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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

生まれてきて良かった

「ここじゃ生きられない
けどここが好き
好きって分かった
うれしい」*1

 本稿ではべネターの反出生主義*2に私なりに向き合ってみたい。
     誰にとっても、この世に生を受けることは、生まれてこないことよりも必ず悪い。生まれてくることは常に害悪であるーー
 そう主張する彼の本は、人生に悲観的な私にとっては極めて魅力的な思想に映った。彼の思想は障害者差別や優生思想ではない形で、私の辛さを説明し受け止めてくれるように思えたからだ。
 しかし次第に疑問が頭をもたげてきた。ベネターが倫理的な問題を説こうが何を言おうが、人々はお構いなしにどんどんと生殖を行う。物理的に可能で、禁止されておらず、やりたいことであれば、人はそれをやるだろう。別に第三者の許可など微塵も必要としてなかろう。現にできるのだ。それにどう対応していくのかについて、私は現実的な筋道を聞いた例が無い。物理的な手段であれ法律を通じてであれ、理想を実現するために本気で動いている反出生主義者を寡聞にして知らない。少なくとも現時点での技術水準と社会規範の下では到底不可能だろう。
 加えて近しい人達が子どもをもうけるということが相次いだ。現実が同じであれば、それをもう少し前向きに受け止めたいと思うようになった。
 もっともベネターの論は確かに実現可能性は乏しいのだが、一方では毒をもって毒を制すような形で、様々な思想の問題点を洗い出しそれらを陶冶してきたのも事実である。それはつまり考え方としての強力さの証であり、反駁しようにも到底私一人では手に負えない。そんなこんなで反─反出生主義という考え方に目が向くようになり、手に取ったのが以下の本だ。

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書) | 森岡正博 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon

 ただ森岡氏(以下、敬称略)は反出生主義と反出産主義を分けている。後者は「生まれてくる子の同意を取ってない(取れない)のに、人を否応なく存在させることは倫理に悖る」という趣旨の議論だ。これについては森岡も認める通り本書の中では論駁できていないため、稿を改めてⅡ・Ⅳで独立して扱いたい。本稿では前者のみを扱う。

 ここでベネターの論を簡単におさらいしておく。森岡の表現は大変簡潔で平易なため、孫引きとなり恐縮だがこれを使わせて頂く。

ある人が存在するときには、苦痛を経験することは悪であり、快楽を経験することは善である。*3

これに対して、ある人が存在しないときには、苦痛を経験しないことは善であり、快楽を経験しないことも善に等しい。*4

よって

ある人が存在しないことは、ある人が存在することよりも善い*5

 これらが崩された瞬間、ベネターの誕生害悪論は悉く根拠を失い瓦解する。従って批判者としては必然的にこの辺に狙いを定めて突破を図ることになる。重要なのはその持って行き方なのだが、私には森岡のアプローチが素晴らしく鮮やかに映った。
 森岡は「私」という、一見最も主観的で頼りなく思える主語を使って『存在の害悪』論を内破させているのだ。つまり「今既に生まれてきている私」が「私は生まれてこない方が良かった」かどうかを考えたり論じたりすることは原理的に不可能である。何故なら、正否を判断する以前に、そもそもその文自体が矛盾を孕んでおり意味を為さないからだ。その厳密な論証については、ここでは詳述せず本書に譲る。私は非常に納得できる内容だと思った。
 森岡もべネターも「生まれたらどのみち生きていくしかない」とする点では同じ結論である。だが「本来、私は生まれてこないほうが良かった」という軛からの解放は大変意義深いことだ。個々人が生に対して自分なりの積極的な意味付けをする余地が広がるからである。
 しかしたとえ上のように明確に否定されてもなお、反出生主義は個々人の心の奥深くへと感覚的に強く訴求してくる。それに抗うには反─反出生主義の理論を一度読んだだけでは不十分だ。真にそれを実感し血肉とするには、己の人生の文脈の中に位置づける作業が要る。我々一人一人が、それぞれに経験してきた主観的感覚や具体的体験と紐付けて捉えられる次元にまで、落とし込んで考えていかねばならない。いかに稚拙であっても自分の言葉で語るのだ。その際に重視するポイントは十人十色だろう。以下はあくまで私なりのバージョンである。

 私はそもそも、生を快楽/苦痛の二元論で語ること自体に違和感を覚える。
 確かに人間も生物であり(脳の形質も含め)肉体を持つ以上、快楽/苦痛は生の極めて重要な側面である。1秒たりともその影響から脱することはできない。しかし、専ら快楽の最大化と苦痛の最小化だけを追求しているのかと言えばそれは違う。人間は理論や概念の領域もまた知覚できるからだ。意識の働きによりこの2つの領域を重ねることで物事に「意味」を見出す。それこそが肉体と理論の狭間にある人間の性質である。
 しかも、意味は単に快不快と理の領域から生み出されるだけの従属物ではない。むしろこの三者は相互に作用し合っていると捉えるべきだろう。つまりひとたび生み出された意味は、その母体である快と苦痛の回路や理の在り様にまで影響を与え返し、それらを基準もろとも書き換えさえするのだ。
 だから己の過去への眼差しは絶えず変転し、そこに見出す景色の好悪も美醜も次々に移ろうことになる。

