2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者入所施設やまゆり園で連続殺傷事件が発生。19人の命が奪われた。
本稿では問題を1点に絞る。施設・家族会・県・警察・検察・地裁・報道機関等のアクターのいずれからも犠牲者の氏名が明かされなかった結果、6年経った今もなお十数名の方々が匿名であり続けていることだ(以後、これを「匿名化」と表記する)。
施設の是非や地域生活の課題等、容易に正解の出ない複雑な問題は扱わない。障害当事者ご本人と周囲の方々が日々理想と現実の狭間で格闘しておられることと拝察する。ここではそのことに対して率直に敬意を表すにとどめたい。
以下、私は匿名化の話しかしない。
【不明瞭な経緯】
なぜ障害者は命だけでなく生前の名前をも奪われねばならないのか。生を否定され尊厳を剥奪されて当然の存在なのか。一体誰がどんな理由で匿名化を決めたのだろう。
私は一障害者としてそれを知りたい一心で本事件に関する朝日・毎日・神奈川新聞の記事、県の発信や検討会の議事録等に片っ端から目を通した。これらの八割以上は確実に読んだと思う。しかし納得の行く答えはどこにも書かれていなかった。それどころか決定の経緯や責任の所在さえも不明瞭なままだ。
【実名原則】
まず大量殺人といった社会に多大な衝撃と関心を生む事件については、あくまで実名報道が大原則であることを確認しておく。私の通院先で起きた昨年12月の放火殺人事件もそうだった。京都アニメーションの事件についても、ご遺族の半数以上が匿名を望んだとされるが、それでも警察が理解を得る努力を行い、報道機関も取材の在り様を改めて自問しつつ、最終的には全員の実名が公表された。
犠牲者の実名を明かすことの公益性やプライバシーの問題については、事実の価値やジャーナリズム論の領域で既に数十年分の議論の蓄積がある。そこに深く立ち入る事はしないが、数多の論争と試行錯誤の歴史の中で、幾度となく試され悩み抜かれた末に打ち立てられたのが実名報道原則である。もちろん賛否は分かれるだろう。しかし少なくとも視聴率や部数や野次馬根性といった軽薄な動機から昨日今日出てきた浅慮などではない。非常に重い原則なのだ。原則は貫徹されて初めて意味がある。それを事件ごとにその時々で変えたり例外を作ったりして対応が一貫しないことが、おそらく最も有害だろう。非常に誤ったメッセージを社会に発信することになるからだ。
実名原則が存在する理由を突き詰めれば、社会が事件から何らかの示唆を得て少しでも向上するには、まずきちんと犠牲者を悼むことが大前提となるからだと考えられる。
【悼むこと】
私は無宗教であり死者の魂も冥土も信じない。しかしそれでも悼むことは可能であり、かつ必要不可欠なことだと考える。逆に死者を冒涜することは社会に害を及ぼし得るとも考えている。追悼が死者の尊厳のみならず、生者つまり残された私達の問題でもあるからだ。
ここで言う「追悼」とは、紛れもなくその人が生き、唯一性を持ち存在していたことを肌で感じ、その命が絶たれたことの重みを受け止め、何が失われたのかに思いを巡らせ、それを自分の中に位置付ける、という一連の営みである。
しかしこれは決して容易いことではない。特に多くの人が亡くなった場合、かえって命の重みを感じにくくなり、本当の意味で悼むのが難しくなることもある。人は人を不特定多数と見た瞬間に人を人と思わなくなる。無機質な死者数に還元される時に零れ落ちる最も大切なものをどう掬い取り、一人ひとりの人間として受け止めるか。これは人類の永遠のテーマだろう。コロナ禍による死の報じ方を例に取ってみても、そのアプローチ(詳細は末尾でリンクと共にまとめて紹介する)は様々だ。全員を簡潔に紹介する社もあれば一部の人を顔写真付きで掘り下げる社もある。
だがいずれにも共通して必ず記されている事項がある。
それは故人の名前である。人を無条件に人たらしめるもの。人が人であった証。匿名化された故人を悼むことなどできない。命の重みを受け取れないからだ。匿名化は明確な誤りである。
