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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。文春オンラインなどに執筆しているライターです。

「モテないということが問題の本質じゃない」への批判

西井開氏の紹介

 私は、「ぼくらの非モテ研究会(以下、『非モテ研』)」を主宰しておられる西井開さん(西井 開 (@kaikaidev) | Twitter)と仲良くさせて頂いている。非モテ研に何回かお邪魔したり、お茶をしたりした。本記事は彼の主張の一部を批判する趣旨である。

 ここで、彼が自らの団体等を通して実践してきたことに対する私なりの理解を整理しておく。団体名から分かる通り、彼は「非モテ」という多くの人に共通する悩みを入り口にして、主に男性に対してリーチしてきた。この「非モテ」という単語は人によって解釈が千差万別な多義的概念であるがゆえに、非モテ研の参加者が実際に集まってみると、実は悩みの内容・方向性・深さ・状況などは全員バラバラであることが分かる。西井氏は参加者達に巧みにそのことを提示しつつ、「非モテ」という悩みに雑に括られることで隠れていた、個々人の「生きづらさ」を引き出していく。更にはそれを、メンズリブやそれに関連するフェニズムの視点から、ジェンダーや貧困やいじめなどの社会問題に接続していく。その手つきは見事と言うほかない。

西井氏の主張

  昨年、私(ダブル手帳)と西井氏とホリィ・セン氏の3者で行った対談*1の中に、彼が自らの思想を端的に表現している場面がある。やや長くなるが引用する。

つまり何かっていうと、生きづらさの部分で言うと、メンバーのほとんどが、いじめられてるとか、からかわれてるとかっていう体験が根底にあった。

だから、僕は、モテないということが問題の本質じゃない、非モテの問題の核心はモテないことじゃなくて、むしろ抑圧されてることこそが問題なんだ、というのはずっと思ってるんです。

そのからかいっていうものの内容は、背が低いとか恋人がいないとか運動神経がないとか、いわゆる男らしくないっていうことを元にしたからかいなんですね。

全部それで否定されてて、否定されてる方は「自分が男らしくないから駄目なんだ」というふうに思って自己否定を進めていくところがあるので、「男らしさ」をめぐる社会問題なんだ、っていうのが見えてきた。

 西井氏の主張に対する批判

 先に断っておくが、私は「非モテ」という悩みと、「男らしさ」というジェンダーロールによる抑圧という社会問題が無関係だなどというつもりは全く無い。それどころか密接な関係があると思う。従って、私がここで特に批判したいのは太字下線部分だ。というのも、他者の悩みに対して「それは本質ではなくて、核心はこっち」と別の問題を提示するのは、暴力性をはらむ行為だと思うようになったからである。

 ここで一度一般論に立ち返って確認をしておきたい。やや抽象的な議論になるがご容赦願いたい。

 「Aという行為をしたい欲望があるのにそれができなくてつらい」という人に、「いや、あなたがしたいのは本当はAではなくA'なんですよ」と提示すること。あるいは、「Bという状態であることがつらい」という人に、「いや、あなたの辛さはBではなくB'に起因するものなんですよ」と提示すること。リフレーミングとかパラフレーズという表現が適切かどうかは分からないが、問題を別な角度から設定し直す、あるいは別の文脈に移し替える、そういう類の行為である。このリフレーミングが持つ特性のうち、重要な注意点は3つある。

 この3つの点について、私の欲望や悩みを例にして次段落以降で考えていきたい。私は「面白くてためになる良い文章を書き、それを多くの人に読んで欲しい」という欲望を持っている。また、それが達成されない状態にあると、つまり「文章を書き進めることができない」とか「書いた文章を多くの人に読んでもらうことができない」時はそのことで悩みを抱える。

1.反証不可能性

 1つ目は、言われた側は容易に反証できないこと。私が人から「あなたは別に良い文章を読んで欲しいのではなくて、多くの人に承認され、自己顕示欲を満たしたいだけだ。その目的のためなら手段はどうでもいいのだ。あなたの承認欲求や自己顕示欲が過剰なのは、幼少期に虐待されて育ったため親から十分な愛情を受けられなかった反動だ。つまりあなたの本質的な欲望は親に愛される事だったんだ」「あなたが文章を書けないのが問題ではない。何かできなければいけない、という強迫観念を内在化していることが真の問題だ。つまり核心は社会に蔓延る能力主義だ」「あなたが多くの人に読まれる文章を書けなかったことが問題の本質ではない。あなたが扱ったテーマへの関心が低すぎるこの社会に問題がある」というようなことをマシンガンのごとく言われたとする。物凄く不快にはなるが、これらの説明にも一片の合理性があるのも間違いない。少なくとも、完全な誤りであると否定することは全くできない。こうしてみると、いかにこじつけじみたリフレーミングをされても、「そうではない」と反証しきることは難しいことが分かるだろう。だからこそ、リフレーミングは適切に用いられるべきであり、濫用されてはならない。「まあそう言われればそうかもな。でもそう言われても困る。私はやっぱり面白くてためになる良い文章を書き、それを多くの人に読んで欲しい。」という感じで、互いに不快になるだけで何の実りもないまま元の地点に戻ってきてしまうだけだからだ。

