ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。

障害者から見た「感動ポルノ」について

 本稿では、障害者を「感動ポルノ」として消費することへの批判、及びそれに対する反論について検討したい。

「感動ポルノ」とは何か

 まずはじめに、「感動ポルノ」とは何だろうか。現在ではその定義も拡散しているが、本稿ではこの言葉が人口に膾炙するきっかけとなった下記のスピーチに準拠したい。

www.ted.com

 ステラ・ヤング氏は感動ポルノを「障害者をモノ扱いし、健常者が感動したりやる気を起こしたりするために利用すること」と定義する。そして「障害者が特別視されるのではなく真の成果で評価される世界」を望む。

 私の見解

 結論から先に言うと、このスピーチに対する私の意見は「基本的に賛同できないが、一部もっともな部分もある」というものである。その理由を下記に列挙したい。

 第一に、他者が自分をどのように消費するかは他者の問題であって、自分ではコントロールできないし、すべきでもないし、する必要も無いからだ。それは健常者であっても障害者であっても同じである。自分の思っているセルフイメージの通りに他者が自分を認識してくれるなどということはまずありえない。多かれ少なかれ、他者というのは自分が思ってもいないような文脈・物語を勝手に読み取り、それに基づいた独善的な解釈・評価を下してくるものだ。もちろん私も他者に対して同じことをしているのだろうし、そういうことが起こるのは互いに違う人間なのだから当たり前だ。実際、私もよく何もしてないのに街で見知らぬ人から「偉いなあ」「頑張ってるね」「感動した」などと言われることがあるが、そう思うのはその人達の勝手なので別に腹は立たない。理由がなんであれその人達の中にプラスの感情が生まれたなら良かったねと思うし、私の方は他人がどう思おうが関係なく好きなようにやっていくだけである。

 ただし一つ付け加えておくと、上記スピーチに出てきた高校生のように、「いついかなる場面でもその人を『感動の対象としての障害者』として『しか』見ない」という態度は確かに問題である。例えば障害者である私のこのブログには障害関連以外の記事も載せているが、そこで脈絡なく障害についてコメントされたら流石に面食らう。また、同じ障害についての記事でも、自分の体験を語っているものと抽象的な概念について考察しているものがあり、後者の記事に「感動して泣きました」などとコメントされたら的外れだとは感じるだろう。ただそれは、「相手が今どういう立場で何についてどのような話をしているのかをきちんと判断しましょう」、言い換えればTPOを弁えようというだけの話であって、障害者を見て感動してはいけないということでは全くない。これについては以下のスピーチが大変参考になる。

www.ted.com

 

 第二に、彼女の言うように障害者を特別視せず「真の成果」なるもので評価される世界になれば、かえって障害者の努力が過小評価されてしまうからである。彼女が「真の成果」をどのように定義しているのかは分からないが、普通に考えれば健常者と同じ物差しということだろう。つまり仕事の実績とか学歴などである。そのような尺度で健常者と競争できるのは彼女のようなごく少数のエリートであって、大多数の障害者には不利である。気になった人は障害者の大学進学率や一般就労率を調べてみて欲しい。というよりむしろ、そういった社会的な不利さを抱えている集団だからこそ「障害者」とカテゴライズされているわけで、全く社会的に不利に働かない形質ならわざわざ「障害」とは呼ばれないのだから、当然と言えば当然である*1。今まで立つことができなかった脳性麻痺者が数秒間だけつかまり立ちができるようになったとか、今まで一言も発したことがなかった知的障害者が初めて単語を発したとかいうのは、社会的に見れば「真の成果」ではないのかもしれないが、ノーベル賞を取るのと同じくらいすごいことだし、感動や賞賛の対象になってしかるべき達成だと思う。殆どの障害者が多かれ少なかれそういう達成の積み重ねの上に自分なりの生活を築いていることを思えば、彼女が批判する「障害を持って生活するだけで立派だ」という考え方も決して間違いとは言い切れない。