【NHKのサイトを見る】
私が名前に拘る理由を以下のNHKのサイトによって説明したい。
亡くなった19人の方々|19のいのち 障害者殺傷事件 NHK
まず3名の方のご氏名をここで拝見できることについてご遺族の方々に心より御礼申し上げたい。社会にとってかけがえのない、はかり知れない恩恵である。そして他ならぬ私がどれほど救われたか。とても言葉では言い表せない。
また他の匿名の方々について、ご遺族個々人を責める気は毛頭ない。故人と互いに何を思いどう関わってこられたのか、また入所やその後の経緯、匿名となった背景などについて、部外者の私に正確なことは分からないからだ。
私が悲しく思うのはあくまで本事件の匿名化という現象全体である。ご遺族だけを部分的に取り上げて殊更に責任を云々するのは本意ではない。家族会長のご発言*1には首を傾げる部分もあるが、家族会とご遺族とを完全に同一視するのも不適切だろう。
【匿名化の問題点】
匿名化とは具体的には以下のような表記である。
26歳の女性
パンが大好きで、大きな瞳をくるくるさせる表情が印象的でした。70歳の女性
お兄さんが大好きで、手をつないで2人で散歩し、歌を口ずさんでいました。60歳の女性
天使のような人で、パンダなどのぬいぐるみをたくさんもっていました。65歳の女性
いつも笑顔で仲間の中心にいました。ご家族との外出はとても嬉しそうでした。46歳の女性
お話し好きで、薄いピンクのパンツに、黄色いリュック姿が印象的でした。65歳の女性
明るく世話好きで、洗濯物を畳むのが大得意でした。どこに行くのも先頭でした。35歳の女性
コーヒーやみかん、いちごが大好きでした。ご家族の愛情に包まれていました。41歳の男性
短期で施設を利用していた人でした。仲間たちを優しく見守ってくれていました。43歳の男性
いつもニコニコして、野球が好きな人でした。タンスにはユニホームがありました。66歳の男性
とにかくラジオが大好きで、寝るときも、風呂でも、肌身離さず持っていました。66歳の男性
香りにとても敏感で、ラベンダーやミントの匂いがお気に入りでした。55歳の男性
甘い缶コーヒーが好きでした。感情表現が豊かで、優しい人でした。65歳の男性
温厚な性格で、おちゃめでした。音にとても敏感で、動物も大好きでした。67歳の男性
演歌が大好きで北島三郎さんを聴いていました。よく職員を手伝い頼りになる人でした。43歳の男性
すごく明るく元気で、いつも跳びはねていました。音楽が大好きでした。
皆様はどうお感じになっただろうか。私は問題提起のためとはいえ、このような表記を紹介すること自体、心苦しくて仕方がない。
もはや故人の思いを知ることは叶わないが、諸々の要素を総合的に考えると*2、上記のような匿名表記が本人の生前の強い意向だとは到底考えられない。そして本人が願ったのでないとすれば、このような呼称は尚更受け入れ難い。いや、そもそも一人ひとりをどうお呼びすべきなのかも分からない以上、それは呼称とすら言えないものだ。「43歳の男性」「65歳の女性」「66歳の男性」が2人ずつおられることがそれを端的に示している。生きていた命を個人として特定することすら許さないのが匿名化の作用なのだ。それはこの6人の方々に限った話でもないし「生前の記述から区別できるから問題ない」という話でもない。
【"人となり" が分かれば問題ない?】
人となりが分かれば社会としての追悼は可能ではないか、と思う人もいるかもしれない。答えはNOである。何故なら生は属性と情報の断片の寄せ集めではないからだ。まず命と名前を持った個人が何よりも先に存在する。そしてその人が行動したり、好きなものを示したり、他者と相互に関わったりする中で、様々な人物像や評価が形作られていくのである。この2つの順序を逆さまにすることは絶対に許されない。それは命の唯一性を剥奪し断面の集合体に貶めることだ。
【自分に置き換えて考えてみた】