 もちろん次のように考える方もいるだろう。つまり人生を任意の瞬間瞬間ごとに取り出せば、外界の物理的な状態にせよ、己の脳内で生起した電気活動にせよ、事実は1つしか存在しない。故にそれらの積分たる人生の総体も1つの在り様に定まるから、何らかの尺度でその良し悪しを算出することも(技術的な問題は措くとして、少なくとも原理的には)可能ではないか、と。

 しかし忘れてはならないのは、人が自らの過去を思い起こすという営みは、いつでも任意のタイミングで、任意の部分を対象にして行うことができる、ということだ。しかもそれは何らかの意味のまとまりとして呼び出されることになる。即ち「今の私」が主体となって過去や半生を遡及的に意味付ける事に他ならない。言い換えれば人生は任意の時点の「今の私」によって絶えず解釈し直される。だから当然「私」の価値観、肉体、脳機能の不可避的な変容に応じて、記憶の面でも意味の面でも、過去は生成され更新され続ける。喜びと悲しみ、楽しみと苦しみ、希望と絶望、幸と不幸とは、後からいくらでも入れ替わる。

 これは「塞翁が馬」の故事でもお馴染みのことだろう。やおら漢文を引き始める奴は馬鹿だと思われるのは重々承知しているが、これは特にお気に入りの言葉なので何卒お許し願いたい。
 格別好きな理由は、最後を「戦争が起き健常な若者は9割死ぬ中、足が不自由になったお陰で徴兵されずに済み、めでたく無事でした」的な締め方にある。肢体不自由が幸いする所で話を終えたことは二重の意味で素晴らしい。
 一つは言うまでもなく、私と同様の障害を持つ人物が生き延びるラストだからだ。
 もう一つは、禍福が反転し続けるこの故事にあって、九死に一生を得た時点を以て幸不幸の結果を確定させている点だ。つまり「ところがどっこい、跛で生き続けることで味わうことになった苦痛を思えば、実は戦死していた方が幸せだったのだ」という逆転を更に続けることもできそうなのに、そうはなっていないのである。
 ここには「生は死より良い」という暗黙の前提が隠れている。つまり、幸が不幸になったり不幸が幸になったりする逆転は、生者のみが生の枠内で感じられる特権なのだ。死者はこの逆転を起こせないが故に、もはや「塞翁が馬」の領域外の存在なのである。だからこそ生者と死者とを比較して今一度逆転させるという発想は無く、そこで幕切れとなるのだ。この故事成語の本質を鑑みるに、それは結果的に大正解だったと思う。

 さてこの故事の中で相次ぐ大逆転は、全て明快かつ客観的な物理現象を伴う。そのため当人達の内心の幸不幸は、第三者からも相当な蓋然性をもって類推され得る。でないと諺としての伝達機能を果たせないのだから当然だ。ただ言わずもがなだが、幸と不幸の逆転は外的な変化や明確な契機などなくても容易に起きる。昔喜んで経験した物事を後から振り返ると、そこに居た自分も含む全てがただ忌まわしく、吐き気を催す日もある。逆に、害悪でしかないと思っていた過去が、実は生きる上での張り合いになっていたのだな、と感じる日もある。これらのケースでは己の心持ち以外に何も変わってはいない。もっと言えば、そのような心境変化の理由が自分にもよく分からない、ということさえままある。

 つまり人間は効用の電卓ではないし、人生は快楽と苦痛のP/LでもB/Sでもない。己の半生をどう認識し評価するかは常に流動し続ける。息を引き取る瞬間まで、ついぞ暫定的見解の域を出ることはない。人生をパキッと正負に分ける考え方では、こうした人生の動的な側面を捉えられないのだ。だからどんな尺度を用いた分け方であろうとも、そこには意味もリアリティも無い。

