当時のカリカチュールは現代日本とは違って文字通り命懸けで表現されたものだし、現代の諷刺画が200年前から進歩してないのはそれはそれで問題なので、両者を全くの等価に扱うのは適切ではないだろう。とはいえ、政治諷刺画が古今東西や主義主張を問わず、大なり小なりダサいものだとは言える。

 では、それは何故か。理由は大きく三つあると思う。

 一つ目は、同時代の実在の人物を醜悪に描くということが持つ生々しさ、胸糞の悪さである。たとえそこに描かれている人物が客観的に見てどれだけ極悪非道な人間だったとしても、人を貶める絵というのはあまり気持ちの良いものではない。また、必然的に絵面も醜悪なものになってしまう。

 二つ目は、描く者の主張を述べずに一方的に石を投げることもできてしまうこと。例えば、Aという主義に対して反発して反・Aという主張をする場合を考えてみよう。もしこれを言論によって行う場合には、反・Aというのはどういうことなのか、Bなのか、それともCという立場なのか、兎にも角にも反・Aという主張をする側もただ単にAに反対するだけでなく、自分の立場を明かした上で論理的整合性のある説得的な議論を展開することが求められる。そうでなければただの誹謗中傷だ。その営みの中で批判や検証に耐えうる新しい思想が生まれ、歴史に残っていったりするわけである。ところが、反・Aという主張を諷刺画によって行う場合、もっと安易な方法を取れる。それは、Aを主張する政治家、またはAを擬人化したキャラクターを登場させ、ひたすら醜悪に描くことである。この方法はどんな主義主張・人物に対してもマウントを取れるのである意味無敵だが、それではAに対して論駁したことにはならないし、卑怯で非生産的だと私は思う。

 三つ目は、政治的効果を優先させるあまり芸術的価値が犠牲になりがちであること。諷刺画が政治的目的を達成するためには多くの人に伝わらなければ意味がないため、どんなに馬鹿な人にも分かるようにする必要がある。分かりやすさを取った結果として、過剰なまでに説明を書き加えたりして面白味や美しさを損なってしまう。また、政治諷刺画は基本的に同じ時代・国の人々に向けた表現であるが故に、描かれた時代や地域の文脈に強く制約されてしまい、普遍的価値が認められづらいという側面もあるだろう。

批判する側・される側

 インターネットが発達した現代において、私達は批判する側・される側のどちらにも立ち得る。ここで気を付けなければならないのは、批判する側がされる側よりも偉いとつい錯覚しがちになることである。実際はその逆で、何か具体的に行動したり成果物を出して有名になることよりもそれを批判することの方が数百倍簡単である。このことはその批判がどれほど正しいものであったとしても変わらない。どんな人も物も完璧ではなく、欠点を探せばいくらでも見つけることができるからだ。誤解の無いように言っておくと、「批判は良くない」とか「批判するなら批判対象と同じかそれ以上のことをやってみせろ(所謂ほならね理論)」とは全く思っていない。正当な批判はどんどんやるべきだ。ただ、批判されるほうが批判するよりも遥かに難しいという非対称性を指摘しているだけである。具体的に言えば、政治家をやる方がその諷刺画を描くよりも難しい。そして、諷刺画を描く方が、私がこの記事で展開したように諷刺画を批判するよりも難しい。もっと言えば、この記事を書くほうがこの記事を批判するよりも難しい。そういう階層構造になっていて、「より元ネタに近い方が偉い」というのが私の思想である。どれほど優れたMADもMAD素材を超えることがないのと同じように。

*1:よく考えればそんなわけはないということは明らかだが。

写真

 私のブログの性格上あまり写真を載せる機会が無い。ただブログには写真を載せることもできるので、一回載せてみたくなった。スマホやPCを買い替える時にいつも闇に葬られてしまうので、その前にまとめておくことにした。

横須賀の三笠

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横須賀の三笠。神奈川旅行の写真がこれ一枚しか残っていない。鎌倉とか色々良かったのに、謎。

響け!ユーフォニアム聖地巡礼

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太陽の塔の裏側

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裏側がすき

リトルウィッチアカデミアコラボカフェ

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スーシィ

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合計で7,8回は行ったと思う。リトルウィッチアカデミアは神。

鴨川納涼床

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鴨川には色々な文脈があるらしい

東本願寺謎格言

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デカルトか?

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ブロントさん語録っぽい

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何か分からんけど厨二心をくすぐられる。かっこいい。

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すいませんという気持ちになる

蒼穹のファフナー聖地巡礼

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遠見医院。ここまで車椅子で上がるのが大変だった。押し上げてくれた地元の中学生に感謝。

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スカラベ

AA(アスキーアート)で見たことあるやつ

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博物館に展示してあった。ロボットらしい。

南海フェリー(和歌山⇔徳島)船内

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謎に萌えキャラを推しており、船内の至る所にいる。タッチが一昔前。

大久野島の廃墟

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2018年の抱負だったもの

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人生のテーマでもある

三ツ星カラーズコラボカフェ

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 周りはFateコラボか何かで女性ばかりの中、男一匹が命を懸けてスイーツを貪っているんだぞ。いいか、いいか。

立川

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立川。超電磁砲などでおなじみの景色。

東京ゲートブリッジ

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 東京で一番、いや日本で一番好きな場所かもしれない。都市の果て感が良い。

イキって食べに行ったフランス料理

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フォアグラのなんとか。

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仔羊のなんとか。

 めちゃくちゃ安く、フルコースで4000円くらいだった気がする。

 

