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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

無趣味人間とアイデンティティ

 皆さんには趣味がありますか。私にはない。

 強いて言うなら読書、アニメ鑑賞、ネットサーフィンをよくやっているが、本当に好きなのかと言われると自信がない。他にやることが無いから惰性でやっているだけのような気がする。同人誌を出したりプログラミングをしたりして何かを生み出すわけでもなく、ただ漫然とコンテンツを消費するだけだ。こんな受動的な行動を趣味と呼べるかは疑わしい。自分は無趣味人間である。

 趣味というのは表向き「心から自分がやりたいこと」ということになっているが故に、趣味に自分のアイデンティティを仮託する人は多い。趣味を持つに至る経緯は二種類あると思う。

・「一目惚れのように熱中してしまい導かれるようにハマっていった」「やりたいことが常に一貫しており、それが趣味となっている」というタイプ

 こういう人達は本当に羨ましい。自己暗示ではない形でこういう心境に至れるとしたら、素晴らしいことだ。世の中に大きな足跡を残すのはこういう人達だろう。このような形での趣味は狙って獲得できるものではなく、非常に貴重な才能と言える。

 問題は下のようなタイプである。過去の私も含め大半はこれではないだろうか。

・アイデンティティを補強するために大してやりたくもないことを「趣味」としてやっているタイプ

 無趣味でいるとアイデンティティの不安に苛まれるので、自分に一貫性を持たせ、何者かになるために趣味をやっている人達である。この人達は行為そのものよりもそれをしている自分が好きなのだ。私の場合は「ロシア好き」として振舞おうとして第二外国語をロシア語にしたりマトリョーシカを買ったりロシア民話を集めたりということをやっていた。もちろん、そのうちに本当にその行為が好きになってくる場合もないわけではない。しかし少なくとも最初の段階ではやりたくもないことを好きでやっているように見せかけることになる。従って「趣味」を「作ろう」とする行為は自意識過剰で不純であると言える*1

 

花見に行って落語をひやかした疑似記憶

 数年前の春に姉と電話していた時、落語の寄席がアクセス圏内にあるという話をしたところ「花見に行って落語をひやかす、こんなに粋なことはない。最高に文化的な行動様式だ」という答えが返ってきた。それを聞いて私はにわかに寄席に行きたくてたまらなくなってきた。絶対に花見に行って落語をひやかすぞという気持ちになった。

 ところが私の自制心が待ったを掛けた。そもそも私はそんなに落語に興味があっただろうか?落語の音源は図書館などに行けば無料で大量に聴くことができる。それなのに今までそれをしてこなかったということは、私は落語にこれっぽっちも興味が無いのではないか?私がやろうとしているのは美しい行動様式を取る自分に自己陶酔することではないのか?そんなことのために数千円の出費をする価値があるのか?

 延々悩んだ挙句、私は最もスマートな解決策を思いついた。手順をすっ飛ばして結果だけ手にすることにしたのだ。つまり、実際には落語にも花見にも行かず、家族や友人には「花見に行って落語をひやかした」と報告する。日記にも「花見に行って落語をひやかした」と書く。こうして実際に私は「花見に行って落語をひやかした」ことになり、粋な文化人としての地位を手にしたのである。

 この場合欠けているのは「本当に行った」という私の記憶のみだが、そんなものは重要ではない。行ったとしてもすぐ忘れただろうし、行かなかったという記憶もしばらくすれば曖昧になって、自分の中でも本当に行ったことになるかもしれない。そもそも、必要なのは行為のガワであって記憶ではない。

 

結論:無趣味で不安な人は、高尚なことをやっていると周りに言いつつ、実際は家でゴロゴロしているのが最も良い。

*1:そう考えると、無趣味というのは一見没個性的だが、アイデンティティや自意識の問題に囚われずその時その時の欲望に忠実に動いている点で最も「その人らしい」と言えるかもしれない。