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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

生殖・出生前検査・中絶・出産・養育・虐待の倫理

 女性の中絶の権利を認めたロー対ウェイド判決を米連邦最高裁が覆した時、私は驚愕するとともに地獄の釜が開いたと感じた。
 先に申し上げておくと、米国で妊娠中の女性は目下悠長な議論どころではない状況だと認識している。立場に関わらず、何よりも優先して彼女らの安全と健康の確保がされるべき時だと思う。

 結論から言えば私はいわゆるプロチョイス(中絶容認派)の考えのほうに近い。その理由は後述するとして、私はプロライフ/プロチョイスという二者択一の政治闘争からは少し距離を置こうと思う。むしろ生殖を巡る様々な思想(当然上記2つも含むが)について「誰を主語に論じているのか」を具に見ていきたいのだ。

 私も(遺伝性でこそないが)一人の重度障害者として、いつか生殖や子育てに関する考えを整理せねばと思い続けてきた。しかしこれは個人的にかなりキツい論点だ。報道を読むだけでも相当堪える。また日本の行政による生命倫理関係の会議体を見るのも心底辛く悲しい。字句の綱引きの果てに玉虫色の折衷案を出すのも大事なプロセスと頭では分かりつつも、本当にストレスフルで苦行そのものだ。立場・利害・思想に溝があり過ぎて議論の体を成していない。
 しかしだからこそ、まず個々人が各々の軸でしっかりと考えを深め首尾一貫した意見を持つことが必要である。勿論こんな陰鬱な話題を好き好んでしたい人は稀だろう。私もしんどい。それでも一人ひとりが重い口を開き、少しでも議論を蓄積しておかねばならない。でないと、予見される生命科学の加速度的進化に社会が対応できず混沌に陥りかねないからだ(未来の話は主にⅣで扱う)。

 さて本稿では、①プロチョイス②旧優生保護法下における障害者への強制不妊手術③プロライフ④出生前検査に基づく選択的中絶⑤ベネターの考え について順に見ていく。
 この5つは互いに排反ではなかったり、レイヤーが違ったりするからそもそも並置できないことは承知している。ただ「主語」という切り口でこれらを俯瞰する試みには、多少なりとも意味があると考えた次第だ。

①プロチョイス(女性の選択と自己決定権を重視)

 女性も含む全ての人間は自らの体を所有しており、己が欲し、かつ可能な行動を妨げられない権利がある。その意味での身体の自由は当然、妊婦にもある。他方で、胎児は母親の内部に留まる限り未だ人ではない。従って生存権が及ばない存在だ。よって中絶は容認されるべき。以上が私なりの①の理解だ。
 これは言うまでもなく妊婦を主語とする発想だ。私も「好むと好まざるとに関わらず、妊婦を主語にすることは議論の大前提だ」と考えている。何故なら、仮に他の人や物や事を主語にした場合にはいくらでも危険な議論を展開できてしまうからだ。これは後述する②〜⑤でお分かり頂けると思う。

 しかし、女性が己の肉体を自由にできるのは当然と認めつつも「それが指し示す範囲については一考の余地がある」との指摘もありうる。例えば中絶クリニックでは他者(医師・看護師ら)や医療技術や社会資源の助け等々を借りるだろうから、厳密に言えば中絶は己の肉体のみによって為した行為ではないのでは? 自明かつ固有の身体的自由のみを以って、直ちに中絶へのアクセス権まで導けるものだろうか?etc...
 私の意見は明確にイエスである。
 現実的な理由としては妊婦の身体を深刻な危険から守るためだ。中絶の経路を遮断しても独力での堕胎に向かわせるだけで有害無益なことは歴史が証明している。
 ただもう一つ重要な理由がある。それは「現代において科学技術を自らの肉体に施すのはごく普通のことである」という点だ。つまり身体的権利の概念を援用することによって「『自己決定権』として擁護されるべき範疇にある」と考えられるからである。
 何も生殖周辺に限った話ではなく美容整形もあればタトゥーもある。また例えば私は生まれつき全く歩けず、電動車椅子を用いて移動している。それが認められる理由は多分次のようなものだ。圧倒的多数の人々は己の肉体により「歩いて移動する」という自由を行使できる。このことからの類推により、社会が「歩けない者にも歩ける人と同じく移動する権利はあると見做せる。それは自己の身体に関する自由に含まれうる」と考えたのだろう。つまり人々の間で「身体の概念を(車椅子を包含する形で)多少拡張的に解釈することになっても、その方が社会の在り方として望ましい」という認識が共有されたおかげ、とも言い表せる。
 再び生殖の領域に目を転じると、体外受精や不妊治療、そして帝王切開等も含むより広義の生殖補助医療が既に在る。現代のテクノロジー社会においてこれらを女性の身体的自己決定権の範疇に含めることに対して、さほど異論は出てないように思う。
 もっとも、その「自己の身体への自由」の援用・拡張はどこまで許容されるのか、については今後大きな論争となるだろう。極端な例を出せば「人間の子宮を全く介さない、工場のような設備での人工的出生が超低コストで技術的には可能」といった世界状況になった場合は、身体をどのように考えるべきなのか。これらはⅣに譲り、本稿ではあくまで現状に足の付いた議論を続ける。

