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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

障害者と報道機関を巡る問題

【趣旨】

 障害者に関する報道を実りあるものにしていくために、障害当事者とマスメディアとの間にどのような課題があるか考察する。

【目下の課題】

①報道が一過性である(障害者問題に限った話ではないが)

 少しでも初報から日にちが開くと、もはや重要な続報があっても伝えない傾向がある。報道が点に終止し、線にならない。
 そのため、諸事象に通底する問題の枠組みがあっても見落としてしまっている。
 結果的に、社会として本質を議論したり知見を共有したりする機会も無いまま瞬く間に忘れ去られる。
 そして毎年の節目(起きてちょうど〜年といった日)の時だけ思い出したように定型句を並べる。
 こうしたアリバイ作りのための文章の意味など真面目に考えても仕方ないことは承知している。しかし中にはどうしても許せない言葉遣いもある。
 例えば「記憶の風化が深刻だ」というフレーズ。天に唾するとはこのことだ。本気でそう思うなら、まず報道機関自身が当事者や社会問題と継続的で責任ある関わり方をしてみてはどうか。心配せずとも、私達障害者や私達を取り巻く諸課題は、ずっとここに存在し続けている。別に逃げやしない。逃げられもしない。逃げられるのは記者だけだ。
 会社のリソースで追える案件の数が有限なのは理解する。扱う案件のスクラップ&ビルドも必要だろう。しかしそうであれば尚更、1つの案件に区切りを付ける時のクロージングはきちんと誠実にやるべきだ。つまり取材対象者や社会に対して「我々としては本件からコレコレの暫定的な認識(示唆/次なる問い/事実/見解etc...)を得た。」と示す。これは最低限のけじめだ。それがあるのと無いのとでは雲泥の差があると思う。
 報道機関はこの段階までやって初めて「読者が各々何らかの『教訓』を引き出せる環境を作り出す」という責任を果たしたと言える。
 つまみ食いしてすぐ飽きて、継続取材と総括のどちらもせずに漫然と放置していては、人々は報道から何の知見も得られない。
 だから社会はまた同じような失敗を繰り返す。
 すると新聞は「教訓どこへ」などと見出しを付けるのだ。その言葉、そっくりそのまま返したい。

②"障害担当"の記者が異動でコロコロ変わる

 これは①で示した報道内容の粗雑さの遠因でもある。
 ここではそれに加えて、障害当事者の尊厳の蹂躙にも繋がっている点を指摘したい。
 "障害担当"が変わる度に、当事者が記者と築いてきた関係性も、過去に説明した内容も、障害学や障害者問題の基礎知識も、何ら引き継がれず全部リセットされる。その徒労感と絶望感は筆舌に尽くし難い。
 だからと言って(後述する例外を除き)前任記者に連絡しても、既に人が変わったように冷淡になっており話は聞いてもらえない。「"障害担当"から離れまして〜」と、もう無関係である旨を婉曲的に述べる。
 私は障害当事者、とりわけ「思いを世に訴えたい」と考えている人に、以下のことを強く忠告したい。現状で大半を占めるこうした一過性の"障害担当"記者に、苦しみながら胸の内を絞り出したとしても、彼らがあなたの労力や思いの大きさに見合う結果で報いるなどと、ゆめゆめ期待するなかれ。そんなことは夢物語だ。そうした甘い幻想は捨て去るか、さもなくば彼らと初めから関らないのが賢明だ。
 あなたの思い、傷、苦しみ、主張がどれほど真剣で切実なものであろうとも、それは彼らには伝わらない。彼らは本当の意味であなたの話を聴いてはいないからである。ただ言葉の表面から飯の種に加工しやすい材料を拾う作業をこなしているだけだ。そんなことを手伝うために、あなたが自問自答したり古傷を掘り返したりして自らの心に負担を掛ける必要は無い。
 彼らはいずれ挨拶も引継ぎもせず異動するだろう。そしてあなたやあなたにとっての一大事も、気にするどころか多分覚えてさえいない。
 だがごく稀に、担当が何になろうとも一貫してライフワークのように障害者問題に関わって下さる記者がいる。まともな実のある継続的な障害者報道の多くは、こういった奇特な熱意を持つ記者の手弁当の労力によって支えられている。記事の署名を注意深く見ていくとそれがお分かり頂けるだろう。
 裏返せば、記者個々人にせよ部門単位にせよ、当事者や問題との継続的かつ責任ある関わりを続けていくシステムが障害分野には欠落している。
 これが政治や経済等の花形部門になると、そういった陥穽を回避する仕組みが多少はあるだろう。少なくともここまでの機能不全や舐めた扱いは無いのではないか。だが本来はマイノリティや福祉といったセンシティブな領域でこそ、継続性や信頼関係が最も重要な筈だ。
 私は好き好んでこんな陰険なことを言っているのではない。取材という営みは本来、した側もされた側も力付けるような素晴らしいものだ。充実した取材の後は特にそれを強く感じられる。しかし残念なことに現状は、取材が障害者をエンパワメントするどころか、むしろ諦めを刻印しスポイルする作用の方が強いのではないか。少なくとも私は多くの記者と関わる中で度々そういう失望を味わった。
 だから記者から取材を申し込まれてもあまり舞い上がらないほうが良い。もし取材を受けるというのなら、そう決めた瞬間から、可能な限り記者の情報を集め、感覚を研ぎ澄まし、信頼できる人間かどうかを見極めることに集中してほしい。それが結果的に良い関係を築くことにも役立つだろう。