2.社会的要請

 2つ目は、AやA'、BやB'に代入されるべきものとそうでないものは、多分に「社会的な望ましさ」の要請によって区別されるのだということ。私の例を読んで、「『良い文章を書いて多くの読者に届けたい』という、『モテたい』とは全然質が違う欲望を持って来て極論を展開している」という印象を持たれた方も多いだろう。だが私は別に前者の欲望が後者よりも質が高くて高次だとは全然思わない。では、なぜ前者をリフレーミングするのは適当ではなく、後者をリフレーミングすることは許されるのか。それは、前者の欲望よりも後者の方が相対的に社会規範に適合的でなく、社会の利益にもならないと見なされているからだろう。具体的に言えば、「良い文章が増えることや、それが多くの人に共有されることは社会全体の利益になるが、恋愛や性的な魅力を高めて1人がより多くの人から好意を持たれようになることは、社会全体でみればゼロサムどころかマイナスサムにすらなる」とか、「多くの人に『モテたい』ということ自体が、女性を一人一人の人間として見ずにモノを数えるように扱っており、女性蔑視につながる。」といった言説が考えられる。これらは概ね正しいだろう。ただ、「前者へのリフレーミングは非本質的で後者へのリフレーミングは本質的だから」という理由ではなく、社会的要請によって生まれた差異であることは頭に入れておきたい。

3.本質を定義するのは誰か

 3つ目は、AとA'あるいはBとB'を比較してどちらが本質的なのかを判断して良いのは、悩みを抱えている本人ただ1人であるということ。例えば、犯罪や事故に遭った被害者は、そのことから受けた傷に苦しみ、「あのことがなければ」と思ったり、時には加害者に対して強い憎しみや処罰感情を抱くこともあるだろう。一方で、社会を俯瞰的に見る社会学者などは、「そういった犯罪・事故は確率的に発生するものであり、むしろ個別事例よりもそれらを生み出す社会構造に目を向けるべきだ」と捉えるかもしれない。これは全く正しいと思うが、だからといってその見解を「より本質的なもの」として被害者に直接提示することには反対である。何故なら、その被害者にとっては自分が受けた苦しみや加害者への憎しみこそがリアルで本質的なものだからだ。もちろん、時間が経つにつれて「社会構造に本質がある」と感じるようになる被害者もいるだろうし、それによっていくらか救われる場合もあるかもしれない。しかし、何が本質かを決めるのは悩める本人であって、決して他者が規定すべきものでないのは確かだ。

一番極端な例

  最後に一番極端な例、つまり西井氏の思考の流れを逆に遡行する人について考えてみたい。つまり、「今まで自分は男の生きづらさ・ジェンダー規範や、それを生み出す社会の諸問題に関心があると思ってきたが、実はそうではなくて単純に『モテたい』だけだと気づきました。その欲望から目をそらすために社会問題に関心があると思い込もうとしてきましたが、これからは素直にモテテクニックや恋愛工学を学んでいきます!」という人だ。当然、許容され得ない考え方としてリフレーミングされることになるが、その時の理由として「あなたは本質を見失い、核心から遠ざかった。」という言い方をしてはいけない。「あなたの欲望は社会的・倫理的に望ましくない方向に行ってしまっている。」という言い方が最も誠実だと思う。

結論

 他者の欲望や悩みは無限にリフレーミングできるからこそ、そのやり方には必ず解釈者の恣意や社会規範が入り込む。それを認識し、リフレーミングは権力や暴力の行使と表裏一体であることに注意した上で行うべきだ。

 

※3月10日追記:下段のコメント欄に、西井さんから直接応答をいただきました。それに対する私の応答もコメント欄に記述しております。コメント欄も是非合わせてご覧いただければ幸いです。

  • 西井 開 (id:pagonasofa)

