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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。文春オンラインなどに執筆しているライターです。令和は純愛の時代である。

障害者と左派加速主義者が出会うべき理由

 本稿は、私がある哲学者に宛てたメールを和訳・要約・加筆修正したものである。

 "The accelerationist left"(左派加速主義者)には、テクノロジーが持つ力を高く評価する楽観的な側面と、「なればこそ、それがより良い作用をもたらすようにコントロールしつつ使わねばならない」という慎重な側面があるように思う。

 今回のメールは前者の側面に比重を置いた内容である。しかし、その後私の中で「NIPT(新型出生前診断)の急速かつ無秩序な広がりによる『命の選別』」への懸念が高まってきた(下記ツイート参照)。従って、今は後者の側面についても、この時よりも真剣に考えるようになったことを予め付記しておく。

メール

(前略)

 あなた方(左派加速主義者)と私たち障害者(および障害学、障害者運動)は一刻も早く邂逅せねばならない。その確信に駆り立てられて筆を執りました。私がそのように思うのは「互いが互いを必要としている」と考えるからです。

 障害者運動や障害学など、私たち障害者に関する議論の歴史は長いです。それらは個別具体的な問題の改善を求める上では、一定の力を発揮します。

 しかし私たち障害者は、統一的で大きな社会像を示すことは、あまりできていません。それが障害者にまつわる運動や学問分野の最大の弱点だと思います。そのため必然的に、各論でしか戦えない状況です。

 数年前に19人もの障害者が殺害される事件が日本で起こった時、その問題点が露呈しました。犯人が公然と優生思想を社会に発し続けたのに対し、私も含めた障害者の側からはあまり効果的な反駁ができていないように思います。例えば、ヒューマニズムによって健常者の感情に訴えようとするアプローチなどは決して成功しているとは言い難い状況です。現にウェブ空間には、この事件で殺害された19人の障害者よりも犯人の思想の方に共感するコメントが氾濫しています。

 共感に訴える言葉だけでは説得できない人々に対しては、よりロジックに寄ったアプローチも必要になってくると思います。そのためには、障害者の存在を肯定し得るような統一的で大きな世界観、及びそれを記述するための体系的な社会理論を構築する事は、避けて通れません。

 では現状、私たち障害者が社会の全体像を殆ど提示できていないのは何故なのでしょうか。それには主に3つの理由があると思います。

  第一に、障害者の立場からすれば、新自由主義はもちろんのこと、資本主義を肯定することは難しい。多くの障害者にとって、そのような社会像を支持することは自己否定とほぼ同義だからです。稼得能力を軸にした世界観を用いながら全ての障害者の存在を積極的に擁護するのは至難の業でしょう。少なくとも私は日本の学術界で「新自由主義障害学者」と名乗る人を見たことがありません。

  しかし、共産主義や社会主義を明確に標榜している障害学者も、これまた殆ど居ません(内心は分かりませんが)。そのような思想を公にすることによって強い警戒心を惹起し、下手をすれば障害に関する個別の論点についてすら誰も取り合ってくれなくなる事を危惧しているのだと思います。また「旧態依然とした左翼内のヘゲモニー争いや教条主義に巻き込まれたくない」「もっと地に足がついた議論がしたい」という思いも少なからずあるでしょう。 これらが第二の理由です。

 第三の理由は、私たち障害者と日本の伝統的な左翼(つまりあなた方の言葉で表現すれば「素朴政治」を実践する人々)との間で、テクノロジーに対する態度があまりにも異なっていることです。彼らは往々にして科学技術に敵意を抱き、昭和や江戸時代などの過去の社会を理想化して語ります。しかし電動車椅子やインターネットに全面的に依存して生きている私としては、彼らの懐古主義にはとても同意できません。

 これらの理由から、障害学者や障害者運動家には、俯瞰的な社会システムについて話すことをなるべく避け、障害者を取り巻く個々の身近な問題に焦点を合わせる傾向があります。それは決して悪いことではないと思います。しかし全体的・体系的な背骨(/政治・経済体制についての青写真)の欠如は依然として問題です。