②障害者への強制不妊手術

 これは旧優生保護法の下で、障害者に対して子供をもうけられないようにする手術を本人の同意なく強制した施策を指す。正当化されていた当時の理屈は、端的に言えば「障害者が子供をもうけても自分で面倒を見られない。また障害児が生まれるかもしれない。そうしたことにより、国や社会や障害者の親が迷惑を被るから。」となろう。
 ここでは主語が「国や社会や障害者の親」が主語となる点に注目されたい。なお既にこれは明確な人権侵害であった旨の判決が出ている。

③プロライフ(中絶反対派)

 この立場の中では2通りの主語が考えられる。
 前者は宗教の教義や家族を重んじる規範などを主語にして「そうした尊い価値が中絶によって損なわれる」という筋である。これは結果(生む/生まない)の方向や価値観こそ真逆ながら、大きくて概念的なものを主語とする点は②に通ずる。
 後者は胎児を既に生きた「人」と見做す考え方。これに従えば胎児も主語になりうるのだ。つまり「『胎児の命』を『中絶という殺人』から守る」という訳だ。
 おそらく後者の方がよく使われる理屈であろう。
 私は「胎児をどの時点から人と見倣すべきか」には正解が無く、文字通り神学論争に陥るほかないと考えるため、ここでは立ち入らない。各々の時代・国・地域の中での社会的合意や法律があり、そしてそれと別個に一人ひとりの個人的信念があるだけだろう。
 その上で私個人の意見を言うと、産道から完全に出てくる前の胎児は人ではなくて、出てきたら人(赤ちゃん)だと思っている。そして両者を同列に扱うのはかなり危険だと考える。胎児を主語にすることは、非存在者を主語にするのと事実上変わらないように思えるからだ。非存在者を主語にすればどんな結論を導くことも可能になってしまう。それは⑤で詳述する。

④出生前検査により胎児の染色体異常を推定し、選択的中絶を行うことについて

 これについては文春オンラインで扱わせて頂いたことがある。

【方針転換22年ぶり】人が「子供が欲しい」と言う時の本心は…新型出生前診断が突きつける“難問”の正体 | 文春オンラインbunshun.jp

 ご覧の通り専門記者へのインタビュー記事でありながら、取材者の私の苦悩が前面に満ち満ちている。それは決して褒められた仕事ではない。だがそれも忘れるくらい苦しく悲しかったのだ。これほど始終辛い気持ちで脱稿まで悩み続けた記事は後にも先にも無い。
 ただ時間を置いた今は少し感情と距離を取って冷静に考えられる。手続きや進め方、運用面には様々な疑問があるけれど、やはりNIPTは安価に利用でき、かつ確固たるニーズに裏打ちされた技術だ。そして生殖と強力に紐付けられた「家族」という制度が厳然と在る。その現状を前に良し悪しを云々しても、何も変えられない以上、無意味だ。

 従って本稿では、より実のある論点を新たに立てることにした。それが主語に注目していくことであった。主語によって③をア・イ・ウの3つに分けて考えていく。

ア 妊婦が主語になり行う場合

 ①の内容と併せて考えれば当然十分に認めなければおかしい。

イ 男女(カップルや夫婦等)の双方が主語となり行う場合

 これも容認されるべきだろう。もちろん実際に産む/産まないの決定権は妊婦のみにあり、父親はそれに対しいかなる「強制力」も持つべきではない。しかし他方で、父親も妊娠に関わっている以上、「責任」については共有していると見るべきだ。
 従って、この場面における決断の主語に進んで加わり、出生前検査や選択的中絶の重みを分かち合うことは、むしろ望ましいコミットメントと言える。

