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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

自己再定義と今後の抱負

 本記事は私事の断片的な列挙も多く、滑らかな文でないことをご容赦願いたい。

・感謝

 世界は無秩序で不条理だと思い知らされた旨を前記事で述べた。しかしそれを強く認識すればするほど、その中にあっても存在する「良さ」の稀少性を痛感し、逆説的だが世界への感謝の念もいや増す。なにせ極めて無力な私に対して28年も良くしてくれたのだ。ここでの世界というのは超越的な存在や概念では決してなく、個別具体的な物事に宿る「良さ」の総体だ。例えば、私の生存基盤を構成する豊かさや権利、その獲得に一生を捧げた先人達、ヘルパーさんや友達、些細なできごと、お気に入りのフィギュアやクリアファイル、思い出の場所、温かい人達との出会い、数え切れないほどの優しさ、心躍るアニメや美味しい食事の数々、その他あらゆる「良い」存在を指している。

 これまで私は世界に対し「また、奪うのか?」と問うことはあっても「また、くれるのか?」と問うことは無かった。当然の如く貪ってきた恩恵のありがたみに気付いたのはごく最近のことだ。

・人を喜ばせること

 この素朴な感謝の念が「(私にとっての)世界に報いたい」という気持ちに繋がるのは自然なことだろう。

 ところで私は元々は、純粋に人を喜ばせるのが好きな子供だった。ただ父親はそれを「己の劣等性からの逃避」と断じ「根本が誤った存在は何をしても害と迷惑しか生まない」と言い続けた。そこで育つうちに思いが変質してしまい、いつしかそうした言葉を反証するのが目的になっていた。
 だが今は反証など何の関心も無く、単に人を喜ばせたい気持ちがある。ドナーカードの同意欄に丸をしたのも、生きる上での負債感から逃れるためではなく只々人に何かをもたらしたいからだ。「シノ、私、何もあげられるもの無いから歌を歌うよ」という心境に近い。私には力もお金も無いが時間だけは大量にある。だからここ数ヶ月間ずっと、人に喜んでもらえる方策を考えていた。

 それにはまず自らが何者かを定義し、今までしてきたことは何なのかを考える必要があった。

・自らの当事者性の整理

 前記事で「当事者性こそが言葉に重みと責任を吹き込む」と述べた。では「当事者」とは誰か。
 私はこれまで自らを「障害当事者」と位置付け、障害者問題を幅広い人々に知ってもらうことを主目的に文を書いてきた。しかし当然ながら障害者は私だけではないし、そう呼ばれる集団内にも誰一人同じ人はいない。では何の大義があって、当事者間の個別性を捨象し、界隈を超えた一般に周知啓発などするのだろうか。
 第一に、私は障害という属性は着脱不可能なものであり、好むと好まざるとに関わらず片時も離れず死ぬまでかかずらっていかざるを得ないものだと捉えている。つまり常に「障害」という「事」に「当たり」続けることを要求される私は、やはり「障害当事者」だと思う。障害者問題について考えていない時であっても、決して障害から離れることはできない。この強制的なコミットこそ、私が障害を語る資格を持つと思う所以だ。
 第二に、「障害当事者」という集合名詞を使う理由は、そうした乱暴にも思える概念を用いてでも公共性を立ち上げる切迫した必要性があるから。つまり個人間の差異を超えて社会問題として扱わねば論じたり解決を探ったりできない領域の存在が「当事者」という集団を要請するのだ。
 以上のような訳で私は自分を障害当事者だと捉えており、今後もその立場から発信したいと考えている。

・身体障害者が文章を書く意義

①伊藤亜紗氏の論の紹介

 伊藤亜沙氏は著書『記憶する体』(春秋社)の中で、視覚障害者(中瀬さん)が小説の情景描写を読む時に抱く違和感に注目する。長くなるが引用したい。

「(前略)目の見えない人と見える人では経験のパターンが違っており、だからこそ、『自然だ』と感じる描写のパターンも違ってきます。そのギャップが『細かい』というような量的な多少として感じられたとしても、その背後にあるのは、経験の質的な差異です。
  実際、中瀬さんは、見える人が行う描写について『落ちている』と感じる情報もあると言います。中瀬さんの経験の記憶からすれば『あって当然』の情報が、書き込まれていないのです。
  中瀬さんは言います。『本の描写では、椅子が何脚で机が何脚で、ということは書いてあるんですが、材質や座り心地はあんまり書いていない。テーブルも、四角いか丸いかはあんまり書いてない。触覚とか匂いとか、そういうものは見える人の書く本からは落ちている気がします。』」*1
「このように読書は、ときとして、書き手と読み手のあいだの体の違いを、明瞭にあぶりだす機会になります。」
「 一方で読書は、書き手の体と読み手の体を、『混じり合わせる』場にもなります。自分と違う体について知る経験が読み手に蓄積された結果、その体が『インストール』されるようなことが起こるのです。」*2