 ここで少しだけ自分語りをさせて頂く。後述する言葉に重みと説得力を与えるためである。それがベネターへの憎悪に由来する空言ではないことを、具体を提示することで何とか感じてもらいたいのだ。
 私はむしろ心情的には、反出生主義を直感のみで一蹴できるような快活な人達よりもベネターのほうに共感してしまう口だ。もちろん私の半生が他人より恵まれているか否かなど分からないが、少なくとも世間的には不幸に分類される経験だらけだった。
 またより重要なこととして、その時々を生きる私の主観からしても実際それらはただただ苦痛だった。敢えて先程批判した二分法で表すならば、殆どのライフステージにおいて、快楽:苦痛の割合を1:9ぐらいに感じつつ生きてきた。諸々の苦痛の渦中にあって、現在形でそこに積極的な感覚を持てたことも殆ど無い。
 重度脳性麻痺、虐待の日々、度重なる手術があった。どこに行っても、周囲に迷惑を掛ける上に当の自分も居た堪れない。夢はことごとく破れ、身近な場所で多くの人命が奪われ、無秩序と不条理に圧倒され、未来への展望も無く、這々の体で永らえてきたに過ぎない。彼の本に魅入られる程度には多大な苦痛を経てきたと思う。

 それでも私は今、自らの人生を振り返って「良い」と感じる。なかなか良い人生を送っていると思うし、とても愛着がある。

 もちろん上記のような苦痛を味わいたくはなかった。しかしその苦痛は同時に今、間違いなくこの文章の核心やそれを書く動機にもなっている。文章を書くことは、私にとってこの上なく楽しく喜ばしい営みだ。つまり、苦痛であったことが快楽にもなっている。両者は表裏一体なのだ。人生を2つに分割することなど、どうしてできようか。

 偶然必然、酸い甘い、全てひっくるめて趣深い。私は私の人生をどう感じ、どう解釈し、どう構成し、どのように語ることもできる。その自由が私にはある。私だけにある。それが心を深く満たす。  

 だから私は「生まれてきて良かった」と心から思う。もっとも「生まれてくる」と言うと自分の意思で生まれたようにも取れる。正確には「はからずも強制的に存在させられてから今までに味わったことを、総体としては気に入っている。」と言うべきかもしれない。 それを噛み砕いて実感を込めた表現が「生まれてきて良かった」なのだ、というのが私の理解である。

 これには理由があるとも無いとも言える。

 まず「ある」とするならば、良かったと感じる今の私を作ったもの、即ち今までに送った人生の総体、それ自体が唯一の理由である。
 この1年は特に苦痛に満ち満ちていた一方で、新たな気持ち、人の優しさ、世界の良さをこれまでになく感じることができた。他人の感情や考え方に対し「ああ、これのことか」と身をもって共感する。あるいは他人の痛みを自分の痛みのように感じる。そうしたことは私には起こらないと思っていた。まして三十路近くまで無縁だった感覚を今更得ようとは。
 一生分からないと思っていた感慨や、持ち合わせていないと思っていた願いが心に宿る時、ここまで生きてきて良かったと腹の底から思う。過去の全ての蓄積の末に、知らなかったことを知ることができたのだから。率直に嬉しい。
 べネターに言わせれば、これぞまさに存在者特有の錯誤、楽観バイアスの極みなのだろうが、それならそれで結構だ。単に「同じものをどう呼ぶか」という問題に過ぎないように思う。

 他方、再現性のある形で論証できるものだけを理由とするならば「理由は無い」ということになる。森岡は誕生害悪論の否定に飽き足らず、誕生肯定を哲学によって行うという目標を掲げる。それはこの段落の文脈での「理由」を作り上げようとする試みとも言える。
 だが私はそうした理由も特に必要としていない。私の中に今「良かった」という気持ちがある。それで十分満足だ。
 もちろん、この感覚を読者と分かち合いたいからこそ、本稿を書いているのは間違いない。しかしそれは「この気持ちを他の人達や未来の私も必ず持つように一般化しよう」といった蛮勇の類とは似て非なるものだ。そんなこと無益だしできないし興味も無い。だからやらない。
 それは「生まれてきて良かった」という思いが、何の理論や信仰にも裏付けられていないということでもある。つまり悪く言えば無根拠である以上、明日には消えていてもおかしくない。それは確かに少し怖いし不安だ。誕生を肯定する気持ちの拡張や固定に駆られる心情も分かる。だがそれは決してできないし、すべきでもなかろう。それをした瞬間に、この気持ちは何か全然別の危険で醜悪なものに変わり果て、全てを失うように思えてならない。

 今の私の「良かった」という気持ちは確かに存在する。それはある時点の主観以外の何物でもない。しかしだからこそ、誰にも決して否定できない強さを持つ。 

「あんたたち綾波シリーズは
第3の少年に好意を持つように調整されてる
今の感情は最初からネルフに仕組まれたものよ」

 

「そう... でもいい
よかったと感じるから」*6

*1:庵野秀明、鶴巻和哉、中山勝一、前田真宏, シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇(EVANGELION:3.0+1.0 THRICE UPON A TIME), 2021, スタジオカラー, 映画

*2:David Benatar, Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence. Oxford University Press, 2006
【邦訳】:デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった──存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宜義訳、すずさわ書店、2017

*3:位置: 652

*4:位置: 653

*5:位置: 4,141

*6:脚注1に同じ