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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

『A地点から』(小説・一話完結・オリジナル)

『A地点から』 西王地真

 千日前通りを進むと〈笑いの館〉の看板が見える。少なくとも、館が大改装されて以降では初めての訪問だ。
 今や無機質なIDスキャナしかない入口へ進む。
「マイド!」
という人工音声と共にドアが開いた。棺桶を思わせる真っ黒な空間だ。勇気を出して中に入る。すると
「A地点に参ります」
という音声が聞こえ、すぐに奥の扉が開く。
 また同じような黒い箱型の空間だ。ただし今度は中央に椅子があり、奥と左右の壁が煌々と光っている。俺はゆっくりと椅子に腰掛け、右の肘掛けの穴に杖を挿す。左の肘掛けに被せてあるヘッドホンを耳に当てると、音声ガイドが始まった。
「ようこそ〈笑いの館〉へ。しかしそもそも一体『笑い』とは何でしょう。有史以来、我々人類はこの難問に挑んできました」
 正面では金色のマスコット妖怪が音声と同期して口をパクパク動かしている。この施設では展示物が音声の内容を喋っている、と解釈すべきなのだろう。リップシンクも三次元ホログロムの解像度も素晴らしく、本当にそこにいるかのようだ。展示物が左から右へ移動するにつれて見る角度が変わっても、全く違和感がない。また巨大な足の裏のテクスチャといった細部の質感も実に見事な再現ぶりである。
 左の壁には【解説】という大きな字の下に音声ガイドと同じ文言が流れている。右の壁はまだ【ネタ】という字だけだ。ここの展示は解説とネタの両パートで構成されていて、聴き逃した時は左右の壁を見ればよい。たぶんそういう仕組みなのだろう。
 正面では種々の類人猿やネアンデルタール人らが、各々の芸を行いながら次々に流れていく。そこに〈宴会芸がつまらないという理由で殺された人のミイラ〉の話が続く。その時の芸とされるものを正面の古代エジプト人が演じている。どれほどつまらないかを示すためなのだろう。だが俺は普通に面白いと思った。皆で誰かのつまらなさを確認し合う時の、あの独特の同調圧力が頭に蘇り苦い気持ちになる。俺が漫才師を志した理由の半分は、この不快な空気に復讐するためだった。
 世界的名所だけあって、旧日本地域以外の芸も扱うらしい。だから結構な時間が経つのにまだ縄文時代にも入っていない。こんな調子で最新の笑いまでカバーできるのか、と心配になる。しかし次第にそれは杞憂であることが分かってきた。あまり資料が残っていない時期も多い上に、施設の特性上、文字でも味わえる笑いについては大半が捨象されていたからである。
 それらに代わり、一際焦点化されている領域が二つあった。
 一つは書き言葉を持たない部族の芸能である。相手が笑うまでひたすら無言で誘い笑いを続ける、という芸には特に惹かれるものがあった。彼らと戦争をしに行った部族も、途中から笑ってしまってもうダメなのだ。結局戦争はグダグダのうやむやになる。そうして何百年も殺しも殺されもせずに繁栄した、というから大したものだ。そんな究極の平和外交も、遠距離からの大砲による集中砲火であっけなく滅ぼされてしまった。今日の科学技術を以てしても、彼らの芸を再現するには至っていないそうだ。つくづく取り返しのつかない愚かなことをしたものである。
 もう一つは、この館を運営する会社に所属した芸人の数々だ。
「ラジオ、テレビ、劇場、インターネット、仮想空間、そして宇宙まで、わが社は一貫して笑いを牽引するスターを輩出してきました」
 館の目的の一つは会社の宣伝だ。だからどんどん広告色が強まっていく展示にも驚きはない。誰もが知る名人達が、まるで生者のようにラジオやテレビのマイクに向かって話したりしている。ただ音声や白黒映像からこんな超高解像度のホログラムを生成するのは感心しない。それは元の芸とは全く似て非なるものではないのか。なまじ声が本人達のものだけに、却って余計に違和感を覚えてしまう。
