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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。文春オンラインなどに執筆しているライターです。令和は純愛の時代である。

政治諷刺画が持つダサさの普遍性について

 皆さんは、新聞の隅っこに載っている、政治家の顔を極度に誇張した諷刺画を見て、何となく不快な気持ちになった経験はないだろうか。私はあの手の表現がとても苦手で、端的に言ってダサいと思う。別に政治やそれにまつわる表現が嫌いなわけでもないし、諷刺対象にされている政治家が好きなわけでもないが、それでも絶望的にセンスが無いなと思ってしまう。

 今まで、それは日本特有の問題だと思っていた。つまり、日本においては諷刺画の歴史が浅く文化的な蓄積が無いためだとか、そもそも日本人に諷刺的ユーモアのセンスが欠けているためだ、というようにそれらしい理屈を付けて納得したつもりになっていた*1

フランスの諷刺画もダサかった

 それが間違いだということが分かったのは、伊丹市立美術館で開催された「カリカチュールがやってきた! 19世紀最高峰の諷刺雑誌」という展覧会に行ったからだ。

artmuseum-itami.jp

 詳細は上記リンクをご覧頂きたいが、要するに、当時も今も最も文化的に洗練された先進国であるフランスで生み出された、全ての近代的諷刺表現の偉大な起源であり、歴史的価値をも持つ古典、それがカリカチュールなのだ。きっと素晴らしい芸術に違いない!と期待して足を運んだ。

 全ての展示物を見た上での感想を申し上げると、はっきり言ってめちゃくちゃダサくて落胆させられた。面白くもないし格好良くもない。だいたい表現のパターンは決まっていて、実在の政治家がひどく肥満気味の醜悪な姿で描かれていて、高確率で浣腸器を手に持たされている。王族の顔はどれもこれも判で押したように洋梨の形で描かれる。悪徳政治家が百鬼夜行のように行進していて、その影は悪魔だったりする。とにかくワンパターンで俗っぽい。政治的表現は伝わりやすさが重視されるためか、絵にやたら長大なキャプションが付いていたり、絵の中に直接文字で説明が書き込まれていたりして、無粋さに拍車をかけている。

 私がカリカチュールに感じたダサさ、俗っぽさ、つまらなさというのは、日本の新聞やネットに氾濫する政治諷刺画に感じるそれと全くの同型だった。よって日本の政治諷刺画だけが突出してダサいわけではないということになる。もちろん、当時のカリカチュールは現代日本とは違って文字通り命懸けで表現されたものだし、現代の諷刺画が200年前から進歩してないのはそれはそれで問題なので、両者を全くの等価に扱うのは適切ではないだろう。とはいえ、政治諷刺画が古今東西や主義主張を問わず、大なり小なりダサいものだとは言える。

 では、それは何故か。理由は大きく三つあると思う。

 一つ目は、同時代の実在の人物を醜悪に描くということが持つ生々しさ、胸糞の悪さである。たとえそこに描かれている人物が客観的に見てどれだけ極悪非道な人間だったとしても、人を貶める絵というのはあまり気持ちの良いものではない。また、必然的に絵面も醜悪なものになってしまう。

 二つ目は、描く者の主張を述べずに一方的に石を投げることもできてしまうこと。例えば、Aという主義に対して反発して反・Aという主張をする場合を考えてみよう。もしこれを言論によって行う場合には、反・Aというのはどういうことなのか、Bなのか、それともCという立場なのか、兎にも角にも反・Aという主張をする側もただ単にAに反対するだけでなく、自分の立場を明かした上で論理的整合性のある説得的な議論を展開することが求められる。そうでなければただの誹謗中傷だ。その営みの中で批判や検証に耐えうる新しい思想が生まれ、歴史に残っていったりするわけである。ところが、反・Aという主張を諷刺画によって行う場合、もっと安易な方法を取れる。それは、Aを主張する政治家、またはAを擬人化したキャラクターを登場させ、ひたすら醜悪に描くことである。この方法はどんな主義主張・人物に対してもマウントを取れるのである意味無敵だが、それではAに対して論駁したことにはならないし、卑怯で非生産的だと私は思う。

 三つ目は、政治的効果を優先させるあまり芸術的価値が犠牲になりがちであること。諷刺画が政治的目的を達成するためには多くの人に伝わらなければ意味がないため、どんなに馬鹿な人にも分かるようにする必要がある。分かりやすさを取った結果として、過剰なまでに説明を書き加えたりして面白味や美しさを損なってしまう。また、政治諷刺画は基本的に同じ時代・国の人々に向けた表現であるが故に、描かれた時代や地域の文脈に強く制約されてしまい、普遍的価値が認められづらいという側面もあるだろう。

批判する側・される側

 インターネットが発達した現代において、私達は批判する側・される側のどちらにも立ち得る。ここで気を付けなければならないのは、批判する側がされる側よりも偉いとつい錯覚しがちになることである。実際はその逆で、何か具体的に行動したり成果物を出して有名になることよりもそれを批判することの方が数百倍簡単である。このことはその批判がどれほど正しいものであったとしても変わらない。どんな人も物も完璧ではなく、欠点を探せばいくらでも見つけることができるからだ。誤解の無いように言っておくと、「批判は良くない」とか「批判するなら批判対象と同じかそれ以上のことをやってみせろ(所謂ほならね理論)」とは全く思っていない。正当な批判はどんどんやるべきだ。ただ、批判されるほうが批判するよりも遥かに難しいという非対称性を指摘しているだけである。具体的に言えば、政治家をやる方がその諷刺画を描くよりも難しい。そして、諷刺画を描く方が、私がこの記事で展開したように諷刺画を批判するよりも難しい。もっと言えば、この記事を書くほうがこの記事を批判するよりも難しい。そういう階層構造になっていて、「より元ネタに近い方が偉い」というのが私の思想である。どれほど優れたMADもMAD素材を超えることがないのと同じように。

*1:よく考えればそんなわけはないということは明らかだが。