ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。

寺生まれのDによる浄土真宗の分析

 本記事では浄土真宗の教義に対する所感を述べる。

 私は真宗寺の生まれなので多少は浄土真宗の教義に精通しているつもりである。ただ、私の父は仕事上僧侶として振舞っていたが実際は共産主義者で宗教など信じていなかったし、私に無理に寺を継がせようともしなかった。従って私もみっちりと教義を教わったことは全く無いため、寺生まれとはいえ、大学などで体系立てて宗教を勉強している方から見たら誤りもたくさんあるかもしれない。その点はご指摘、ご批判頂ければありがたい。

浄土真宗の特徴

 日本の仏教は、つまるところどうやって浄土(天国)に行くかというアプローチの違いによって宗派が分かれている。普通は修行をすることで自力で悟りをひらき浄土に行こうとする。浄土真宗の開祖である親鸞も、元々は比叡山で修行を長年やっていたのだが、「修行しても全然悟りひらけんなあ…これ意味無いんちゃうか?」という結論に至り、浄土真宗を創始した*1。個人的にはこの居直り方は大好きで、親鸞という人物には好感を持っている。普通悟りをひらけないのは自分のせいだと思うだろうが、「意味無いやろコレ」という発想ができるのは面白い人だなと思う。ある意味クソ真面目なのかもしれない。

 そのような経緯があって、浄土真宗では修行による自力救済を否定する。とにかく阿弥陀様のみを心から信仰すること、阿弥陀様が浄土へお連れ下さると信じること。突き詰めれば教義はこれだけ。肉食妻帯OKだし、別に犯罪者でも良い。むしろ悪いことをしてきた奴の方が修行とかやって勝手に善人気取りになっている奴よりも自分のどうしようもなさを自覚してる分救われやすいと考える。

 また、浄土真宗では阿弥陀様を信じるという以外の要素を極限まで捨象している。阿弥陀様の前に万人は平等なので、男女が対等なのはもちろん、僧侶と信者という上下関係すら否定している。実際親鸞は自分のことを僧侶ではない(非僧)としている。また、手を合わせる対象の仏像も全く重視しておらず、仏像じゃなくて「南無阿弥陀仏」と書いた紙切れでも良いし、何ならそれすら無くても良い。寺というとまず思い浮かべるのがお坊さんと仏像だが、そんなもんどっちも本質的に必要無いというのだ。

浄土真宗の問題点

 ここまで読んで頂いた方は「なんて自由で平等でしがらみのない純粋な素晴らしい宗教なんだ!」と感動し、入信したくなってきたかもしれない。確かにそれも間違いではない。だが私は、浄土真宗の教えというのは一見簡単で誰にでも開かれているように見えて、実のところ最も実践が難しく突き放した考え方なのではないかと思う。信仰の理想形を取っているが故にミニマル過ぎるのだ。なぜそう思うのか、認知行動療法とゲームという二つのメタファーを使って説明したい。

 認知行動療法の考え方とは、「認知と行動は密接に結びついていて、互いに影響を与え合っている」というものである。つまり、認知によって行動が変わるだけでなく、それと同じくらい、行動の変化が認知の変化をもたらすこともあるということなのだ。この枠組みを宗教に当てはめると、ひとまず宗教によって行動の方を先に変える(例えば厳しい修行に打ち込むとか、肉を食べてはいけないという戒律を守る、など)と、自分がそこにコミットしたということが自分の信仰の確かさを裏付けることになり、結果として本当に信仰心が強まる。だからこそ古今東西多くの宗教で厳しい修行、義務、戒律などが課されてきたのである。

 翻って見るに、浄土真宗にはそういったものは何も無い。やるべきことも、やってはいけないことも、やったほうがいいことも、やらないほうがいいことも無い。強いて言えば阿弥陀様に手を合わせるのは一応やったほうが良いが、それとて信仰心が伴わなければ無価値とされている上、信仰心があっても私のように両手麻痺で手を合わせられない人は合わせなくても良いことになっている。救われるために大事なのはあくまで阿弥陀様への信仰心という心の持ち様、ただ一点なのである。しかし、行動に頼ることができない状態で、自分は阿弥陀様を信仰していると確信できる人がどれだけ居るだろうか。これはとても難しいことである。少なくとも私にはできない。ある真宗の僧侶が「いっそ修行したほうが楽なんじゃないかと思うこともある」と述べていたのが印象に残っている。

 次にゲームのメタファーを使って考える。私は宗教とはゲームに似ていると思う。ゲームクリア―とは救済が約束される事であり、そこにいかに説得力と価値を感じさせるかが勝負である。ゲームならパラメーターやプレーヤーが行うべきタスク、自機や敵の強さなどのバランスを調整する。宗教なら修行、戒律、世界観などを設定する。これは難し過ぎても簡単過ぎてもいけない。難し過ぎるとゲームは売れないし、宗教は広まらない。簡単過ぎると、ゲームならクリアーすることに意義や価値がなくなってしまうし、宗教なら救済の説得力が担保されなくなる。浄土真宗は言うならば究極のヌルゲーで、ボタンを一回押したらクリアーしてしまうゲームのようなものだ。それでゲームをクリアーしたと感じられるプレイヤーがどれだけいるだろうか。

 誤解の無いように言っておくと、浄土真宗がカルト認定されて権力から迫害されていた時代においては、それを信仰すること自体が命懸けであったから、断じてヌルゲーなどではなかっただろう。むしろ張り合いがあり過ぎるくらいだ。しかし現代では浄土真宗も既成宗教の一つとなり迫害されることは無い。そうした中で信仰の実感を得ることは容易ではないだろう。

 私が実家を継いだら

 上記のような理由で、私は浄土真宗の教義を真に実践することは現代人にとってハードルが高すぎると考える。つまり時代に合っていない。そこで、私が仮に実家を継いだら下記の施策を全て実行する。

  • 第一に西本願寺派から離脱し、全く別の流派を立ち上げる。これには二つ理由がある。第一に、西本願寺の執行部が年がら年中どうでもいい内紛に明け暮れていてしょうもないなと思ったこと。第二に、西本願寺派の僧侶になるには一~数年間を使って専用のカリキュラムを修めないといけないこと。はっきり言ってやりたくない。
  • 門徒に対して適度にタスクをアサインし、それをこなすことで満足感が得られるような教義に作り変える。ここには私の大学時代の専門だった行動経済学の知見を活かすだけでなく、心理学やゲーミフィケーションの専門家を招聘し、最先端の教義にする。
  • 現代、寺への課金導線は細くなる一方である。つまり人々が寺や葬式からどんどん離れていき、寺がお金を貰える機会が減ってきている。僧侶といえでも霞を食って生きてはいけない。そこで、課金導線を知り尽くしたソーシャルゲーム開発者を経営コンサルトとして招聘し、収入を安定させる。

 他にも色々なもの、例えばいわゆるメンヘラ文化、オタク文化サブカル要素なども合体させて現代風にしたいと思っている。

 「こういう教義は面白いんじゃないか」というアイデアは常時募集中なので、ブログやTwitterを通じてどしどしお寄せください。

*1:本当はここに法然の浄土宗なども絡むし、法然浄土真宗でも偉大な人物とされているが、あんまり詳しくないのと話の単純化のため省略。