 そんなことを考えていた時、ガラスの向こうに昔の俺が現れた。思わず声が出そうになる。確かに俺は数十年間、この会社に所属していた。だからこうして展示されるのもさほど不自然ではない。この場所にかつてあった劇場はもちろん、今は無きテレビや動画サイトにも出て多少活躍したという自負もある。
 だが劇場での体験を完全に複製可能にした〈笑いのメタバース革命〉という試練が立ちはだかった。最初は懸命に食らいつこうとした。目の前にいる俺もその時期に仮想空間上で録画されたものだ。だが改めて客観的に見てもつまらない。さっきのエジプト人の方が面白い。少なくとも彼は己の芸を面白いと信じてやっていた筈だ。それに引き換え、この時の俺は自分でも内心全く面白くないと感じていた。恥と罪の意識で正視できなくなった俺は目を固く閉じる。しかし一度開いた傷口から、苦い記憶が溢れ出すのを止めることはできそうもなかった。
 メタバース時代の笑いにおいては、仮想空間の設計が全てと言ってもいい。だからコント師が爆発的にシェアを広げた。コント形式であること、そして一つのネタに対して一つの仮想空間を作ることが、プロの芸人としての最低ラインになった。例えるなら、昔の大劇団が擁していたような専門職が全て必要になったような感じだ。当然ながらそれをマシン上で行うのだから、高度なITスキルを持っていることも必須要件である。ただデザイナーベビー達には造作もないことだったようだ。近頃は複数の役割を兼務できる者も随分と増え、十人以下のコント集団が再び主流になってきている。挙句の果てにはピンのメタバース芸人まで現れる始末だ。
 こうした状況下で、漫才師は為す術もなく早々と淘汰されていった。俺も〈笑いのメタバース革命〉の数年後に引退したが、それでも遅過ぎたくらいだ。元相方のようにもっと早く引退してVR録画など残さなければ、私がここで永遠に醜態を晒されることもなかっただろう。これは旧世代の芸人が新人類に勝とうなどと、無謀なことを考えた罰だ。
「お笑いが惑星ごとに異なる進化を始めたことをいち早く察知したのも我が社でした」
 展示は殆ど終わりに近付いている。
「地球の笑いを輸出するだけでなく宇宙規模で笑いを育む当社。それでは水金地火木土天海、各星を代表するコメディアンによる銀河級名人芸を……」
 そこで音声が不意に途絶え、辺りは暗闇となった。宇宙空間はこんな感じなのだろうか。数秒後、強い光が目を刺した。今度は眩しくて何も見えない。これも館の演出なのか。
 天井からの光に目が慣れてくると、様々なものがガラス越しに見えた。正面には、凝視しないと何なのか判別できないほど遠くに、多くの人と椅子が二段あるのが見える。そしていつの間にか、俺から左右一m半ほどの左右には老人が一人ずつ居た。真上には青年も座っている。ざわめきが起こり拡大していく。
 その時、突然大音量の放送が流れた。
「何者かのサイバー攻撃により、展示空間調製システムがダウンしました。バックアップモードに移行します。観客は係員の指示に従って避難して下さい」
 無機質な人工音声だ。なるほど、と思った。今まで稼働していた視聴覚遮断装置が停止して、初めてここの構造が分かってきた。私達は巨大なガラス円柱の外周を回るメリーゴーランドに、中心を向いて座っている。私の階は旧人類、上の階は知能の高い新人類の若者達を収容する二層構造の建物なのだ。
 その時だった。また「キーン」という不快なノイズが鳴り、今度は人間の声が響いた。
「えろうすんまへん。ワイは当館の奉公人です。当社はこれを〈東京モン〉の仕業やと見とります。そうなると『もうこれはプロレスみたいなもん、つまりショーの一環や』いうことになるさかい、返金はできませんのや。堪忍やで。ほな、避難手順を申し上げます。肘掛けをスライドさせて非常用ボタンを取り出して下さい。そして【満足】と書いてある箇所を押して下さい」
 私は驚愕した。話の内容とか、人間の係員がいた事とかに、ではない。この嗄れ声の主に対してだ。あの独特のアクセントを聞き間違えるものか。円柱の中心でマイクの前に立つ、あいつは紛れもなく修だ。ややあって、私の右斜め上前方の女性が猛然と立ち上がり、修に食って掛かった。
「ふざけないで! わざわざ海王星から四時間以上かけて来たのに、たった五分で打ち切りですって? まだ縄文時代の入口ですわ。当然、入館料、宇宙交通費、慰謝料は弁償して下さるんでしょうね」