ウ 非存在者、あるいは曖昧な概念を主語にして行う場合

 これは例えば「ダウン症でこれから生まれてくる子供(非存在者)がかわいそう」とか「偏狭な社会や差別(曖昧で大きな概念)を考えると、そうせざるを得ないのだ」といった形で、決断の主体からスルリと抜け出す在り方を指している。
 たとえ「選択的中絶を行う」という結論は同じだったとしても、アやイのように考えるのと、ウのように考えるのでは、全く違う話になる。そして私はウに対しては強い憤りを覚える。決定の主語の設定の仕方が誤っているからだ。
 日本も含む多くの国々では「出生前検査がマス・スクリーニング(集団検査)になることは決してあってはならない」という前提が共有されている。つまり、胎児に染色体異常が推定された場合に約8割前後が中絶するという現実がある*1にせよ、それは「政府や医学会が勧奨している訳では全くなく、あくまで個々の判断による選択の集積の結果そうなっているだけ」というのが建前なのだ。
 これは大変白々しく思えるけれど、しかしそれでも絶対に譲れない重要な一線である。出生前検査という技術は「親が(そもそも検査するか否かも含めて)決定の主体として責任を持つ(=親が主語になる)」という前提の上に辛うじて認められているのだ。これはいくら強調してもし過ぎることはなく、何度でも繰り返し思い起こすべき大原則だ。
 これを蔑ろにするのは、偏狭な社会や差別の再生産に進んで加担するも同然だ。そうした態度が罷り通れば出生前検査は「保険適用⇒義務化⇒マス・スクリーニング」の急峻な滑り坂を瞬く間に滑降し、更には生殖の範疇を超えて破壊的な悪影響を生むだろう。好みの問題かもしれないが、私はそんな優生思想に塗れた未来は断固拒否する。

⑤べネターの反出生主義と反出産主義

 ベネターは基本的に「全ての胎児は生まれる前に中絶されるべきである」と考える。彼は生まれた子ども(存在者)と生まれなかった子ども(非存在者)を比較する。そして「存在することによって前者が少しでも害悪を被るならば、存在しない方が良かった」と考えるのだ。
 反出生主義の部分については、Ⅰ 生まれてきて良かったで批判者の議論を引いたり自身の感覚を基に論じたりして、明確に誤りであると示したつもりだ。
 しかし誕生害悪論は否定できても、生には必ず苦痛を伴うことは否定できない。だから「本人の同意が無い(取りようがない)のに強制的にその子を存在させることは人権侵害であり倫理的に悪である」というのが彼の反出産主義の部分だ。
 私の考えは短く言えば以下の通りだ。
・妊婦を主語に考えるべきであり、出産の判断は妊婦自身が行うべき。
・出産という行為自体は善でも悪でもない。
 ただし生殖の営みに含まれる「存在を強制する力」は決して軽視すべきではない部分である。親の悪意や劣悪な環境、予期せぬ偶然等々によって、その存在強制力が大きな暴力性を伴うものとして事後的に強く意識され焦点化されることは十分にあり得るからだ。生み出された子が、被った苦痛を表明したり親を追及したりすることは全く正当である。
 親はそれに対してどのような応答責任を持つのか。あるいは社会や法制度の上でどのような救済の手段が考えられるのか。そうしたことについてはⅣで詳述する。

 さてこれまで生殖を5つの切り口から見てきた。単に「①が相対的にベター」と結論するだけなら、こんな回り道をする必要は無かった。では何故したかというと、以下の3つのことを示すためだ。

◉特にややこしい問題であればあるほど「主語が大事だよね」ということ。

◆出生前検査や選択的中絶を行うと決める時に、社会の偏見や差別に親と同程度の責があるのは否定しないが、罷り間違っても自分達だけを巧妙にそこから抜いた上で社会を主語にするような真似はしないで下さいね、というお願い。

子を成すことは悪ではないが、同様に善でもないこと。つまり我々が日々行っている善悪のいずれにも属さない無数の行為であると考えるのが一番無理がない。

 これらは子育てや虐待について考える上でも踏まえるべき非常に重要な前提であるため、きちんと確認しておきたかったのである。

《《養育と虐待》》

 本稿で養育を論じるのは生殖の話と良くも悪くも密接に関係しているからだ。つまり切り離して考えられない部分で切り離して扱われたり、逆に切り離して考えるべき部分で一緒くたにされがちなのだ。

