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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

身体障害・精神障害の社会モデルとその違い

 私は身体障害と発達障害の両方を持っているが、身体障害者及びその周辺と発達障害者及びその周辺を比べた時、「障害の社会モデル」の考え方の浸透具合が全く違うことに驚かされる。

 身体障害者やその周辺(支援者・介護者・行政・医療関係者など)では、「障害の社会モデル」は現時点で広く共有されている。当事者団体の中では「障害は社会の側にある」という考え方は常識であり、周辺の健常者も殆どがそれを受け入れている。従って、障害を個人の側に帰し、身体障害者本人の意に反してリハビリや治療等の「自助努力」を強制されるようなことは殆ど無いと言っていい。それよりもむしろ「うまく人の手を借りながら自分らしく自己決定していく」「依存先を増やすことで生活の安定を図る」ことの方が推奨されている。

 それに対して発達障害の場合は、「障害の社会モデル」は驚くほど浸透していない。「発達障害者はまず甘えを捨て、医療機関による適切な治療・訓練はもちろん、極限までの自助努力・工夫を行うべきであり、その後初めて周囲に配慮を求めることができる。」という考え方が非常に根強い。社会だけでなく当事者の周辺、もっと言えば当事者の中でさえかなりの割合の人がこの考え方を内面化しているのである。

 このような身体障害と発達障害の間での「障害の社会モデル」の浸透度合いの違いは何故生まれるのだろうか。その手掛かりとなるのが、白田幸治, 2014,「障害の社会モデルは解放の思想か?―精神障害のとらえがたさをめぐって―」*1である。この論文では発達障害だけでなく精神障害全般を扱っているが、議論の枠組みとしてはそのまま使えると考える。以下に白田の論文を私なりの解釈で簡単に要約する。身体障害においてはインペアメントもディスアビリティも比較的明確であり、インペアメントが社会制度によってディスアビリティとなるという図式もあてはめやすい。従って、「インペアメントがあっても社会制度を変えることによってディスアビリティを取り除くことができる」という「障害の社会モデル」を適用することができる。ところが精神障害では何がインペアメントで何がディスアビリティなのか判然としない上、それらは互いに混じりあい、境界や因果関係や関連性もはっきりしないため、「障害の社会モデル」を単純に適用することはできない。加えて、身体障害のインペアメントが「手足が無い」「目が見えない」などの比較的分かりやすく誰の目にも明らかな形で表れるのに対し、精神障害者と定義されるにはそもそも医者(治療者)による診断が必要であるから、どこまで行っても治療者の影響力から脱しきれず、治療モデルからも脱しきることができない。
 以上の白田の議論には私も全面的に同意したい。付け加えるならば、精神障害において社会モデルが浸透しない理由は更に二つあると思う。

 一つ目は、精神障害者の、問題とされる行動なり態度が、障害によって引き起こされたのか、障害以外の当人のパーソナリティによって引き起こされたのかを峻別することの困難さである。一人の人格の中から「障害の部分」と「障害以外の部分」を切り分けることなど本当に可能だろうか。仮に可能だとして、精神障害が当人の人格形成に影響を与えている場合、どの程度当人に帰責性があるのだろうか。こうしたことを考え出すと非常に面倒なので、「精神障害は全部甘え」ということで一括りに断罪されやすい。

 二つ目は、精神障害の概念が、「自分の意志は自分のものであって自分の自由にできる。よって自分の意志に責任を持つべき。」という近代社会のそもそもの前提を掘り崩すことへの抵抗感である。では自由意志とは何だろうか。

 意志の元となる自分の脳も身体も、遺伝と環境によってできている。遺伝も環境も当然自分ではコントロールできない。「環境は自分の意志で変えられるではないか」という反論もあるかもしれないが、その自分の意志も遺伝と環境によってできている。つまり人間に自由意志など無い、以上!という考え方もできる。しかしそれでは「責任を持った個人」が存在せず、法律、契約、刑罰なども全て無効になってしまい、現実的に社会を成り立たせることができない。そこで、一応「責任能力を持った個人」という概念を便宜的に作り、「脳みその中のことはその脳みそを持つ人の責任」ということにして何とか社会を成り立たせているのである。

 ところが、精神障害という概念はそうした社会のお約束をいわば無効にしてしまう。そうした前提に加えて「精神障害は社会が生み出すものであるから、合理的配慮をしなければならない」「精神障害者を無理矢理治療しようとしてはいけない」と言われれば、自らを精神障害者ではないと自認している者からすれば「一体どこまで譲歩すればいいんだ」と感じられるのかもしれない。今後社会の変化に合わせて「新しい障害」が「発見」される度に同様のコンフリクトが繰り返されていくのだろう。

 以上の議論を踏まえると、精神障害の社会モデルが浸透していくにはまだまだ時間がかかると思われる。

 身体・精神両方の手帳を持つ者として私が一つ残念に思うのは、身体障害者と精神障害者がしばしば対立しがちなことである。当事者団体同士も多くの場合あまり仲が良くないと聞く。身体障害者から見た精神障害者は「ただでさえ少ない福祉の予算や障害者雇用率のパイを奪いに来た、甘えた健常者」と映る。逆に精神障害者から見た身体障害者は「長年にわたって健常者から優遇され、利権を独占してきた既得権益者層」と映る。確かに、一部利害が競合する面もあるだろう。だが、身体障害者には身体障害者の、精神障害者には精神障害者の生きづらさがある。だからこそ互いを理解する努力をしなくてはならない。その努力なくして、共生社会の実現などと主張する資格は無い。*2

*1:http://www.r-gscefs.jp/pdf/ce10/sk01.pdf

*2:私が当事者でないため、本稿では知的障害には触れなかった。また別の機会に「大学入試と知的障害者」というテーマで論じたい。