Mastodon

ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

場の乱雑度が一定程度以上になると逆に大丈夫になる話

 私は発達障害の中でもかなりアスペルガー傾向が強い方だと思う。また、身体障害が重いため自由に動き回ることが難しい。なので、とにかく乱雑な場を嫌い、整然とした秩序のある場を好んできた。ところが、場の乱雑さが度を超えると逆に居心地が良くなってくるような体験をここ数ヵ月でしてきた。本稿ではそれについて具体的に言語化したい。

今まで体験してきた領域

 乱雑度(1~10)という概念を導入して具体的に説明しよう。私にとって最もありがたいのは学校の授業のような場である(乱雑度1)。全ては秩序に支配されている。発言すべき人、発言すべき内容、全てが決まっている上、自分の席でじっとしていればいいから動き回る必要も無い。

 隣の席の人と授業について話し合うのが乱雑度2ぐらいだろうか。これも話すことは勉強のことに限定されているからまだ行ける。

 グループワーク(乱雑度3)。一気に難化する。話題は与えられているとはいえ、集団になる上、誰がいつ発言してどのような結論を導き出すのか、一定の自由が与えられるからだ。時折勉強と関係ない雑談も混じる。これをこなすのもアスペルガーには非常に苦しい。曖昧に笑う。

 一対一での雑談(乱雑度4)。すでにかなり苦しい。雑談とは何を話せばよいのか分からない。誰か話題を決めてくれ、苦しい。だがまだなんとかなる。「相手の話を傾聴する」というタスクに集中して単純化し、乗り切る。

 集団での雑談(乱雑度5)。かなり終わってくる。10分に一単語ぐらいしか発話できない。複雑さが完全に処理能力の限界を超えている。ひたすら曖昧な笑みを張り付けて頷きながら場が終わるまで耐え忍ぶ。

 職場の飲み会(乱雑度6)。完全に拷問となる。集団での雑談に加え、上下関係、アルコール、席の移動などの複雑なやり込み要素が頼んでも居ないのに次々と追加され、私は完全に処理落ちする。小手先の対症療法ではどうにもならない。飲み会の前後一週間は体調が悪い。五千円もらっても行きたくないのに何故か五千円取られる。謎。

乱雑度10の世界

 上記のように私は乱雑度5,6程度で厳しいので、それ以上に乱雑な場には今まで行こうともしなかった。例えば乱雑度7とか8ぐらいのゾーンには合コンとかパリピの飲み会などがあるのだろうが、想像しただけで悪寒がする。

 ところが、乱雑度10の世界というのを最近知った。これはインターネットによって集まった人間達が野外やシェアハウスなどでパーティーや飲み会を開くものである。こうした世界にひょんなことから参加したことで、まるっきり乱雑度に対する考え方が変わった。

 というのも、ここまで来ると、一切のコードが無くなるのだ。つまり、「皆で一緒に楽しそうにワイワイしていなければならない」というコードすらない。何をしても自由である。勿論騒いでもいいが、ずっと暗い顔で黙りこくって飯をかき込んでもいいし、隅っこに行ってひたすらスマホを触っていてもいいし、薬物をODしていてもいいし、かと思えばスマホから何の前触れもなくアニソンを爆音で流し始めてもいい。疲れたらどのタイミングで帰ってもいい。何をしようが否定的に受け取られることは無い。本当の自由というのはこういうものなのかと思った。つまり、つまらなさそうにする自由も奇行をする自由もあるということだ。場に混ざるも混ざらぬも会話に乗るも乗らぬも自由なのだ。

 このように考えると、私は場の乱雑度が高いほどそこに馴染めなくなるというより、乱雑度が中の上くらいの場を一番苦手にしていることが分かる。何故なら、乱雑度が中途半端に高い場と言うのは、どのように振舞えば良いか明文では何も教えてくれないにも関わらず、同時に「会話の流れを切らない」「集団に混ざる」「楽しそうにする」「時には適切な分量発言する」など難易度の高い要求をいくつも課してくるからである。いわば、病人にルールを知らないスポーツを強制的にさせるようなものだ。

 それに対し、乱雑度が10の場では、そうした隠れた要求すら存在しない。「場」は本当にただの「場」である。それが私にはとても心地良い。それを作ってくれる人達に感謝しつつ、当面はこういう「場」をホッピングして回ろうと思っている。