感覚的にそのことが分かるように、私を例にして具体的に示したい。こんなことは不謹慎かもしれないし、できることならしたくない。だがどれほどふざけた扱いなのかを直感的に示す方法を他に思い付かなかった。皆さんも自分に当てはめて考えて頂ければありがたい。
◆28歳の男性
足が不自由で居宅介護制度を使い一人で暮らしていました。アニソンが大好きでよく歌っていました。フィギュアなどのオタクグッズをたくさん持っていました。アニメTシャツを着て黙々とタブレットを見つめる姿が印象的でした。文章を書くのが得意だと言っていました。いつもしかめっ面でしたがアニメの話をする時は笑顔でした。
おそらくヘルパーさんの目に映っている私の姿はおよそこのようなものだろう。
同時にそれらは私の断片でしかない。もし死後に私がこのように表現されたら物凄く嫌だ。記述に全く誤りは無いが、断面が私より先に来て私を包括的に規定するのが耐えられないからである。「私」が萌えグッズを部屋中に貼りまくっていた肢体不自由者なのであって「萌えグッズ」や「肢体不自由」が「私」を定義付けるのではない。複雑に絡み合った総体たる生をこのような雑多な属性の集合体へと勝手に切り詰められるのは、私にとって存在を否定されることに等しい。
これを想像するにつけ、障害者としての生が遡及的に否定されるように感じて空恐ろしくなる。
では仮に私が何らかの公共性のある事件・事故等の犠牲となった場合、報道や追悼においてどう名指されたいかと言えば、実名*3を措いて他に無い。たとえ誰が何と言おうともだ。私という人間の生の総体を指す文字列はこれだけである。その他一切の呼称は私の生への冒涜と見なし、それに基づく報道も "追悼" も断固拒否する*4。私の名前は私だけのもの、自由にできるのは私だけだ。名前くらい好きにさせてもらう。奪われてなるものか。
もちろん実際その時には私は死んで無になっており、何も感じないし何もできない。ただ死後についての「今の私の希望」であることは間違いなく、その重みは尊重してほしい。
【名前と匿名化の意味するもの】
固有の名前とその人が感じる(感じた)主観的意識の結合こそが生である。自らの意思で生まれるのではない人間にとって、名前とは無条件に人が人であることを担保し、生を肯定するために与えられた唯一無二の権利なのだ。命を奪われた上に固有の名前をも奪われ匿名化され公に表記されるとはどういうことか、お分かり頂けるだろうか。
もし犠牲者の方々が上記の通り匿名化され、世の無数の人に当てはまり得る年齢、性別、簡単な ”特徴” だけで表記されてもなお一人に特定され得るとしたら、どんな場面だろうか。それは「(やまゆり園における障害者殺傷事件で犠牲となった)」という言外の限定が含意されている時だけである。つまり "70歳女性" などと匿名化されてしまうと、その特定の故人を名指すことは「本事件で犠牲となった」という要素(口に出そうが出すまいが)を含み込む形でしか行い得ないことになってしまう。殺害されたことを暗黙の限定として用いなければ一人を特定できないような形で故人を指し示すのは間違っている。あくまでも事件とは独立して、全く別個の名前と人柄を持ったかけがえのない個々人がまず生きて存在していたのだ。そしてその人を不条理にも殺す者がいた。この順番を誤れば故人の尊厳を踏みにじることとなる。
決して、殺害されたことが、その人をその人たらしめたり、存在させたりしたのではない。本事件での死は故人の生の特徴には本来含まれるべきではない筈だ。しかし私達は事実として、事件に紐付けなければ故人をお呼びすることすらできない状況を匿名化により作っている。犯人の思想に完全に敗北したのだ。
【実名の意義】
特定の故人をお呼びする際、実名なら事件の要素を抜きにしても名指せる。同姓同名の方も国内には居るとか、通称や通名を使っていた人も居るかもしれないとか、ここで大事なのはそういうことではない。ご本人や取り巻く人々(生前に故人が持っていた世界の住人達)が、当人の正式名称と認識していた名前を尊重することだ。これ以上公的にその人を呼ぶのに相応しい名前は無かろう、というものが私の言う「実名」である。それを上回る情報は無いのだから、それが明らかにされていれば「社会として故人を特定し悼むことができる前提は整った」と見るべきであろう。
