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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

障害者として生きる上での日本社会の良さ=人口の多さ

 重度障害者である私が日本社会でそこそこ自由気儘に楽しく生きてこれたのは、単に物質的豊かさや福祉制度だけのおかげではない。社会の中に、ロールモデルとなるような傑出した障害者の先達や同輩が複数人存在し、更に、居場所となる種々様々なコミュニティや、私にもできるような非常にニッチな仕事、等々があったからだ*1。これらのうち、どれ一つ欠けても今の私はない。つまりマイノリティとして、社会の多様性・寛容さからくるメリットを余すところなく享受してきたことになる。

 さて、ここからが大事な点なのだが、こうした社会の多様性を確保するために最も重要な要素は何だろうか?

 それは人口だと思う。世界がもし100人の村だったら、私は今頃この世にいないだろう。

 人口の母数がたくさんいれば、そのうち一定の割合は(障害者なども含め、何らかの意味での)マイノリティなわけだから、必然的にマイノリティも相当な人数になる。そうすると「いろんな人がいるのが当然だし、それで良いのだ」「多少、変な奴や気に食わない奴がいても、まあいいか」という社会的合意ができやすく、生き方の自由度や幅が増してくることになる。人口はダイバーシティの源泉なのだ。ことマイノリティにとっては、属する国・社会の人口の多寡は死活問題であり、人口が多い社会ほどサバイブしやすいのではないだろうか。マイノリティ(少数派)としてグループを形成し権利や制度を求めて運動を行うのにしても、ある程度の頭数は必要不可欠だからである。仮に障害者の割合を一定とするならば、母数となる人口が多いほうが障害者の人数も多くなるのは言うまでもないだろう。

 それに、どんなに福祉制度が充実していても、そこにうまく嵌らない人、制度の狭間に落ちてしまうデコボコした人は必ずいる。私もそうだし、誰しもそういう側面を持っているとも言えよう。欲望やニーズや生き方は十人十色であり、その中には他者や社会に理解されづらい特殊なものや、既存の枠からはみ出てしまうものも当然ある。また、全てを解決する制度などというものは存在しない。

 にも関わらず、社会は容赦なく迫ってくる。なまじ優れた福祉国家であればあるほど(福祉制度が充実していればいるほど)「そこにも適合できない」人間への風当たりはかえって強くなるのではないか。「こんなに恵まれた環境を与えているのに、どうして満足に生きられないのか?」という圧がかかってくるということだ。

 従って、どうしても各人が工夫してサバイブしていかざるを得ない部分が出てくる。そんな時にこそ、社会が適度にカオスで、逃げ道や紛れ込める隠れ家が十分に存在することが必要になってくる。つまり制度ではカバーできない領域で人を救うのが多様性の効能であり、それが無いと我々は窒息してしまう。

 しかし、そういうアジールや退避所の役割を果たす寛容なコミュニティというものは、意図して計画的に作り出せる類のものではない。様々な人や条件や出会いの奇跡的な巡り合わせによって、極めて低い確率で局所的かつ短期的に成立する偶然の産物だ。だがそうした、ごく稀に生じる泡沫のような事象の蓄積こそが、社会を育て、前進させてきたのだと思う。

 それを少しでも多く起こそうと思えば、賽が振られる回数を増やすしかない。賽を振るのは人間の存在と交わりであることを考えれば、そこに人口の多さが寄与すると考えるのはおかしなことではないだろう。

 もちろん、日本にも障害者が抱える困難・直面する課題は山ほどあり決してパラダイスなどではない。互いに要求や協力を行いながら少しずつ改善を繰り返していくという営みに終わりはない。また、日本よりも障害者福祉制度やバリアフリーが充実した国や経済的に豊かな国は多くある。彼らには我々が見習うべき優れた部分が沢山あるし、私も羨ましいと思う事はよくある。

 それでも私は「人口の多さ」という点において、この日本をとても気に入っている。世界でも多い部類である1億2600万人が住む社会に生まれたことは、重度障害者として(あるいはマイノリティとして)生きていく上では本当に幸運だった。

 もし私が1993年に再度全く同じ障害、全く同じ体で生まれ変わると仮定しよう。その際に国だけを選べるとしたら、日本は私の中で確実に三本指に入る。その程度には、この時代の日本社会を気に入っているのだ。ちなみに、日本のアニメは好きだがそれは考慮に入れてない。文化の良し悪しは主観的なものだからだ。他の国に生まれたとしても、そこにもまた別の素晴らしい文化があって、それを大好きになったかもしれない。だが、人口が多い国に生まれたことだけは、障害者として生きる上で間違いなく僥倖だったという確信がある*2

 この直感にきちんとした裏付けを与えるには、英米や北欧、そして発展途上国に至るまで、世界各国の障害者が置かれている状況についてより良く知る必要がある。また、日本社会に愛着があるからこそ、それを一度外から見てみることによって日本の障害者問題をより深く理解してみたい、とも思う。そういった理由で、私はいずれ障害学研究の世界的中心とされるリーズ大学(英国)の院に進学したいと考えている。障害学というのは非常に広範で自由な分野だ。私はその中でも「国際比較」「人口」という切り口に可能性を感じており、研究の軸にしていきたい。

*1:そして勿論、こうした要素に導いてくれた様々な人々との幸運な出会いもある

*2:もちろん、GDPや障害者福祉制度も人口と同じくらい重要である。日本はこの3要素のバランスが良い気がするので総合的に見ればトップ3に入る、ということだ。また、あくまで「この時代の」日本だというのが重要である。もしこれが1970年代に生まれるならば、日本が私の中でトップ3に入ってくることは絶対に無い。素直に北欧か米国にする。