最近、下記のツイートが異常に伸びた。
宗教者やスピ系の人に「あなたが障害者なのは前世で犯した罪の報いを受けているためで、因果応報」という旨の事を言われた経験が少なからずある。
— ダブル手帳@11/24京大学祭 (@double_techou) 2019年11月1日
この言葉は攻撃性が高い割に反証不可能で、しかも信教の自由という盾があるので強すぎると思う。社会のゲームバランスを崩すので禁止カードにして欲しい
ところが、不思議なことに全然嬉しいという気持ちにならなかった。最初は何故このツイートだけ伸びたのか分からず、不気味さすら感じた。それで、バズった理由や自分の感情の正体について考えてみた。
現時点での結論としては、おそらく以下のようなことだと思う。
つまり、伸びるツイートの一つの類型として、「アホ松(これは『嘘松』にならって筆者が勝手に今命名した)」とでも言うべきものがある。まず、誰もが反感を抱くようなとびきりアホな発言をする「敵」を登場させる。これは実体験でも虚構でも構わない。ツイート後半ではこれに対して鮮やかに論破して見せてもいいし、客観的に分析するような体裁を取ってもいい。そうすると、この「敵」は人々にとって安心しておもちゃにできるフリー素材、いわば「パブリックドメインエネミー」とでも言うべき存在になる。人々はそれを使ってそれぞれの欲望を満たす。ある人は「敵」を攻撃してみせることで己の善良性を際立たせる。ある人はあまり関係のない自分語りや自説の開陳を始める。ある人はリプ欄で大喜利をやって、あわよくば自分の承認欲求を満たそうとする。これらの活動自体は別段悪いことではない。ただ問題は、その叩き台になっている「敵」の発言がとびきりアホなものなので、その上に立脚するこれらの活動も絶対に生産的なものにはなり得ないというところにある。各々が勝手に溜飲を下げることはあっても、社会に有益で新しい知見を付け加えることは一切無い。
誤解の無いように言っておくと、私の上記ツイートは創作ではなく実体験だし、ましてバズを狙って「アホ松ツイート」をしたわけでもない。しかし、こういうツイートがバズるということにもし味を占めてしまったらどうなるだろうか。誰しもが怒りを抱くような発言を無意識のうちに探し求めるようになり、もっとひどければこうした発言を創作することにさえ手を染めるだろう。こうして「嘘アホ松ツイート」を量産する機械になれば、もしかしたらアルファツイッタラーになれる可能性は上がるのかもしれない。私も強く自戒しておかなければ、いつ何時そうしたダークサイドに堕ちてもおかしくない。それがTwitterの怖さだと思う。
綺麗事かもしれないが、悪意だけを増幅させるようなバズツイートよりも、自分自身が少しでも「良さ」「面白さ」「意味」といったものを感じられるツイートを私はしていきたい。それはこのブログでも同じことだ。ブログ・Twitter開設当初に誓ったことをより具体的な形で明記しておくことで、自分への戒めとしたい。
- 人を攻撃しない。仮に人の意見や行動を批判しなければならなかったとしても、決して発言者の人格を攻撃しない。また、何のために批判を行うのか、批判することに伴って生じる責任を負うだけの覚悟が自分にあるか、常に自問する。