【連帯責任・共同正犯】

 扶養義務者(親・保護者等々)、各々の職権の範囲で子供と関わる大人(教師・保育士等の専門職、地域コミュニティなど)、そしてこれら2つを除いた日本社会の全ての成員の総体。私は子供の養育において、この3者が上下関係なく等分に連帯責任を負うと考えている。
 例えば虐待が最たるものだが、子は育つ中で多かれ少なかれ人権侵害を被る(狭義の犯罪だけでなく不当な躾や規則の強制なども含む)。これについて、上記3者は責任に濃淡のない横並びの共同正犯の関係にあると見做すべきだ。親が正犯で社会が共犯なのではない。社会が正犯で親が共犯なのでもない。共同正犯で両者等しく悪いのだ。こう考えることには「悪いのは親か社会か」という不毛な責任のなすり合いにならなくて済む利点がある。
 私が虐待経験について語る時、障害学の専門家を自称する健常者や奇跡的に家庭に恵まれた障害者が好んで口にする言葉が「まあでも親御さんも社会の抑圧の被害者なんだよ」である。親の立場にも思いを致してみろ、と。こうした訳知り顔の総括を私は完全に拒絶する。それを被虐待経験者に言うことの意味も分からないのだろうか。皆さんもその手の輩とは即座に絶縁したほうがいいですよ。
 もちろん子育てに限らず、程度や性質の差こそあれ、私達の行為は全て社会と関係しており社会からの影響下でなされる。それは否定しない。だから加害者が何をしたとしても「自分は社会の被害者なのだ」と主張することはできる。
 だが私の考える「社会との共同の様態」は、内面化されて表出する言わばイマジナリーフレンドのようなものであり、パペットのように絶えず手足を社会に無理矢理動されているというイメージではない。
 従って、くどいようだが「親もまた社会の被害者なのだ」という語りには絶対に与しない。社会の歪みと親の心根は互いに影響し共鳴し合い、子供にその矛先を向けるのだ。親はそのうちの実行役である。つまり自分に最も依存し仕返しできない弱い相手を標的にし、その支配力を余すところなく利用しながら暴力、暴言、その他の醜悪な攻撃を行ったのだ。どう好意的に見ても、親は社会と並ぶ共同正犯であり「親もまた被害者」などとは口が裂けても言えまい。

【「でもその親がいなければあなたは居ない」?】

 虐待の非倫理性は、出産との因果関係の中で捉えるべきではない。
 時々「あなたがいるのはその酷い親のお陰なのも確かだから、糾弾する権利は無い」と言う人もいる。もし仮にそうであれば我が子を虐待しようが虐待死させようが何ら問題あるまいし、児童相談所なども全く必要無いだろう。
 つまり出産は善悪に属さない行為にせよ(あるいは百万歩譲ってそれ自体「善」だとしようとも)、それによって、後に行った虐待の悪辣さが相殺・減免・正当化されうると考えるのは言語道断である。本来自明なことの筈だが、しばしば混乱が見られるので今一度はっきりさせておく。こうした妄言が蔓延る中では、被虐待経験者達が反出産・反出生主義に惹かれるのも無理からぬことだ。

 私はⅠでも述べた通り「生まれてきて本当に良かった」と思っている。しかしそれに続く虐待については全く許すつもりがない。少なくとも父親(この人間に対する他の呼称を思いつかないので便宜上こう表すが、家族とは一切思っていない。)についてはそうだ。これは別段矛盾した思いでもなかろう。

 今は遥かに良くなっていると思うが、昔はまだ幼稚な人間が結婚し家庭を持ててしまう時代だった。すると幼稚な人間は家族の他の成員を支配する。支配すれば全て相手に忖度させて自分は何も忖度する必要は無いのでますます幼稚になる。幼稚な人間は自らの罪に気付けない。まして己の意思で罪を償うことなどできない。贖罪の無いところに許しも無い。
 虐待を生き延びて大人になった方の多くも、決してそれを忘れた訳ではないと思う。ただ自分の摑んだ現在の生活があり、今更幼稚な人間と関わって時間を無駄にしたくないだけだ。私も本当にそう思うし、より忙しい方は尚更そうだろう。その結果、虐待者は幼稚であるが故に苦しむこともなくのうのうと逃げ切る。むしろ被虐待者側の方がずっと葛藤を抱えて生きていかねばならない。結局なあなあになって、謝罪も気付きもないまま、ある意味では支配が続く訳だ。

 考えるべきは、果たして社会としてそれで良いのかどうかだ。そう、ここでこそ社会が前景化されねばならない。自力救済によらずこの不条理を断ち切るために、何らかの仕組みが必要ではないのか。これはⅣで扱うことにする。