【匿名化に関する破綻した説明】
匿名化の理由の説明はいつも以下のようなものだ。曰く「実名が公表されると遺族に対し、社会に存在する差別と偏見に由来する不利益が生ずる。これは "遺族の意向" である。だから匿名にするのだ。」と。
この考え方の問題点を4つ指摘する。
第一に、社会に差別と偏見がなくなるのは一体いつなのかということ。特に何か基準を挙げている訳ではないため「完全になくなった時」と読むのが自然だろう。だがそんな日は果たして来るのだろうか。これは事実上「永久かつ無条件に匿名で行く」と言っているに等しい。
第二に、差別と偏見が存在することを理由として差別的な取り扱いをすることは、差別を助長し再生産することだ。言わばこれは差別する者の常套句なのである。太宰治の『人間失格』の言葉を借りるなら以下のようなことだ(斜体部のみ筆者の改変)。
(それは世間が、差別する)
(世間じゃない。あなたが、差別するのでしょう?)(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
私も含め障害者にとっては、その手の人や機関と切り結ぶのは日常茶飯事だ。
第三に「社会」とは何かということだ。
なるほど、社会の差別と偏見は確かに悪い。しかし施設、家族会、県、警察、検察、地裁、報道機関、これらのアクターは社会の構成者ではないのか。むしろ社会そのものだろう。しかしこの事件で "社会" と言う時には、揃いも揃って巧妙に自分たちだけを "社会" からしれっと外すのだ。
言うまでもなく差別や偏見というものは、無関係の第三者による誹謗中傷には全く限らない。それはほんの一形態に過ぎない。特に実害を伴って具現化される時、そこに上記のアクターが1つも介在しない方がむしろ稀に思える。
第四に "遺族の意向" なるもので全てを正当化できるという考えだ。しかしこの文字列は高度に抽象化されたほぼ無意味なエクスキューズであり、実際のご遺族の思いとは分けて考えるべきだと思っている。またもし仮に両者が限りなく同一だったとしても、実名原則を貫くべきだったというのが私の立場だ。
裏を返せば、むしろ上に列挙した公的アクターの方が、匿名化によって負う説明責任と応答義務は大きい。それは実質的に匿名化の決定権は彼らにあり、なおかつ公共性を持つ機関だからである。
【6年に渡る敗北】
私はただ故人を追悼したいだけなのだ。しかし植松死刑囚や事件との関係でしかその生を指し示せない状態では、悼むことができないのだ。
そして追悼無きところに後世への教訓など生まれるべくもない。社会は何も学べない。学ぶ機会を逸したのだ。
事件が既に起きたことは変えられない。けれどもそれを契機として、優生思想を強めていくのか弱めていくのかは、私達の社会の事件後の対応如何で変えることができたものだ。再び本件のような障害者へのヘイトクライムが繰り返される懸念がより高い社会とより低い社会、どちらを作っていくのか。植松死刑囚が望んだような社会か、それを胸を張って否定できる社会か、と言い換えてもいい。
この6年に渡る匿名化は私の心を日々苛んだだけでなく、間違いなく前者への道を舗装した。本稿を書いたのはそれが悔しくてならないからである。
【呼び掛け】
もう一つの目的は、上述した各々のアクターの中にも存在するであろう、良心を持った個々人に直接訴求することだ。
その中でも報道機関は、行政機関でも事件の当事者でもないために、個人の自由裁量で変えられる余地が最も大きいと推察する。下記で特に報道機関に対してフォーカスして申し上げるのは、望みが最もある方々だと思うからこそである。
【報道機関の方々へのお願い】
