ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。

「障害者が住みやすい社会は皆が住みやすい社会」は本当か

 障害者福祉や合理的配慮を推進する際の根拠として「障害者が住みやすい社会は皆が住みやすい社会」ということがよく言われる。しかし、これは本当だろうか。また、仮にそうでないとすれば障害者が住みやすい社会を作ることの根拠はどこに求めればよいのか。本稿ではこれらの問いについて身体障害者としての立場から考察していく。

 

 とはいえ、障害者が生活するため、または生活しやすくするための法制度、手助け、商品デザインなどは極めて多岐にわたる。そこで、ここでは私の一日の生活の中で障害者として便益を受けている物事を列挙し、それらが健常者にとっても便益をもたらすものなのか、あるいは健常者の利害と競合するものなのかについて考えていきたい。

・一日三回居宅介護サービスを受け、更衣、入浴、家事をお願いする。

 これにはだいたい一カ月あたり50~60万円の費用がかかるが、自己負担は1万円未満なのでその差額は税金投入である。従って、私をもっと効率よく介護できる障害者施設のようなところで集団生活させれば、税金の節約になり、浮いたお金でもっと「皆が住みやすい社会」を作れるという考え方は当然ありうる。従って健常者の利害とは競合しそうである。

・電動車いす等の福祉用具の購入。

 これも基本的に公費負担が大部分なので上に同じ。

・駅員による電車への乗車介助。

 これも鉄道労働者にとってみればその間他の業務を中断して特別なオペレーションをしなければいけないのであるから、労働負荷を高める行為であり、できればしたくないだろう。

・雨天時における職場の同僚による合羽の着脱介助、その他仕事中のちょっとした手助け

  これも電車の項と同じで、できればしたくないだろう。

 

 このように考えていくと、功利主義的な考え方に基づけば障害者への援助を強制することはとてもできないことが分かる。では障害者福祉や合理的配慮を正当化する根拠として、他にどのようなものがあるだろうか。

・ロールズの正議論

 ロールズの正義論を雑にまとめると「社会制度を決める時、仮に全ての人が自分の持つ属性を一切わからないとすると、皆最悪の事態は避けたがるので、不幸な人が極力出ないように配慮するだろう」というものである。うまく説明できない上に間違っているかもしれないので、詳しくはジョン・ロールズ - Wikipedia

を参照して欲しい。とにかくこの考え方に従えば皆障害者に配慮するようになるのだ。しかし私は二つの理由からこの考え方は無効だと思う。まず一つ目は、「全ての人が自分の持つ属性を一切わからない」という仮定が非現実的過ぎる点。実際の我々は自らの属性や利害と強く結びついており、そこから離れて思考することは難しい。二つ目は、「仮に全ての人が自分の持つ属性を一切わからない」としても、何故「皆最悪の事態は避けたがる」と言えるのか分からないからである。中にはギャンブラーみたいな人がいて、「格差がクソでかいとしても、物凄く良い思いをできる可能性が少しでもあるなら、そちらの方が良い社会だ」という人もいるかもしれない。何故「無知のヴェール」を被ったら皆リスク回避的になるという前提なのかが分からない。

・健常者もいつ障害者になるか分からないのだから障害者の立場に立って物事を考えるべきだ

 これも良く使われる論法だが、二点問題がある。

 まず一点目として、皆自分のことで精一杯でそんな余裕はないということ。例えば、私は将来大金持ちになる可能性も無くはないが、だからと言って大金持ちの立場に立ってその気持ちを考えたりしたことはない。またその必要性も感じない。もっと言えば、障害者の私ですら他の障害種別の人々(視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者等)の立場や気持ちを思いやることは稀である。自分が発達障害者と分かるまで発達障害者の立場など殆ど考えたこともなかった。日々の生活で一杯一杯で、それどころではないのだ。

 二点目として、障害者の立場に立って物事を考えなかったからといって、障害者になった時に福祉を受ける権利を剥奪されるわけではないということである。障害者へのヘイトを撒き散らしていた人も、自分が障害者になったらそんなことはケロッと忘れて福祉を受けるだけのことだろう。

・障害者が路頭に迷えば一部は暴徒化して治安が悪化し、社会不安を招き、ひいては健常者にも損害をもたらす。

 これは障害者政策のみならず社会保障全般の根拠としてよく用いられる主張である。確かに一理ある。だが、暴徒化した際の脅威という点でいえば、障害者、特に重度身体障害者の力は非常に小さいといえる。私など三歳の子供と殴り合いをしても負けるだろう。従って、もし暴徒化した際の脅威で社会保障の手厚さを決めるのであれば、確実に障害者は後回しになるだろう。

 

 以上、いくつかの立場を検討をした結果、障害者福祉や合理的配慮を推進する際に「障害者が住みやすい社会は皆が住みやすい社会」を根拠にするのは難しいことが分かった。確かにこのスローガンは、一方的に権利を主張するよりも印象が良く、健常者の協力を取り付けやすいというメリットはある。だから方便として使うのは良いのだが、障害者福祉の論理的支柱にするのは極めて危険である。何故なら、「皆が住みやすい社会」を作るために障害者の権利を制限することが仮に有効であれば、それはどんどんやるべきだという結論を導きかねないからである。その行き着く先は相模原障害者施設殺傷事件のようなジェノサイドだろう。

 

結論:結局、人権を根拠に押すしかない。

 長々と書いてしまったが、これが結論である。どれだけ手垢にまみれていようが、面白みが無かろうが、人権しか根拠になり得るものはない。