 伊藤氏はこれを

「文章を書いた人の体と、それを読む人の体が大きく違う場合、それらが互いに軋みあったり、あるいは逆に混じり合ったりする」*3

と捉え、その意味を次のように表現する。

「異なる体の記憶が、別の、しかも条件の異なる体と出会う。この接触は、違和感を生み出すこともあれば、逆に体を変えるような学びの機会になることもあります。」*4

②社会も私も嵌った落とし穴 ーログを集める意義の過小評価ー

 いわゆる「障害者問題」というのは、既に社会の中に一定の位置付けと認識を得た課題と言える。だがそうした問題意識が明瞭な形を取る前の段階として、個々人の素朴な身体感覚や違和感などがまずあったはずだ。その種がポツポツと言語化され、持ち寄られ、蓄積され、共感され、淘汰・統合・洗練を経て、ようやく一つの社会課題としての共通認識が生まれる。しかしこの長いプロセスも出発点は一見些末な個々人の思いだ。それ抜きにいかなる問題把握も成し得ない。人はそのことを忘れがちなため、しばしばインペアメントかディスアビリティか、生物学モデルか社会モデルか、個人か運動体か、自己責任か社会問題か、等々の不毛な二元論に陥る。大事なことはその狭間にこそある筈だ。
 かく言う私も例外ではなく、既に議論の大枠が定まった狭義の障害者問題を扱うことだけが「障害者の立場から文章を書く」ことだと考えていた。いきおい、書けることを無意識のうちに狭く捉えてしまい、何も言えない、動かせない、変えられない、という無力感に苛まれていたのだった。しかし今や私は伊藤氏に大いに勇気づけられた。彼女の語る議論における書き手と読み手の立場を逆にすれば、私のような少数派の身体を持つ者が主観的な感覚をログとして書き残しておくこともまた、同様に意味を持つと考えられるからだ。だから私はなるべく多くの情報を、何であれ、微に入り細に入り書き残しておくつもりだし、願わくば他の人もそうしてくれたらと思う。一つ一つは無味乾燥な記録でも、拙い言葉でも、それを集めれば新鮮な景色や示唆が現れるかもしれないのだ。

③他者のために記録を残すことの大切さ ー時代・地域をも越えてー

 私が特に「文章を書いてよかったなあ」と思う時は2つある。

 一つは、今まで全く障害者と接点の無かった人が読んで感想を下さった時だ。

 もう一つが(これは滅多に無いのだが)、障害当事者から直接「あなたの文章を読んで励まされた」「絶望していたが、まだまだ道はあると思えた」といった感想を頂いた時だ。これ以上なくダイレクトに人の役に立ったことを実感できる。

 しかし記録の効用は、こうした形だけでなく、時代や地域をも超えて作用しうる点に最大の特徴がある。言わば日本という恵まれた国に生まれた障害者が、より困難な状況にある国・地域の障害者に対して果たすことができる責務でもあるのだ。問題提起や権利要求を行うというのは、言わば社会のバグを発見しパッチを当てるデバッグ作業である。それをきちんと書き残し後世のために保存しておくことは先進国の障害者の役目だ。数年後・数十年後に、途上国の障害者や健常者が私達と同様の課題に直面する可能性は十分ある。その時、私達の経験の記録が、彼らがよりスムーズかつ適切な形で社会課題を解く助けになればと願う。実際、日本で蓄積された知見は韓国や台湾の障害者運動の戦術に大いに活かされ続けているし、それは他国でも十分に期待できることだ。日本の障害者運動もまた、英・米・北欧から学んだ理論や概念を土台にしつつ、独自の発展を遂げてきたのだから。

・海外の障害者の今ある苦しみに何ができるのか

 将来にそうした希望を描くのは大変重要な一方で、今この瞬間にも戦地や貧困国で困難に直面している障害者が無数にいることも厳然たる事実だ。公正さ・秩序・人権といった基礎的な価値観が共有された社会状況は全く自明なものではない。不条理と混沌こそが日常であるような、異議申し立て一つ行うにも命を賭す覚悟が要るような、そうした場所はこの世にいくらでもある。より過酷な状況で同時代を生きる彼らの痛みを和らげる手立てはあるのだろうか。もし少しでも私が力になれることがあるならば、やらない理由は無いと考えている。