 彼女は15歳の時に何の功績も無いのに表彰されそうになって面食らったと語っているが、私にも似たような経験がある。高校卒業間際に、学年で一番優れた生徒として全校集会で表彰されることになったのである。確かに私は学業成績は良い方だったし、作文や数学コンクールなどで賞を取ったこともあった。だが学年には東大に合格していた者、部活動で全国レベルの活躍をした者、生徒会長を務めた者など、他にも優れた人間はたくさんいたし、その人達の方が表彰されるに相応しいという見方も当然ありうる。その中で私が選ばれたのは、やはり障害者であることが大きかっただろう。それを理解してなお、私は表彰されることに対して何の恥じらいも感じなかった。何故なら、障害が原因で多くの余分な苦労を強いられてきたし、そのハンデを克服するために目に見えないところで人の何倍も努力してきたという自負があったからである。例えば、私は上半身の麻痺のため書くのが遅い。そのため同じ試験時間内で終わらせようと思えば他の人より素早く問題を解けるよう努力するしかない。また、一人で排泄できるようになって高校に進学するために、幾度となくうんこを漏らして泣きながらも血の滲むような努力をしてきたこと。それら諸々について他の人は知らないだろうが、間違いなく私が成し遂げてきたことであり、表彰されるに値することだと胸を張って言える。だから私を選んでくれた人には何の屈託もなく素直にありがとうと言いたい。

 第三に、感動ポルノは福祉予算や募金を獲得する必要性から生まれた側面を否定できないからである。世の中には困っているマイノリティが障害者以外にもたくさんいる。また海外には貧困や環境問題が蔓延している。それら全ての社会問題に無条件で十分なお金が行き渡り、全ての人の権利が十分に保障されれば何も言うことは無いが、現実には不可能である。予算には制約があるし、人々も無限に募金するわけではないからだ。そうなると、必然的に人々のお金や関心というリソースを他のマイノリティや社会問題と奪い合うことになる。その中で、より単純で訴求力の高い、感動的な物語を提示できれば有利になる。結果的に障害者に対していびつなイメージが形成されてしまったとしても、それは必要悪だと思う。もちろんそんなものを差し出さなくても対等になれる世界が理想だが、その時には障害者という言葉も無くなっているだろう。

二項対立を越えて

 障害者としてではなく普通の対等な人間として扱ってくれと主張する障害者には数多く会ってきた。それ自体はもっともな主張なのだが、だいたいそういう障害者に限って障害を持っていること以外に何ら特長もアイデンティティも無かったりする。それもそのはずで、仮に障害者であること以外に何か取り柄があれば、殆どの人は普通の対等な人間として接するからだ。そうなっていないのはその障害者が障害以外に何ら特筆すべきものを持っていないからに過ぎない。別にそれが悪いことだとは全く思わないが、どうしても嫌だというのであれば健常者の何倍も努力して他人に誇れるものを見つけるしかない。

 私はといえば、第一印象で「障害者だ」と思われることについて何の拒否感も無い。私の最も目に付く特徴であるし、障害者であることは私のアイデンティティの大事な一部だからだ。と同時に、それだけで終わるつもりも毛頭ない。障害者であること以外にも様々な面を見せられるような、引き出しの多い人間でありたいと思っている。

 また、普通の対等な人間として健常者と同じ基準で評価して欲しいなどとも全く思わない。その厳しさをよく知っているし、障害者だけが健常者の何倍もの努力を要求されるのはフェアではないと考えるからだ。だから障害によって履かせてもらえる下駄は全部履くし、同情を買って得をするなら迷わず買うし、もらえるお金は全部もらうし、障害者枠があれば必ず使う。それらは正当な権利であり、利用できるものは利用する、そのことにいささかの躊躇も無い。と同時に、それだけに甘んじるつもりも毛頭ない。出来得る限りの努力は常にしていく。それは健常者と競うためではない。私が私らしくあるためだ。

雑なまとめ(率直な感情)

感動ポルノがどうとか健常者障害者がどうとかごちゃごちゃうるせーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!俺の人生でお前らを全員感動させるからよく見ておけ!!www!!!wwww!!w!!wwww!!

*1:彼女も「障害の社会モデル」に言及しているように、眼鏡をかけているだけの人が「障害者」と見做されないことを考えてもらえれば分かりやすい。