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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。文春オンラインなどに執筆しているライターです。令和は純愛の時代である。

令和は純愛の時代である

 令和は純愛の時代である。

 アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』のレビューを文春オンラインに書かせていただいた。

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 本稿は上記記事を補足する内容であり、本作及び『ジョゼ』の他のバージョンのネタバレを含む。

◆執筆過程

 思えばこの2ヶ月近く、さながらフランソワーズ・サガンの小説に登場するベルナールのように、朝から晩までジョゼのことを考えていた。漫画版、雑誌版、実写、原作、そして原作で言及されているサガンの恋愛小説三部作… これらを穴が開くほど何回も見て、アニメの試写会にも2回参加して内容を確認し、友人の婚活体験も聞き取り、ひたすら愛について考え続けた。そもそも愛とは何だろうか? 人を好きになるとはどういうことなのか?

 だがやはり自分が殆ど経験していないことを考えるのは大変だった。あまりに煮詰まり過ぎて「ヘルパーさんにコンドームを買ってきてもらって、その写真を記事中に入れたら面白いんじゃないかな?」という滅茶苦茶な衝動に駆られたこともある。「パラセックス」という謎の単語が頭から離れなくなったこともある。今思えばかなり精神をやられていた。

 特に障害を持つ女性については、興味を持つことへの得も言われぬ後ろめたさがあって、これまで関心を向けないよう無意識にブレーキをかけてきた節もある。だから私は自分が思っていた以上に彼女達のことを何も知らないのだ。それに気付いたというのもあって、障害を持つ女性達に漫画版を読んで頂き、お話を伺うこともした。

◆クミ子は何故サガンの描くジョゼに惹かれたのか?

 サガンのジョゼは気まぐれでありつつ妙に達観している。誰かに執着されることを好まず、いつもどこか冷めている。自らの人生に底なしの虚無を感じつつも、それを割と気に入ってもいる。かと言って不幸趣味というわけでもなく、非常に陽気で楽天的な面もある。この輪郭の怪しい感じに、クミ子は不安定な自分を重ねたのだろう。だから決してベアトリスやニコルではなく、ジョゼなのである。

◆アニメの中の車椅子キャラの視覚的表現を巡る課題

 車椅子のキャラというのは非常に絵として成立させづらい。これは本作に限らない永遠の課題だと思う。電動車椅子の動きは等速直線運動であって歩行ではないから体が全く動かない。作画的には拡大縮小だけなので楽かもしれないが、そのぶん画面に表情を付けにくい。人間が等速直線運動すると、どうしてもヌル~っというような違和感が出てきてしまう。特に俯瞰で全身が映るような構図だと、見ていていたたまれない気持ちになってしまうのだ。

 だから本作では専らカメラをグルグルする回転演出(回り込み)を使いまくったり、木漏れ陽、落ち葉、猫などに感情を代弁させることで、何とか芝居として成立させようと苦心している。ただ、確かに下半身は動かせないにしても、手や上半身の方でもうちょっと動きをつけられるのでは?と感じた。今後、車椅子キャラは作画上も洗練されていくだろう。楽しみだ。

タムラコータロー監督のWebNewtypeでの発言について考えたこと

 少し長くなるが、本作の監督の発言を引用させていただく(出典は上記リンク)

――非常にジュブナイルな仕上がりでしたが、障害者の生活を描くという部分はどう捉えたのでしょうか。

タムラ:確かに車椅子は作品の重要なモチーフであることは間違いないですが、同時にこれ(原作)は障害者の物語ではないと思います。この作品の焦点は足の不自由さではなく、心の不自由さ。ジョゼはいわゆる引きこもりの生活をしていますが、それはジョゼの家庭の話で、僕が取材させていただいた車椅子の方の中には非常にアクティブな生活をされている方もいらっしゃいました。きっと田辺さんも、ジョゼを障害者の代表として書いたわけではないはずです。

生い立ちによって出来てしまったジョゼの心の不自由さ。それを表現できるのであれば、ジョゼには足の障害ではない、別のなにかを課してもよかったわけです。社会的メッセージを持った作品にすることももちろんできますが、それは今回僕が読み解いた作品感、描こうと思ったものからは離れてしまいますね。

  これに対して、私は最初かなり動揺した。「きっと田辺さんも、ジョゼを障害者の代表として書いたわけではないはずです」というのはまさにその通りだからだ。はっきり「ジョゼは障害者運動に参加するタイプではない」という旨が書いてある。だから「同時にこれ(原作)は障害者の物語ではないと思います」というのは一見もっともらしい。私は「私の原稿で社会問題を論じた箇所は全て見当違いで無意味なものだったのか」「全部このインタビューで無効化されるのか」というような恐怖に囚われた。

 だがやはり次第に反発を覚え始めた。「障害者の代表」なんてものはそもそもどこにも居ないのだ。だからそれが物語に出るなんてこともあり得ない。だったら、ステレオタイプに近かろうが、現実によく居そうな奴だろうが、変人だろうが、障害者が出ていたらそれは全部「障害者の物語」だと思う。だからこそタムラ監督も「障がいがある方にも、身近に感じてほしい作品でもあるので、当然その取材も重ねました。」と述べているような意欲を持った*1のではないのだろうか。

 タムラ監督は「心の不自由さ」と「足が不自由な障害者」という属性から来る困難(社会問題)とを切り離して考える。自分がやりたいのは前者なんだから後者にはタッチしないよ、原作者の田辺聖子さんも同じだろう、というスタンスだ。しかしそもそも両者は密接に絡み合っており切り離せるものではない。むしろ社会的弱者ほど両者は不可分に結びついているとさえ思う。

 田辺氏もタムラ監督のような二分法的な切り分け方はおそらくしてなかったのではないか。そうではなくて、「後者を飲み込んだ人物としての前者」に寄り切ってみせることでジョゼが厚みのある人物造形になった。私はそのように解釈している。

◆虎の物語が解放されませんでした

 実は私も本作のジョゼと同じように12月24日に一人で天王寺動物園の虎を見に行ったのだが、虎は屋内で死んだように眠りこけ微動だにしなかった。おそらく一度でも恋愛を経験してから行かないと「虎と向き合う」というイベントは起きない仕様なのだ。そういうフラグ管理がなされているのだろう。

「私がもし気分転換をしたかったのなら、むろん映画館にでも入って、近頃満ち溢れる殺人とセックスの狂乱騒ぎでも見た方が良かったに違いない。」*2

◆稿を改めて語りたいこと

 ジョゼについてはまだまだ喋り足りないことが山ほどあるが、冗長にしたくないのでここでは項目を列挙するにとどめる。今後機会があれば、ブログかツイッターなどでぼつぼつお話していければと思う。

・アニメ版の恒夫がいかにやばい人間であるか

・ジョゼと相談支援員をはじめとする公的障害者福祉サービスの関係について

・「健常者にはわからん」について

・「車椅子の女性なら先ほど乗車されましたよ」について

・原作への思い入れ

・実写版への思い入れ

*1:ニュータイプ12月号P.87

*2:『失われた横顔』p.24 フランソワーズ・サガン著 朝吹登水子訳 新潮社