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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

不条理な惨事が身近に起きた際の世界把握の変容について

前記事からのつづき)

 件の病院への放火事件の影響で文章が全く書けない時期が続いた。理由の中心を占めたのは公正世界仮説の崩壊である。

 公正世界仮説とは概ね「善行や努力は幸福により報われ、悪行や怠惰は不幸により罰せられる、世界は正しく因果応報で回っている」という信念だと理解している。このような世界把握には、弱者の苦境や差別の問題を自己責任に回収してしまう危険がつきまとう。つまりこの言葉は多数派の持つそうしたバイアスを少数派が批判的に形容するためにある。従って肯定的な概念として語られることは普通は有り得ず、少なくとも重度障害を持つ私がそんな信念を内面化しているとは全く思っていなかった。

 しかし身近に起きた悪夢のような事件によってそれが勘違いだったことを思い知らされた。

 犯人が複数候補から選んだとされる犯行日と私の通院日は結果的にたった数日ずれた。2つの日付が逆でなかったことは単なる偶然である。犠牲者と私は明らかに同じ立場にいた。むしろリワーク(再就職を目指す訓練)に取り組んでいたぶん、世間一般の尺度で言えば私などより遥かにまともな人達だった筈だ。待合室から診察室に行く時に、必ず彼らは視界に入る。真面目そうな人達で一杯の会議室を横目に見て身につまされるのが私の常であった。そんな彼らが何故、あの日に、あのような形で、命を落とさねばならなかったのか。

 勿論そこに理由などありはしない。にも関わらず、気付けば何らかの答えや必然性を探している自分を発見し愕然とする。

 つまり私は心のどこかでずっと世界の公正さを信じてきたのだと思う。かなり歪でこじれたものではあるが、私なりの秩序の箱庭で辛うじて心を守ってきた。だからこそ今までだましだまし生きてこられたのだ。世界に対して持っていたある種の信頼。失って初めて、それに気付いた。

※※※※

 別の文脈で言うとこうだ。障害者問題であれ何であれ、社会の矛盾に注目を促す文章を書く人(私も含め)というのは無意識のうちに「社会は原則的にそれなりに筋の通った秩序と規則性をもって動いている」ことを前提にしているのではないだろうか。

 もちろん自分が取り組んでいる以外の課題は社会に無い、と思っている人は稀だろう。私も別に障害者問題に限らず、差別も人権問題も千差万別で様々にあり、貧困も、格差も、環境問題も、その他無限にあるのは認識している。自分と違う思想や国の人からはまた別の課題が大きく見えるだろうことも受け入れている。

 ただ方向性はどうあれ、社会を何らか良くしたいと思っている人の世界把握は「道理が地で不条理が図」なのである。逆に「道理が図で不条理が地」、つまりそもそも現実世界を無秩序な混沌の渦と感じてしまったら、いかなる類の正しさもマジになって主張できるものではない。元々デコボコな土台の上にジェンガを積もうとするような徒労の極みだからだ。戦争などはその最たるものである。戦地での障害者は、命が極めて脆弱なのは勿論だが、社会的にも低い地位に甘んじざるを得ないだろう。爆撃や飢えや病で人が次々と倒れていく状況で社会権を主張するのが非現実的なことは目下の戦争からも明らかだ。

 ずっと頭から離れないあるアフガン女性の言葉がある。彼女は過去20年間、女性の権利擁護や教育政策を通じ社会に尽くしてきたが、タリバン政権の復活で一転、全てを失った上に死すら危ぶまれる身の上となった。彼女は言う。

“I might face consequences… I guess that’s the price we pay for trying to make the world a little better”

「私は報いを受けているのかもしれません…… それは私達が世界を少しでも良くしようとする際に支払うことになる対価なのでしょう。」*1

 紛争下にある人々の言葉には切実さがあり胸が痛む。

 仕事やライフワークというのは、外側の世界と自分の幸福とをより良い形に拡張して何とか双方を繋げ合わせようとする試みだと思う。上述の女性の場合、その両方が一気に失われたのだ。このような立派な人物と私とを同列に論じるのはおこがましい限りだが、彼女の言葉が深く響いたのは、絶望の形が自分と似ている感じがしたからだ。

 世界認識について言えば、事件以来あまりにも現実のデタラメで不規則な点ばかりが目につき何も分からなくなってしまった。全く不明な対象には働きかけようがない。

 個人の人生においても難しい局面にある。欲望、能力、環境の3つがことごとくチグハグだ。ルサンチマンと感謝だけが無限にあっても何かができる訳ではない。相変わらず月に一回、以前と似た構造のメンタルクリニックに行って似た薬を貰って帰る。白い空間で開院を待つ苦しみの時間。ノベルゲームで分岐を間違えた時に出てくるチープな背景みたいな感じ。行き止まり。そうだとして、これは一体何の時間なんだ。どう使えばいいのか。何をすればターンやフェイズが変わるのか。

 要は両面で完全に閉塞した状況にあるのだ。今までやってきたような社会との関わり方に本当に意味があるのか。自分の好きで得意な営みが現実の世界にマッチしているのか、何か違いを生めるのか。それらをゼロベースで考えるには、己を根本から見つめ直す必要があった。

(つづく)