③障害者問題を扱う記者の側に障害当事者が少ない

 これは大変重要なポイントである。なぜなら①や②の問題を改善する一番の近道は当事者が記者になることだからだ。
 かくいう私も記者になりたかった時期がある。書く内容に鑑みてライターよりも新聞記者の方が向いているように思えたからだ。実際、障害者採用をしている新聞社もある。ならばそれに応募し社内から変えていけば良いではないか、と感じる読者も多いだろう。だが現実はそう簡単には行かない。転勤の存在は健常者よりも障害者にとって不利だし、私の障害の態様に鑑みれば尚更厳しい。また役所時代の経験から想像するに、記者ではなく総務系の仕事に回される可能性も相当高い。これらの考えを抱く理由は過去の記事を参考にして頂きたいが、困難は挙げればキリがない。
 ただそれでもある時までは淡い憧れも抱いており、新聞社のPodcastを好んで聴いていた。だが皮肉にも、記者を諦める決定打になったのは東京新聞の以下のPodcastだった。

新聞記者ラジオ(東京新聞有志) - 東京新聞そもそも 記者に必須なものって? 新聞社の内情も少しお話しします

 ここでは人事部の採用担当者が「新聞記者になるのに最も絶対に必要な条件は運転免許である」と断言している。いきなり取材に行ってこいという場面が往々にあるとのことで、咄嗟の車の運転がすぐできなければ話にならないようだ。おそらく彼らとしては「ほぼ誰にでもできること」の代表格として免許の話をしたと思う。拍子抜けするようなネタで場を和ませると同時に、学生が記者を志望するハードルを下げ、気を楽にしてもらう狙いがあったのだろう。

 しかし私にとって車の運転は簡単どころか不可能な行為だ。私の障害の重さを考えると、どれだけ車を特注しても補助具を付けても、運転も免許の取得も難しい。加えて奇跡的に免許が取れたとしても、文脈から察するに、特別使用のマイカーではない普通の車でも迅速に運転し現場に急行できなくてはならないようだ。それは到底無理である。

 だから私は急に弾かれたように感じた。ここで弾かれる人は他にも結構おられるだろう。だが音声を聴いて頂ければ分かる通り、免許の話には他の3人の若手記者も異口同音に共感し全く悪気なく楽しく盛り上がっている。その時心底痛感した。弾いた側は弾いた事にすら気付かないのだな、と。これが構造というものか、と。彼らに己の持つ権力や強者としての側面への自覚が無い以上、たとえ「障害者が新聞社に入り記者として活躍するまでにどんな高い壁があるか」を説明しても分かってもらえまい。外から負け惜しみを言うしかない悔しさも。そう思った瞬間、記者職に抱いていた魅力や憧れがスッと消えてしまった。

 先日、New York Timesの障害当事者の記者が書いた素晴らしい記事を沢山読んだ。悔しさも募ると同時にその意義の大きさも再確認した。それを端的に表しているのが当該記者が自らの仕事について説明している下記の記事だ。

www.nytimes.com

A crucial part of reporting on disabilities in a nonproblematic way is picking stories that are actually newsworthy, not stories that turn people with disabilities into spectacles for nondisabled audiences. When considering a story idea, I ask myself: Why is this newsworthy? What are disabled people saying about this? Am I framing this story in a nuanced way that looks at the broader context?

 

I sometimes get asked, “What’s the best way to interview someone with a disability?” I don’t approach a person with a disability any differently than I approach a nondisabled person. The only thing that might change is my communication style, depending on what disability my source has. For example, I make sure a source with an intellectual or developmental disability is aware of what that person is consenting to with an interview, and I ensure that my questions are easy to understand. If I’m interviewing a source who is not able to speak, I’ll email my questions as opposed to conducting the interview in person or over the phone.

 ここで彼女は障害にまつわる報道に携わる上で重要な点を2つ挙げている。1つは、障害者を健常者のためのスペクタクルに変える物語ではなく、実際に報道価値のある話を選ぶこと。もう1つは、取材対象の障害の内容によってコミュニケーション手段を細やかに使い分けることだ。

 もし仮に記事の内容のみに注目するならば、それを書いた記者の障害の有無は読者にとって重要ではないかもしれない。ただ上記のことに彼女と同じくらい細心の注意を払って記事を書ける健常者はほぼほぼ居ないと思う。そんな人を探すよりは、障害当事者が記者になれる環境を整えていく方が一見遠回りに見えても遥かに現実的だろう。

【具体策】

 こうした現状に対し私ができることはごく僅かだが、できることは全力でやっていきたい。

 大目標は、継続して取材し続報をきちんと出すような報道を作ることだ。

 そうした仕組みは色々考えられる。障害当事者同士が協力して、続報に特化したメディアを作るのも良いだろう。あるいは問題意識を共有してくれる既存メディアがあれば、彼らが継続取材や続報を出す上での障壁を取り除くために、障害当事者が協力できる部分があるかもしれない。

 もちろんこうしたことは一朝一夕にはできないので、小さな2つのことから始めようと思う。
 1つ目は、私自身が文春オンラインに書いた記事のフォローアップをきちんとする事だ。Twitterやブログに書くのか、記事にぶら下げるオーサーズコメントのような形なのか、いずれにせよ、きちんと後日談を収集して続報を記していくことが大事だと思っている。
 2つ目は、障害者問題に熱意を持って取り組んでおられる記者の方々とお話をすること。お手紙を出して、意見交換して下さる方と問題意識を共有し、地道に協力体制を築いていきたい。その中で新しい具体策も見えてくるかもしれない。