 その真下にいた、俺と同じ百歳前後であろう男が続く。
「同上だな。拙者も入って十分、まだ縄文時代の入口である。せめて入館料は返してもらわねば困るというものだ」
「そうだそうだ。本来〈東京モン〉ってのは、東京独立主義過激派芸人からの攻撃のみを指す言葉だろ。それなのに一回の免責で味を占めやがって、今じゃどんな脆弱性もあんた方にかかりゃ『東京モンの仕業』だよ。地球、太陽系、全銀河からのサイバー攻撃、果ては単なる係員の操作ミス、何にでも拡大解釈して適用する。噂は本当だったようだな」
 俺の真上の青年が凄まじい早口で嫌味を垂れ流す。しかし私はそれどころではなかった。次にどう動くかで頭が一杯だったからだ。
「え、ええ、仰る通りです。さっき喋ったのは対応マニュアルの言葉でして。一字一句でも読み間違えたらクビなんです。不快にさせてすみません。でも皆さんにそれを押して頂けないと、避難モードが発動しないんです。そうすると皆さんも私も全員死にます。これは本当です。どうかお願い致します」
 修が青年に向かって弱々しい口調で懇願した。真下にいる俺には気付いていないようだ。
「その手に乗るかよ。仮にそうだとしても、法定義務の備蓄電源が最低二十四時間ぶんはあるだろ。納得できる言質を取るまで小生はここを動かねえ。ほら見てみろよ。他の人も同じ気持ちみたいだぜ」
 そう言った青年の勢いと対照的に、修はあちこちからの罵声に為す術もなく石のように固まってしまった。俺にはそれが演技でないことが分かる。昔、ネタが全て飛んだ時のあいつの姿そのままだったからだ。心の内も手に取るように分かる。俺もネタが全て飛んだことがあるからだ。
 俺は心を決めて立ち上がった。杖を逆さに持ち換え、両手で大きく振りかぶる。そして全力で振り下ろす。尖った柄の先端が透明な壁にピシッと亀裂を作る。俺は高揚した。いける。いけるぞ。今行くぞ。
「おい、お前まさか雅人、雅人なんか? 雅人! こんなとこで何しょんじゃお前!」
「その台詞、そっくりそのまま返したるわ」
 叫び返しつつ亀裂を狙って再び杖を振り下ろす。すると今度は小さいながらも穴があいた。こうなればもうこっちのものだ。俺はこの動作を反復して穴を大きくし、そこから内部に侵入した。
 修のいる中心に近づけば近づくほど、全方向から好奇の視線を浴びる。展示で見たコロッセオを連想する。そして己の体や命をも芸の道に捧げた剣闘士達のことを想った。
「おいおい、無茶苦茶なことすなよ。ガラスの破片は下手したら大怪我するど。ほんまにどうしたんじゃ。今も儂のことを恨んどるんか? それでぶちまわしに来たんか?」
 俺は修を目で強く制しながら少し大げさに鼻を掻く。すると修は目を見開いてから、一瞬泣き笑いのような表情をした。しかし小さく頷いた時には、もう昔の顔つきになっている。俺はこの数秒で完全に理解した。長年の胸のつかえの正体も、それがたった今消えたことも。
 俺がマイクから数mの所で足を止めると、修が右にピタリと付く。アイコンの自動整列のような動きが頼もしい。俺はコンビを解散した後の四十年間よりも、共に活動した四十年間を信じると決めた。
『どうも、〈二人三脚〉でーす。』
 二つの声がぴたりと重なる。修は笑顔で手を叩く。このマイクや空間には正面が無い。だから俺が杖をつく身であることを考えれば、マイクに直進するのが合理的だろう。でもそうはしたくなかった。漫才師が舞台中央から出てくるのは変だからだ。少し行き過ぎた後で右に九十度回転する。こちらが漫才師の正面だ。いや、そうでなければならない。修が当然のように位置を合わせてくれたのが嬉しかった。
「まあ四十年前に解散したんですけどね」
「言わんでええやろそれ! 改めまして、僕が雅人、こいつが修です。何や相方がえらい迷惑かけたようで、ホンマにすんません」
 すると修は無言で背中合わせに立つ。
「ってお前何してんねん! バトルアニメの終盤か!」
 全方向から失笑と溜息が漏れる。私の正面にいる海王星からのお嬢様も完全に無表情だ。だがこの程度何でもない。背中から熱が伝わってくる。修とはもっと厳しい現場だって乗り越えてきた。
「いや、こっち側のお客さんが後ろになってもうたら悪いやん」