 あなた方の素晴らしいところは、資本主義の否定とテクノロジーの否定を決して混同しない点です。テクノロジーが持つ力と可能性をフェアに評価しつつ、それを非搾取的な形で運用することを目指しておられる。それは私たち障害者にとって非常に親和的で受け容れやすい考え方です。

 同時に、逆(左派加速主義者の側)から見ても、障害学の研究の蓄積を参照することにより非常に有意義な知見を得られると思います。 障害者運動や障害学は、あなた方に実践のフィールドと具体化の端緒を提供することができるからです。

 左派加速主義への主な批判は概ね以下のようなものだと理解しています。つまり 「抽象的だ」「具体的にどうやって実現するのか分からない」「誰がその運動の責任を負うのか?」「アイデアは良いけど、道筋が欠けている」etc...

 私たち障害者はこれらの課題に対し、あなた方と協力して取り組むことができる可能性があります。

 まず第一に、私たち障害者は常に新技術を切実に必要としています。ですから今現在も実際に、障害者は様々なテクノロジーの実験台のような役割を果たしています。ここでは、その実験の動機が資本主義的かどうかや倫理的にどうであるかは関係ありません。重要なのは「テクノロジーを人間に対して用いる」という事柄についての具体的な事例が現に膨大に蓄積され続けている、ということです。搾取的・非搾取的な試みのどちらからも多くを学ぶことができます。人間とテクノロジーとの相関関係についての広範な知見は、左派加速主義に具体性をもたらすでしょう。

 また、私たち障害者は左派加速主義者と「素朴政治」とを取り持つこともできます。何故なら、障害者のうち一定の割合は概ね(近代以降の)どの時代においても常に運動にコミットしているからです。その理由は主に2つあります。

 まずそもそも私たち障害者には、絶えず運動していなければ文字通り「生きられない」という事情があります。これはアクチュアルな問題です。 抽象的な意味ではなく、誰かが運動を保ち続けていなければ、おそらく私たちは本当に殺されるか消されてしまうでしょう。

 2つ目の理由は、私を含めた障害者のうちの相当数は、健常者を前提に設計された労働市場から半ば排除されている(参入できない)が故に、結果的に労働時間の制約から比較的自由だということです。従って、健常者よりも社会運動に多くの時間を割くことができるの(もちろん同時に「割かざるを得ない」という事情もあるのは前述の通り)です。

 もっとも私自身は、大学で障害学を専攻した訳でも、障害者運動に深くコミットしている訳でもありません。確かに私は重複障害者ですし、障害学や障害者運動には多少馴染みがあり、どちらの世界にも友人がいますが、当然ながら障害者の代表でも何でもありません。また、障害学にせよ加速主義にせよ、日本には私などよりはるかに優れた論者が沢山おられます。

 しかしその両者の間の交流は、私の知る範囲ではまだ殆どありません。私としては、まずは障害を持つ日本の方々に左派加速主義を広く知ってもらえたら良いなと思っています。そういう形であれば、微力ながら私にも何かできるのではないか、と考えております。

 もしよろしければ今後、左派加速主義者の皆様におかれましても、障害者や障害者運動、障害学などに興味をお持ちいただき、そうしたコミュニティとの交流や意見交換の機会を持っていただければ、これに勝る喜びはございません。

(以下略)

留意事項

 私は「障害者が自らの論理的存立基盤を強化する上で有益な内容を含んでいる」という点において左派加速主義に注目している。しかし、これは何か全人格を没入して熱烈に信奉するとか布教するとかいう類のものではない。そもそも「主義」という言葉で表されているものの、まだ到底そう表現できるほどには具体化も発展も組織化もされていないし、むしろ空想に近いとさえ言えるかもしれない。つまり良くも悪くも、既存のイデオロギーと並置できる段階には全く至ってないアイデアなのだ。裏返せば自由に思考する余地が残されているということでもあり、そこに大きな魅力を感じているという人も多いだろう。

 もっとも、もし将来的に左派加速主義が急激に影響力を増すようなことがあれば、その時は私も改めて向き合い方を再考せねばならないが、少なくとも今はそのように認識している。

 なお、相手方に迷惑を及ぼしかねないため、反応などについて詳述する事は差し控える。

 私はメールを送って本当に良かったと思っている、とだけ記しておく。