朝刊には「命の重みを伝え続ける」「記憶の風化、許すな」「次の植松死刑囚を出さない社会に」などといった定型句が並ぶのでしょうか。どうかそうした言葉を書くのはおやめ下さい。報道機関がやってきたのは全く逆のことです。命の重みの最も核となる部分を伝えず、それによって記憶の風化を促し、社会が次の植松死刑囚を出すような素地を作ったのですから。
私の希望は報道機関が犠牲となられた方々のお名前を直ちに明らかにすることです。もしあなたが匿名化という不条理を覆せる立場にいるなら、どうか然るべき行動を取って下さい。今からでも決して遅くはありません。
私は数ヶ月前からTwitterのプロフィールに自らの実名を出しています。それは全て、今、この時のためです。言行を一致させ、覚悟と説得力を持ってあなたに言葉を届ける、ただそれだけのためにしたことです。
あなたはどうですか。
【雑記】
私も体が言うことを聞くのなら、二次情報に依らずすぐにでも現地を訪れて意思決定の経緯を具に調べたい。その中で課題の奥底や背景に肉薄できればどれほど意義深いことか。本来はそうしたい気持ちで一杯だ。
だが私はそのために必要なものを全く持ち合わせていない。社会的地位も、人や情報へのアクセス権も、神奈川まで行き介助者無しで全てを一人で行いながら連泊し取材する体力も、何もかもだ。
だから悔しいけれど、何を言っても部外者の戯言としてスルーされるだけなのかもしれない。
しかしこの問題で何も言わないことは、私にとっては己の生の基盤を放棄するに等しい恥ずべきことに思えた。
もしこれに誰かが応えてくれたらこんなに嬉しいことはない。しかしそうならなかったとしても、自分の良心への義務を果たせたという意味では満足している。
【参考にした記事】
◆毎日新聞 2022年1月24日(2022年7月25日確認)
コロナ感染巡る報道 個の死、伝えた米英/日本は「匿名志向」 | 毎日新聞
・以下、抜粋
(前略)「顕著な匿名志向は身内を失った人と悲しみや憤りの共有をできなくし…(中略)「不平等の発生を報じるのもメディアの役割。読者や視聴者を信頼し、情報を出すことで社会の差別や偏見をなくす努力をすべきだ。情報を意図的に選別し、隠しすぎると、民主主義を崩壊させることにつながりかねない」と警鐘を鳴らす。
◆タンパベイタイムズ
Florida's coronavirus deaths: a tribute to their lives
*1:福祉新聞 2017年02月03日【相模原殺傷事件】「第1に考えたのは家族の分裂回避」 やまゆり園家族会長が講演(2022年7月25日確認)https://www.fukushishimbun.co.jp/topics/15373
・「私は13人のご葬儀に顔を出させて頂いた。ご遺体はどのお顔も非常に穏やかだった。まるで障害がなかったかのような顔をして旅立たれたのを見て、ある意味、安堵した。」
・「家族会として何かを言う時は心を合わせなければならない。そのことに腐心している。」
・「事件当日、ご遺族から『氏名を公表しないで』という意見が2、3あったが、家族会でそれを取りまとめた事実はない。後に、県警から『公表しない』という話があった。 なぜ匿名になったかと言えば、まず、亡くなった人の6~7割はご遺族が兄弟姉妹だ。親御さんがご健在という人は本当に少ない。商売をしている兄弟姉妹もいて、氏名が表に出ると困るということ、報道がすさまじいことなどが背景にある。」
*2:故人についての他の記述や、本稿でやったような形で、特に死期が迫っていない時に死後の呼称に思いを巡らす人自体が極めて稀であろうこと、一人や二人でなく十数人が一斉にそうした同じ希望を持ったとは想像しづらいこと、等々。
*3:西王地 真
*4:これは私が選び取った「ダブル手帳」というペンネームへの愛着を否定するものではない。これもかけがえのないものだし、生きている間は主にこちらを大事に使いたいと思う。しかし私の総体を示すものではないし、そこにこそペンネームの価値があるとも思っている。ただ「私自身を呼ばれたと感じられる名称で死後も呼ばれたい」という観点で見れば、少なくとも "28歳の男性" よりは断然良い。