 ただ大言壮語しておいて恐縮だが、私にできる現実的な方法は未だ想像すらついていない。国をまたぐ支援団体間の調整なのか、そうした枠組みや意見交換の場を設けることなのか、あるいは直接的なピアカウンセリングなのか。これについてはあまり抱え込まずに色々な人から知恵を借りながら少しずつ形にしていきたい。もし何か良いアイデアがあれば是非ともご教授いただければ大変ありがたい。よろしくお願いいたします。

・原稿、日記、ツイッター

 私は原稿が無い時も、またブログやツイートさえ書けないと思う時でも、言葉や文章への執着から毎日膨大な文字数を書き殴っている。しかしそこで吐き出されるアウトプットを意識しない言葉は、3日もすれば腐って自分さえ読むに堪えないほど醜く感じ、たまらず全部消してしまう。この3ヶ月もそんな感じだった。だから〆切を設けない限り文章は永遠に完成しない。
 他方で仕事の原稿には紙幅や締切がある。なればこそ無限の相対化に陥らずに何事かを言い切れるし、文意が首尾一貫した四千字の固まりを恥じることなく書けるのだ。最近そのありがたみを痛感させられる。しかしこればかりは原稿依頼を頂かない限りどうにもならない。それは私がコントロールできる範囲の事柄ではないことは言わずもがなである。
 その意味では、日記は出力の形式として優れているように思う。1日にあったことをその日のうちに書く、というルールにより、その日の自分の解釈に基づく記述を固着させ、迷いを断ち切ることができる。思考の分節化の単位として優れており、これを発明した人は賢いと思う。これはおそらく私にとっては、1日1ツイートを徹底することに相当するのだと思う。

・小説

 日々時間に追われながら勤めを果たし暮らしている大多数の人々に「今ここ、この世界」についての特定の意見や単一の理想を説く。この行為には並々ならぬ制約と困難が伴うことは以前から繰り返し述べてきた。そもそも私の中でも今は世界や公正さを以前ほど信頼できずにいる。揺らぎの中でどうにかそれらを心に再構築すべくあがいているが、未だその途上にあり道のりは長い。だから人様に口を出すのは少し早い気もしている。

 言葉で世界に関わる上でもっとゼロサムやマイナスサムでない形態は無いものだろうか、と考えた背景には上記のような理由がある。
 そこで飛躍するようだが、私は小説に真剣に取り組みたいと思っている。今まで「自分には表現したい内面世界がないから無理」と棄却し続けてきたのが小説である。おそらく「小説を書こう」というのが先に来て目的化すると小説は書けない。私も長らくそうだった。
 だがいつのまにか原稿にもブログにもツイッターにも乗らないような身体感覚や雑多なアイデアがマグマのように溜まっていた。それに気づいた以上は表現せずにはいられない。
 ひきこもり生活で日々感じている、理非善悪とは無関係な喜びや苛立ちの奔流、肉体やヘルパーさんとの関係のままならなさ。
 シンギュラリティ後の世界の障害者問題とは何か。その途上に当たる時代の障害者はどうか。何に苛立ち、何を望み、どう主張し、いかに生きるのか。
 私が物語に惹かれたのは、自分も他者も責めなくて済むし、テーマや筋書きは求められても「正しさ」や主張は無くていいからだ。ただ、単に私の好きな設定やガジェットや人物や思想をごった煮にして垂れ流しても読めるものにはならない。自分で妄想するだけでも十分楽しいが、人に読まれることを想定して初めて出てくる張り合いというものもあり、それが生む充実感はやはり格別だ。

 実は小説で情景描写一つ自然にやるだけでも見かけほど簡単なことではない。これは文芸部における黒歴史から得た大きな教訓だ。だから自分の性分にも鑑み、きちっと時間をかけて体系的に学んでいきたい。従って今日明日のことにはならず、数ヶ月、数年単位のタイムスパンとなるだろう。

※他の重点目標

  • 歴史や戦争を身体障害者の視点から編むことは原理的に可能か?(※4月25日更新)
  • 障害学・障害者運動と左派加速主義者を繋ぐフォーラムの形成、及び両者への働きかけ
  • 1日1ツイート(なるべく)
  • ツイキャス・スペースの定例化
  • 外出機会が少ない分、居心地の良いVR空間の構築に力を入れる。
  • VRの自室は、ネットで意気投合した方を歓迎する応接室にも使える。様々な制約や目線を工夫したりして、障害者の身体感覚をVRで体験してもらう趣向なども考えられる。

*1:位置: 1,281〜1,282

*2:位置: 1,335

*3:位置: 1,240

*4:位置: 1,242