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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

哲学者が障害を引き合いに出す時のこと

 各々の哲学者に主張の中身とは別に自問してほしいことがある。人生の意味や存在の良し悪しについて哲学的に議論する際、不幸・苦痛・害悪等の顕著な例として、障害をあまりに引き合いに出し過ぎてはいないだろうか。
 前記事で言及した森岡氏の著書*1にも「たとえば、重い病気や障害を例にとって考えれば、」*2のように「重い病気や障害」という定型句が繰り返し登場する。これはベネターや森岡氏に限らず多くの哲学者に言える。その頻度の高さから察するに深い考えがあってのこととは思えない。むしろパッと思い付く不幸の代名詞、苦痛や害悪のワイルドカードのように認識されている感じがする。
 もしよく知らないままにそうした理由で濫用しているのだとすれば、現に重い障害を生きる私にとってはおもしろくない。障害者が社会や創作物に理由なく登場することは私が常々願っていることだ。しかし障害という属性が抽象的な形で幸不幸の議論に重宝されるのは、それとはむしろ正反対のことに思える。

 もちろん「単なる例示に目くじら立てなくても」とか「障害の代わりに他のマイノリティ属性の例示なら良いのか?」といったご意見もあろう。
 私は「障害を思考実験の道具に使うな」とは言わない。私も現にやっていることだ(自分が障害者だからこそ、という面も大きいが)。ただし思考実験をするにせよ、本来はその時々に論じたいことに相応しい属性を適切な形で例示すべきだろう。 何が論点だろうが文脈がどうだろうがお構いなしに障害を乱発するのは感心しない。

 そして使うのならやはり最低限の解像度は持っておいて欲しいと思う。これは障害に限らずどんな属性やマイノリティを引き合いに出す時も同様である。
 ところが著者にその認識があるのか疑問に思わざるを得ない文が往々にしてあるのだ。そうすると、どうしても問いたくなってくる。あなたは病気と障害の異同を理解した上で敢えて並列させたのか? それとも「同じようなもの」という雑な考えから出てきた言葉の綾なのか? どれだけ障害について知ってますか? 障害者であるとはどんなことだと捉えていますか? 実際に重い障害を生きている人に会ったことありますか? 具体的な知人や友人の顔が思い浮かびますか? その人達とどう関わり、何を感じましたか? 彼らと生について深く話をしたことはあるのですか? これらくらい聞いても罰は当たらない、と私は思う。

 もちろん私の人生の中での障害の意味、そこから来る喜びや苦しみは私だけのものだ。これを知れと主張している訳ではない。究極的に私以外の誰にも共有できないものだし、仮にそれを分かると言う人がいたら逆にふざけんなという話だ。ましてや知識量を問うクイズがしたいのでもない。

 しかし哲学者自身が「重い障害」と言う時に想起しているような状態に身を置く人と、なるべく関わりを持つように心掛けることはできると思う。1人でも得るものは大きいと思うが、できれば2人以上と双方向の関係を結ぶのが望ましい。するとまず(当然ながら)障害という属性だけがポコンと存在しているのではなく、障害者が自分と同じく一人の生きる人間であるということを理屈抜きに実感するだろう。次に「『重い障害』と括ってたけど、これだけバラバラな人達なんだな」と、その多様性に驚くに違いない。
 その個別性を体感し踏まえた上で「彼らの生における障害の位置や意味付けには何か通底するものがある」と感じて言葉にする哲学者も居るかもしれない。それは決して悪くないし、むしろとても素晴らしいことだ。出会った人数の多寡や障害種別・年齢・性別等々の偏りなどは全く問題ではない。これは統計学的調査ではないからである。哲学者個人の経験から抽出された示唆に基づき、彼/彼女が思うところの「障害」や「障害者の生」を語ることに何ら差し障りはない。それはもはや、当事者との接触もなく「重い病気や障害」と慣用句的に口にしていた時とは、内容も重みも全く違う言葉となっている筈だ。そういう誠実な哲学者が語る「障害」や「障害者の生」というものは、私が聞いても非常に学ぶところが多い。
 まして哲学者は思想を通じて立法過程や制度設計にも大きな影響を与える存在だ。彼らが哲学の中で「障害」という言葉を用いる時、そこに実践的裏付けがあるか否かは、私の生活にも直接関係する。故に極めて重要な関心事なのである。

 

*1:森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか? ──生命の哲学へ!』、筑摩書房、2021

*2:位置: 4,507