 マイクが修の声をちゃんと拾ったことに俺は安堵した。
「背中合わせの漫才コンビなんか見たことないで。でもまあ確かに一理はあるな」
 修はこの間にもう右隣に戻っている。
「ワイのイケメンも見えへんしな」
「それは見せんでもええねん」
「ふん、足引っ張ったら承知しねえぞ」
「バトルアニメももうええねん!」
 修は大げさに舌を出し、頭を掻きながら
「てへぺろ」
と言う。俺はそれに不安を抱いた。客の神経を逆撫でする危険もある上に、俺達が作った言葉でもない。だがそれ以前に今の若者には意味すら伝わらないだろうと思ったからだ。
 ところが会場はドッと湧いた。それも上の階の客のほうによりウケている。海王星お嬢様さえ明確に笑っている。俺は今更ながら気付いた。ここにいる人達の多くは根っからのお笑い好きなのだ。まして彼女のような新人類の頭脳なら、オタク並の知識を蓄えていてもおかしくはない。過去百年の芸の歴史を記憶するなど朝飯前だろう。それとも単に「一周回って面白い」という現象だろうか。あるいは何らかの新鮮味を感じたのかもしれない。いずれにせよ、観客の笑いのツボが少しだけ分かった気がした。
「お、お前なかなかやるやないか…… 今日はホンマにお客さんに恵まれたなあ」
「現役の時より受けたな」
「それはそれで複雑やけどな!」
 俺はそこで少し息を継ぐ。
「昔はこんなね、三百六十度全部が客席ってことは無かったですからね。舞台の手前にしかお客さんは居てはらない。それでさっき僕らが並んどった辺りに幕があって、出番まで隠れとくんですわ」
「へえ、君そんなアホみたいなことしとったんかいな」
「ホンマになあ、ってお前もやろがい。しかしそれに比べてここの視聴覚効果は凄いでんな。人がこない仰山おったのに全然分からへんかった」
「ワイは分かったけどなぁ〜」
「当たり前やろ! ここで働いてんねんから。お前はまずこの事態に立ち至ったことを恥じろや」
 修はさっきと寸分違わぬ動作と調子で
「テヘペロ!」
と言った。今度は笑いというより、オーッという感嘆のどよめきと拍手が巻き起こった。
「天丼だ!」
「よっ、天丼屋!」
「日本一!」
「ギャラクシー!」
 よく分からないが好意的なのは確かだ。とにかくこの勢いを削がないことに集中しよう。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
と俺はほうぼうに頭を下げる。
「科学技術も若い方々の頭脳も凄いしね、仮想空間にしたって現実と見分けがつかん。そういうメタバースコント全盛の時代です。僕ら老人の繰り言なんか誰も聴いてくれへんやろ。そう思ってました。昨日までは」
 修は神妙な面持ちで頷きながら聴いている。
「でも皆さんなら分かってくれる気がしてきましたわ。昔ね、笑いの空間は劇場の皆で一緒に作るものやったんです。漫才師が『うわあ、ここが例の喫茶店かぁ。チリンチリン』と言うたら、もうそこは喫茶店になるんです。めっちゃ雑でしょ? 誰がそんな説明台詞言うねん、っちゅう話ですよね。でも当時はそれで観客と喫茶店を共有できたんです」
「せやなあ。それ系の話で言うと」
と修が鼻を掻きながら後を引き取る。
「ワイは大学でオチケンやってて、落語家になろうかなとも思ったんです。落語も無から世界を立ち上げる芸ですさかい。ただこの隣におる奴に『落語なんか未来が無い、これからは漫才の時代や』とか言うて丸め込まれましてん」
「人聞き悪いこと言いなや。実際その後落語は絶えたやないか」
「まあ結局漫才も絶滅したけどなー。これからは漫才の時代やって言ってた奴がおってんけどなー。あー」
「分かった分かった。じゃあ折角やからここで落語やるか?」
「ええー昔々、夜な夜な蕎麦を売る屋台がございまして」
「いきなり始めよったなこいつ」
 客席から笑いが起こる。今日初めて二人の連携で取った笑いかもしれない。そう思うと熱いものが胸に込み上げた。とまれ、修から合図があるまではしばし任せるのが良かろう。俺はその間、修が『時そば』を選んだ理由を推測した。最も有名な古典落語の一つだというのはあるだろう。また蕎麦を啜るのは話の流れにも合うし、それは修の特技でもあった。実際に会場がドカンと湧く。そしてたぶん、最後の理由は時間に関係している。もしそれが正しければ、俺がこの後修に振るべき問いはただ一つだ。