    ご批判をいただきありがとうございます。丁寧な分析に感謝します。
    以下、応答しますが、ダブル手帳さんの批判の骨子である「他者の苦悩や欲望を別のものにリフレーミングして提示することの暴力性」について、少し整理して考えます。

    結論から言ってしまえば、私の発言の問題点はリフレーミングすることや、それを提示することではなくて、リフレーミングを"断定形"で提示しているところにあるのではないでしょうか。

    まず、「リフレーミング」について。
    例えば当事者研究において、悩みがどのようなメカニズムで生じているかを検討する際、悩みを生み出す回路について多くの可能性を考慮しながら考察する姿勢が必要になります。
    一つの説明だけにこだわっていると、そこから抜け出せなくなるということは、当事者たちが築いてきた知見です。
    当然、「この問題の本質は違うところにあるかもしれない」という問いを持っておくことも重要になるでしょう。リフレーミング的思考自体は否定されるものではないと思います。

    では、「リフレーミングを提示する」のはどうか。
    まず前提として、私はこの対談の中で、実際に苦悩や欲望を語る人を目の前にして、リフレーミングを用いた提示を行っているということは一言も言っていません。
    実際、指摘のあった傍線部分のあとに、「というのはずっと思ってるんです。」と発言しています。
    言い訳がましくうつるかもしれませんが、「目の前で提示する」ということと、私が頭の中で「思っている」ということの間には大きな隔たりがあります。
    上記を踏まえれば、「思っている」ことはむしろ当事者研究において重要でさえある。

    ただ、直接的なコミュニケーションで言わなかったとしても、あの対談で話してしまった時点で、それは「提示」なのではないかとも思えます。
    そこで、便宜上、公の場でリフレーミングを提示することを「言及」と言い換えて、検討します。

    私はあの場でリフレーミングについて言及することで、「非モテ」の問題の原因を社会の方に帰属させています。
    もし、言及そのものをしてはいけないということになれば、実は別のところに問題点があるかもしれないのに、その可能性を掬いそこねてしまうことになる。
    言及(=提示)することにも十分な意義があると思います。

    だとすれば、先に書いたように、私の発言の問題はリフレーミング的解釈の言い切りをしているところにあると考えます。
    多くの解釈可能性がある中で、まるでそれだけが真実のように思考することは、それこそオルタナティブな可能性を掬いそこねることになる。
    断定的に言及することで、当事者の思いを無視することにもなる。私自身、この断定はかなり暴力的で問題だと感じました。
    (※補足すると、時にその暴力性を引き受けてでも、リフレーミングによる断定的解釈を使用することは、心理の専門家などは行うときがあるかもしれません。)
    ダブル手帳さんが最後に主張されているように、「モテないということが問題の本質じゃない」と言うとき、十分に注意を払う必要があると戒めたいと思います。

     
  •  id:double-techou

    >西井さん
     コメントありがとうございます。
     仰る通りで、「当事者に対してずっと言い続けている」のであればかなり問題ですが、西井さんのご発言は「思っている」というだけであるので、決して押し付けているわけではないのだ、ということに気付かされました。
     もう一つ、西井さんが自戒されているように「公の場で断言することに問題があった」かどうかですが、私はこれについても大きな問題であるとは感じられませんでした。というのも、全てのことを厳密に正確に表現しようとすれば無限に留保を付け続けないといけないということになりますが、それでは何も喋れなくなってしまい現実的ではありません。私もライターとして限られた紙幅の中でどうしても言い切りをしないといけないこともあります。まして、西井さんのご発言はリアルタイムな対談の中で行われたものであり、そこにあまりに細かい疑義を付けることは揚げ足取りに近くなり、生産的な指摘ではありませんし、私の本意でもありません。

     まとめると、私が主張した「リフレーミングの孕む危険性」自体については誤りではなく、私も含め皆が注意すべきだと思います。しかし、実際の西井さんの言動を冷静に見直すと、私が例示したような極端な暴力性を孕むものではありませんでした。結果として、私の主張の中で批判対象となっているような言説の範囲から外れている西井さんの発言に対してまで議論を適用したことで、意図せず揚げ足取りのようになってしまったと思います。その点については完全に私の誤りであり、お詫び申し上げます。

    本記事の本文はあえてそのまま残しておきますが、末尾に「コメント欄で議論を行った」旨の注記を付す形にさせて頂きたく存じます。

    対談を快諾いただいたことや、批判への真摯な応答をいただきに対して、深く感謝申し上げます。ありがとうございました。