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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。文春オンラインなどに執筆しているライターです。令和は純愛の時代である。

歴史に学ぶ難しさ 「ポル・ポトは運が悪かっただけ」にどう反論するか?

摘要

 歴史は全て一回性の固有のものであり再現性が無い。それ故に、歴史から引き出した教訓や法則性を現代や未来の社会像についての議論に敷衍する際、我々はその射程の限界にもっと自覚的かつ慎重であるべきだ。「歴史に学ぶ」というのは決して簡単なことではない。

本論

 2015年に否決された「大阪都構想」が2020年に再び住民投票にかけられた。反対派は「5年前に結論が出た問題」を繰り返すこと自体に否定的だった。これに対して推進派は「5年前とは内容や社会状況が違う」と、2度目の提案の正当性を主張した。またこの「前提条件の変化」は、公明党議員団が反対から賛成に転じた理由を弁明する際の貴重な拠り所でもあった。これらを単なる政治的な言い訳と一蹴するのは簡単だが、賛成票が49.4%に上ったのを見る限り、有権者に一定程度受け入れられていたことも事実である。

 もっと引いた視点から見ると別の疑問が立ち現れる。すなわち、わずか5年後でさえ「あの時とは前提となる状況が違うため同じ事は言えない」のだとしたら、それよりも遥かにタイムスパンの長い過去の歴史から示唆を得る事は不可能ではないか。

歴史が持つ特性

 人間社会は自然科学と違って「条件を揃えて対照実験を行うことによって再現性を担保する」というのが難しい。だからこそ、過去に実際に起きたこと、つまり歴史から得られる示唆が貴重なのである。

 しかし、歴史には再現性が無いというまさにそのこと自体が、歴史に学ぶのを困難にもしている。

 歴史は一回性のものである。過去の全ての事象には、それが起こるに至る前提となった固有の諸条件が必ず存在する。

 具体的に言えば、過去に成功(または失敗)した政体、思想、政策等はたくさんある*1。しかし仮にそれと全く同じ試みを現在や未来に行ったとしても、歴史と同じ結果になる保証は全く無い。それどころか成否が真逆になっても何の不思議もない。何故なら、テクノロジーも人口動態も文化も自然環境も何もかも、ありとあらゆる前提がその時とは違っているからだ。

 その不確実性に無自覚なまま、歴史から都合の良い教訓や法則性を引き出し、そのインプリケーションを現代や未来のあるべき社会像、進むべき方向等についての議論に敷衍する事は、無意味かつ危険である。

 つまり「どのような遺構や考古学的資料が残っているのか」「事実として何が起きたのか」「どのような歴史観をとるか」「歴史からどのような教訓を得るか」といった論点*2とはまた別なレイヤーにある問題として「ある歴史から引き出された教訓や法則性はどの程度堅牢(=ロバスト、頑健、etc...)なものなのか(現在や未来の議論に敷衍できるのか)」という事も考えなければならない。

 例えば「ペロポネソス戦争でスパルタはアテナイに勝利した。故に軍国主義はデモクラシーより優れている」という主張に共感する人は少ないだろう。一方で「隕石による環境の激変で恐竜が絶滅したのは多様性が欠けていたからだ。よって人間の社会集団にも多様性が欠かせない」という主張に賛同する人は一定数いる。少なくともスパルタの政体を支持する人よりは多いだろう。

 だが、後者の方がより遠い昔の話であり、しかも人間の話ですらないのだ。そう考えると、後者の説得力の優越性がどこから来るのか、不思議に思えてくる。

定量的な歴史研究の登場

 こうした問題意識を反映しての事だろうか。近年、歴史学に定量的な視点を加えようという研究が様々な切り口で盛んに行われ始めた。その知見に従えば、いくつかの個別的な反例はあるにせよ、総合的な成功確率で見れば「デモクラシー>軍国主義」「多様性のある集団>均質な集団」と言えるのかもしれない。こうした定量的な研究は、個々の歴史が持つ固有の文脈を剥ぎ取るという意味で些か乱暴ではある。しかし、歴史から導かれた示唆の堅牢性を確かめようという試みには一定の意義がある。少なくとも、誰もが自分の考えを正当化するためだけに、都合の良い史実のみをつまみ食いして好き勝手な法則性を導くよりは遥かにましだ。

 とは言え、こうした定量的な分析も万能ではない。例えば「社会主義は失敗する」という主張は、過去に存在した社会主義国のサンプル数の多さからすれば、かなり堅牢に思える。では、こう主張する人がいたらどうだろうか。

「社会主義が過去に失敗したのは、効率的な資源分配ができなかったからだ。人工知能とビッグデータを使えばそれができるし、GAFA等は既に近いことをやっている。その確度は、個々人がてんでんばらばらに行動するよりも遥かに高い。現に自由市場経済は度々失敗しているじゃないか。故にAIの下で社会主義は再興する」と。

 この主張の妥当性は今はどうでもいい。大事なのは、これに反駁してなおも歴史的教訓の堅牢性を守るためには、過去のサンプル数を示すだけでは不十分であるということだ。では具体的にどういうアプローチをするのが適切なのかは分からない。ただ少なくとも、歴史だけでなくテクノロジーに関する素養も必要になってくるのは間違いない。そしておそらく、私が浅学かつ寡聞なだけで、こうした「歴史から得た示唆に堅牢性を持たせよう」という研究は、既に様々な方向から行われているのだろう。

来るべき危機に備えて

 政治家やその政策・発言に対して「それではポル・ポト*3と同じではないか。その発想は過去に失敗例があり、危険だ。」といった批判が浴びせられることは珍しくない。言われた当人は間違いなく「私はポル・ポトとは全然違う」と、いかに自分とポル・ポトが異なっているかを強調するだろう。しかしこれはあくまで現時点での常識であり、こうした対応が未来永劫当たり前に続くとは思わないほうがいい。どんなに悲惨な歴史であれ、それが人々に訴求する力は時間の経過によって低下していくからだ。

 上述のような批判に対して、以下のように切り返す政治家が、いつか必ず現れるに違いない。

「ええ、そうですね。私はかつてポル・ポトが描いた理想社会をより完全な形で実現したいんです。ポル・ポトが失敗したのは運が悪かったからだと思います。それに、今は当時よりテクノロジーが格段に進歩しました。加えて、ポル・ポトが実践の中で残してくれた知見もあります。それらを活用することで、我々の2回目のチャレンジは以前より遥かに洗練されたものになり、成功を収めるでしょう。」と。

 それが起こるのが50年後なのか何百年後なのかは、誰にも分からない。だがその時こそ、歴史学の真価が問われるだろう。

*1:もっとも、何をもって成功とするのか、どのスパンで見るのか、といった問題は当然残るが、本稿では扱わない。

*2:もちろんこれらの分野も引き続き重要であり、それぞれに優れた研究が為されていくだろう。

*3:この文脈では、ヒトラーでも毛沢東でもいい。「悪辣なことをやって失敗した」と思われている歴史上の人物ということである。