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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

実名はまだ要らない

 前記事でインターネットを介したオフ会のような集まりをホッピングして回っていることを述べた。そこで不思議に思ったのが、同じインターネットのオフ会のような集まりと一口に言っても、ハンドルネーム文化圏の所と実名文化圏の所があるということである。

 私自身はハンドルネーム文化圏の人間ということができる。従って、職場、自宅、実家、病院等以外では全てハンドルネームで通している。ところが、インターネットのオフ会のような集まりでも殆どの人が実名(と思われる具体的苗字)を名乗る所が結構ある。そういう所で「ダブル手帳です」とやると「えっ何こいつ…」みたいな空気が一瞬漂い若干気まずい。

 ただ、自己弁護する訳ではないのだが、冷静に考えてネットで実名を名乗ることのメリットってそんなに無いと思う。このブログやTwitterをやるにあたっても、実名を使うことは全く考えなかった。何か実名で商売でもしようという人か、よっぽど実名が知れ渡っていてその知名度を活かしたい人でもない限り、ハンドルネームを使うのが普通な気がする。

 ではその人達がインターネットのオフ会で実名をわざわざ名乗り合うことの理由は何なのだろうか。一つ考えられるのは、信頼性の担保と犯罪の抑止である。確かに、仮に私が実名を名乗った上で、その集まりにおいて犯罪やそれに準ずる行為を働いた場合、他の参加者が私を罰するのはハンドルネームしか分からない状態よりも容易になるかもしれない。

 だが待って欲しい。いくつかの根拠から、この理由は明らかに誤りである。まず、私が本名を名乗るとは限らない。念を入れて、顔写真やプロフィールを外部に公開していないFacebookアカウントの名前を適当に拝借して来れば偽名でもまずばれない。これを見破るには身分証明書を確認するしかないが、今のところ提示を要求されたことは無い。従って、身元確認と犯罪の抑止を狙って実名を名乗り合っているのではない。では一体何故実名を……?

 おそらく正解は「その人達が、実名の自分こそ本当の自分だと心から感じているから。」であろう。意識的に実名を使っているのではなく、そもそも実名一本で生きることに何の不便も感じていないのだ。だからインターネットのオフ会であっても実名を名乗ることが当たり前だし、わざわざ実名とハンドルネームに自我を分裂させてその間を行き来するようなまどろっこしいことをする必要がそもそも無いのである。

 このことに気付いた時、私は虚を突かれたような気持ちと同時にある種の妬ましさを感じた。少なくとも私は私の実名の世界に満足していないし、実名の私が私の全てだと感じることもできない。だからこそ場所によって名乗りを使い分け、その場に応じた自我を構築し、仮面を被り直す。そうやってなんとか「自分」を承認してもらおうとする。この感覚は読者の中にも分かって下さる方がいると思う。けれど、そういった行為が必要ない人も世の中にはたくさんいて、私は彼らのことが少し羨ましい。

 昔、「猫物語(白)」というアニメを観た。このストーリーの視点人物たる羽川翼というキャラクターは、主人公・阿良々木暦をして「本物」と言わしめる品行方正・完全無欠の超人である。しかし「本物」であろうとするが故に、自分の中にあるストレスや嫉妬といった負の側面を別人格として切り離し、それらが怪異として実体化してしまう。それは羽川が「本物」であるためには必要な事だった。しかしながら羽川は最後の最後で、「本物」であるよりも「人物」でありたいと願い、一旦は自分から切り離した負の側面を自分のうちに一つ一つ取り戻し、人格の再統合を果たす。

 これがインターネットのメタファーであることは言うまでもないだろう。私はこのシーンを涙無しでは見られなかった。まるでインターネットの最終回のようだと思った。私も羽川のように、このブログも、Twitterの全てのアカウントも消し去り、自分のどんな部分も全てのみ込んで、いつでも胸を張って実名を名乗れる日が来るのだろうか。その時には、誰か側にいて人生の終盤戦っぽいBGMをかけてほしい。