「お後がよろしいようで」
 八十年を経ても腕前は錆び付いていなかった。天性のものか、はたまた陰で練習し続けていたのか。修は王道の時そばを堂々と演じきった。私も手を叩き、余韻に浸りつつ、他方では口を開くべき瞬間を冷静に測っていた。すると修が正座から立ち上がり、こちらを向いて
「ドヤ!」
と言った。
 ここだ。ここしかない。
「なかなかやるやないか。ところで一つ聞いてもええか?」
「なんや」
「非常電源はホンマに二十四時間ぶんあるんですか」
「実は二時間も無いねん」
「違法やないか! いい加減にしろ。どうもありがとうございました」
 頭を下げた次の瞬間、万雷の拍手が耳に入った。それに続いて、何かのゲージを連想させる、ポポポポポ、という電子音が聞こえてきた。床面に二人を中心とする巨大な円グラフが現れた。顔を上げると人々があちこちで【満足】ボタンを押している。グラフの弧がどんどんと伸びて半円を超える。俺は興奮を抑えつつ修に尋ねた。
「満足度が何割行けばここを出られるんや」
「八割」
 なかなかに高いハードルだ。経験上、相当な手応えがあった時でも心を掴めない層が二割前後はいる。しかしさほど恐怖は感じない。むしろ晴れやかな気持ちだった。俺達のやってきたことは確実に今に繋がっている。最近の若者はやはり凄い。今後も良いものは受け継ぎ、一層笑いを豊かにしていってくれるだろう。
 そして何より、修と再会し、また二人で漫才をやり、爆笑まで取った。それこそが、心の奥底で四十年間求め続けていたものだったのだ。
 床には今や真円となったグラフに「満足度九割九分九厘」の大きな文字があった。
「観客はちょうど千人じゃけえ、九百九十九人がボタンを押してくれたことになる」
 信じられないような話だ。しかし今は邪推するよりも素直に奇跡に感謝したかった。
「しかしそうなると逆に押してない一人に興味が出てくるな」
「お前じゃい!」
 修が珍しくツッコミに回る。しまった。俺はガラスを割って出てきた席のほうを見る。あそこにボタンを置いてきてしまった。
「もうすぐ始まるで」
 修がそう言ったのに続き人工音声が響く。
「退館同意者が定足数に達しました。よって避難モードを実行します。お客様は安全のためご着席下さい」
 壁が少し回転し、ガチャコン、という音がした後、徐々に照明が消える。そして天井が五百個の細長いショートケーキのような形に分かれ、壁と共に外側へ開き始めた。まさに青天の霹靂だ。それらがなだらかなスロープとなって、上階の客にも脱出経路を提供した。新鮮な外気が頬を撫でる。ガラスと鉄骨が太陽を浴びてきらきらと輝く。仮想空間より非現実的な光景だ。私がその美しさに見惚れていると修がおもむろに切り出した。
「儂が辞めてからも、雅人は長い間メタバースコントで必死に足掻いとったよな。なのに儂はただ見とるだけじゃった。お前に合わせる顔が無かったよ。生活のためにこの館で再雇用されてからは余計にな。でもそれは言い訳じゃ。本当に申し訳ない」
 かしこまって頭を下げようとする修を手で制して言う。
「やめてくれそんなん。ええねん、お互い様や。正直言うとな、さっき俺はここで死んでもええと思っとった。それくらい幸せや。お前と漫才やれて良かったよ。おおきに」
 俺が差し出した右手を修が両手で強く握り、互いに相手の泣き顔を見て笑い合う。その数秒間は無限にも感じられた。
「儂はそろそろ外に出てお客さんの誘導やら後始末やらをせにゃあいけん。実はあっちにガラスの下をくぐれるB地点がある。そこでお別れじゃ」
「おおきに。せやけど俺は自分の席から出たい。何故かあのボタンを押さなあかん気がするんや。駄目か?」
 修は少し考えた後、笑いながら言った。
「ええで。別に悪い事が起こるような仕掛けでもないし。ただガラス片には注意せえよ」
「無理言うてすまんな」
「どのみち『押すな』と言うても絶対押すじゃろ? 雅人は昔気質な芸人じゃけえ」
 俺は図星を突かれて破顔する。
「ほな」
「じゃあの」
 俺と修は反対方向に歩き出す。互いに振り返ることはもう無い。バトルアニメのラストがそうであるように。