おわり

文学フリマ京都の感想等

御礼とお詫び

 一昨日の文学フリマ京都にて私の「反・自伝」を手に取って頂いた皆様、本当にありがとうございました。何と御礼を申し上げて良いか分からないくらい、嬉しかったです。

 また、当日は来られなかった方も、いつもブログを読んで下さって本当にありがとうございます。皆様がおられなかったらブログを続けることも、文フリに出ることもありませんでした。

 一点お詫びしたいのは価格についてです。私は即売会に出店するのが初めてで、自宅のプリンターの印刷速度や頒布物の需要量を完全に見誤りました。その結果、すぐに在庫がなくなってしまい、頒布するためには一冊あたり200円をかけて会場にあるコピー機を使うしかなくなりました。無料で頒布できなくなった時点で売り切れにする、または200円の赤字を全て被って無料頒布を続けるなど色々選択肢はあったと思いますが、迷った末に200円で頒布することにしました。「無料だというからわざわざ足を運んだのに話が違う」と思われた方がいらっしゃいましたら、誠に申し訳ございませんでした。

「反・自伝」を書いた経緯について

 もともと私は文学フリマで自伝を出すのが目標でした。だから、このブログに載せた自伝に評判が良かった他の記事を何本か加えて冊子にすれば良いと軽く考えていました。ところが途中から「ネットで読めるものをわざわざ紙に印刷して持って行く意味が分からない」という気持ちになり、大幅に加筆しました。従って、第一部こそ殆どブログと同一内容ですが、第二部と第三部は全く新しく書き下ろしました。第一部から第三部まで一つの冊子に収録されることではじめて意味を持つような構成になっています。私のブログを読んで下さっている方もそうでない方も楽しめるものになるように努めました。

 自分の自伝の記述を逐一反転させていくという手法は結構気に入っています。こうすれば私のような小説を書けない人間でも自動的に小説を書けるというのは大きな発見でした。皆さんも時間があったら是非やってみて下さい。想像もつかないような人物像が出来上がるので結構面白いですよ。自分をより深く理解することにも繋がります。ただし、必ず先に自分の自伝を書いて、それを反転させるという順序が大事です。初めから「反・自伝」を書こうとしてもうまくいきません。

 これを思い立ったのが一週間くらい前だったので、そこからはブロンと睡眠時間と有休を全投入し、やっとの思いで書き上げました。夜中に自分と反転した自分を脳内で対話させたりしていると気が狂いそうになります。こんなことを日常的にやっている小説家というのはとてつもなく凄いなと思いました。

 こうして生まれた鬼灯零香という人物ですが、折角なので何かに使っていけないかなという思いもあります。例えば、Vtuberとしてこの世界に召喚してやるといったことです。でも面倒臭いし、やっぱりそんなことをするのは野暮な気もします。彼女には彼女の世界で元気にやっていってもらう方が良いのかもしれません。鬼灯零香は右利きだろうな、とか、本名だろうかペンネームだろうか、東京のどのあたりに住んでいるのかな、などと妄想するのが楽しいです。

店を出すことによって生まれる交流

 私が今回出展して一番良かったと思うのは、色々な人と交流できたことです。私はコミュニケーションが苦手なので自分からは人に近寄っていけませんが、ブースを出すと何もしなくても向こうからやってきてくれるからありがたいです。その中には面識がある人も初対面の人もいましたが、ここでは主に後者の中で特に印象に残った二人を挙げます。

 一人は、スナネコ氏(@Ray_Neco)。京都を中心とするサイバー勢力、俗に言う”京都若者界隈”の人物相関は非常に複雑であり、私も何がどうなっているのか全く分かっていません。スナネコ氏はそんな私に対し、鍵を握る人物を何人か挙げ、彼らをウォッチすれば全体の動きが分かるとアドバイスしてくれました。他にも色々と悪い話を聞かせて下さったので、まさにインターネットという感じがしてワクワクしました。本当に親切な方です。こういう話はありがたい限りです。

 もう一人は、「人民新聞」のブースから来たという女性です*1。私は外山恒一が書いた戦後左翼史の本を読んだばかりだったのでテンションが上がってしまい、「中核派ですか?革マル派新左翼なんですか?」などと口走りました。しまった、失言だったかと思ったものの、「そう!まさに新左翼です!ただ私達は中国派です」ということで、当たらずとも遠からずという感じで結果的には大丈夫でした。家に帰って調べたところによれば、中国派というのは毛沢東主義のことらしいです。いずれにせよ、かなり筋金入りの左翼であることは間違いありません。何か寄稿して欲しいと言われたので「考えておきます」と言ったがおそらくしないでしょう。私は別に毛沢東主義者でもないし。ただ、彼らのようなゴリゴリに思想色の強い団体であっても文学フリマから排除されることなく堂々と参加できているのは、文学フリマが自由な言論空間として健全に運営されている証拠であり、素晴らしいことだと思います。昨今コミケの運営が色々と物議を醸していることもあり、色々と考えさせられました。

入手したもの

・感傷マゾvol.01

・アニクリvol9.0

・アニクリvol9.5

・問題のある子

インターネットの神様

 まどどれも読めていません。早く読みたいです。読んだら感想をアップするかもしれません。上記五冊の作者の方々、ありがとうございました。

*1:厳密には自分は人民新聞とは別組織だと言っていたが、よく分からない。