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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

ダブル手帳 × ホリィ・セン × 西井開 対談内容全文

トークテーマ「神×サークラ×非モテ 当事者研究はどこへゆく」

11月24日(日)10:00~11:30 於:京都大学文学部新棟第1演習室

 

D:ダブル手帳(神様同好会)

N:西井開(ぼくらの非モテ研究会)

H:ホリィ・セン(サークルクラッシュ同好会)

Y:雪原まりも(司会者)

 

D 私、ダブル手帳という名前でツイッターとか、ブログをやってるライターです。

文春オンライン様にも時々書かせていただいてるので、お名前を知っていただいてる方がいらっしゃるかもしれないです。

神様同好会をなぜ作ったかっていうことは、この配布資料(※本稿末尾に記載)の「教団の目的」っていうところに書いてあります。

自分もそうだし周りも自己肯定っていうのができてないっていうことがあって、自己の生を肯定できるようになるにはどういう風にしたら良いか考えるようになりました。

いろんなアプローチがあると思うんですけども、私は宗教っていうアプローチを取った、っていうことです。

生きやすい社会をつくること、という目的ももう一つあるんですけれども。

ただ、実際3回程集会開いて、4回目が127日に大阪で、5回目は福岡でやるんですけれども、結局いざやってみると、あんまりその宗教的行為をやるような雰囲気にはならなくて、結局当事者研究で99%の活動時間が終わるっていう感じで、もう宗教団体って言いながら、宗教色っていうのはなし崩し的にかなり薄まっていったので、今日は当事者研究という文脈の中でお話できればいいなと思っております。

1222日を最後に休止するっていうのは、体力気力の限界を超えたということで、もう本当に自分の都合なんですけれども、お力を貸してくれた人々に対しては本当に申し訳ないです。

何が良くなかったかっていうことは私のブログに書いております*1ので、そちらの方を参照していただければありがたいかなと思ってます。ですから、逆に、今日は努めて、良かった点とか、宗教ってこういう可能性があるよね、自分はうまくいかなかったけれども、ここはちょっとこういうふうにやったらもしかしたらうまくいくかもしれない、っていうようなポジティブな面にあえて焦点を当ててお話したいです。

その方が面白いかなと思うので、そういうふうにします。

よろしくお願いします。

 

N 西井といいます。

「ぼくらの非モテ研究会」というグループをやっています。

今、立命館の大学院生の博士課程で研究をしたり、心理カウンセラーもやっています。

で、ぼくらの非モテ研究会は略して「非モテ研」って呼んでますが、だいたい2年ぐらい前からやっています。どういう経緯でやってるかというと、僕はもともと男性の問題に関心があって、いわゆるメンズリブっていう、男性の生きづらさであったりとか男性の抑圧性とかを考えるグループに関心を持ち始めました。以前は男性の問題について複数の男性で集まりディスカッションするグループをしてたんですけど、どうしても男性たちが自分の内面性みたいなことをそんなに語らないな、っていうことに、運動やってるうちに気づいてきました。

もうちょっと語れる媒介みたいなものがないのかなと考えたときに、ネット内では「非モテ」というワードでみんな自分のしんどさをいろいろ語ってるので、この言葉を媒介にしたら、いろいろでてくるんじゃないかみたいなことを考えたというのが一つ。

あとは僕自身もだいぶ、非モテを、モテないっていう悩みをだいぶこじらせてきたし、今もややこじらせてるんですけど、そういうことを仲間たちと一緒に考えられないか、みたいなことを思い立って作りました。

活動内容としては基本的に当事者研究をやっていて、「非モテ」に関連することをテーマに挙げながら、そのテーマをもとに自分の語りっていうのをどんどん出していく。そこで皆の中の共通性がでてきたりするので、この生きづらさと、また後で話しますけど、加害性などがどう生まれてきてるのか、そのメカニズムを皆で追求していくというようなことをしています。

そればっかりでもしんどいので、時々山に登りに行って遊んだりとか短歌をみんなで詠んだりとかそういったことをするグループをやってます。

よろしくお願いします。

 

H ホリィ・センです。

僕も京大で大学院生やってて、社会学やってます。

サークルクラッシュ同好会を七年前に設立して、最初はネタでやってたんですけど、名前の通り他のサークルをクラッシュする、だとか。

「サークルクラッシュをするサークル」って自分はじゃあどうなるんだ、とかそういうネタ性を志向していました。

目立ちたがりなんで、そういうサークルを作ったのが元々なんですけど、実際やってみると、サークルクラッシュっていう概念が実はかなり深いんですよね。

インターネット上で2005年にその言葉ができたんですけど、それが意外と深い。

サークルクラッシュって要するに、恋愛に慣れてない男性ばっかりの集団に女性が入ってきて、その女性に男性が群がっちゃって、三角関係ないし四角関係みたいになって人間関係が(壊れる)。

男女逆とか同性愛でも大丈夫なんですけど、そういうのが「サークルクラッシュ」と名付けられて、2005年ぐらいにそれこそ非モテについての議論がインターネット上で盛り上がってたんですよ。

だからそこで女性に非モテの男性が引っかかる存在として「サークルクラッシャー」っていう言葉ができた。

それ自体がそもそも女性差別的な言い回しなんじゃないか、という批判とかもあって議論が2005年ぐらいに盛り上がって。

そのログみたいなのを見つけて、こんなに盛り上がった言葉なんだ、っていうことを僕が再発見した感じです。

サークルクラッシュって言うたら、人間関係トラブルですよね。

その言葉を通じて、ピンと来た人が結構集まってきた。

新歓活動とかやってたら、人間関係に悩みを抱える人、コンプレックスを抱える人とかが集まる。

そういう人がいっぱいいるんだったら、なんか普通にそういう問題について話し合う会やった方がいいよな、と思ったんですね。

僕自身コミュニケーションとか恋愛とかで何かうまくいかない、なんていうのは、もう結構常日頃感じてるところなんで、そこをどうしたらうまくいくかっていうところを最初は考えましたね。

だから、その場ではもうちょっと喋りやすいように、ちゃんと喋るターンを作るとかいろんな工夫をしてたんですけど、最終的にやっぱ当事者研究に行き着いたんですよね。

友達が当事者研究というのを当時2014年ぐらいにやってたんです。

当事者研究っていうのはテーマを決めて、そのテーマについて話し合う。そして自分がどうなのかっていうことを研究する。

他人と自分とはやっぱ違う経験を持っているので、じゃあ何で違うんだろう、みたいなことを考えるうちに、自分はどういうふうに考えているのかを知る、っていうのが当事者研究だと思ってるんですけど。これはサークルクラッシュ同好会で全然できるな、と。

主にサークルクラッシュ同好会は恋愛とかジェンダーとかそういうふうなことが結構話題になりやすいとは思うんですけど、そういうところを起点にして、当事者研究を今までやってきましたね。

だから、最初はネタだったですけども、途中からかなり真面目な活動をやり始めて、名前のイメージと実態はだいぶ乖離してるんです。

乖離し始めてから、乖離してるっていうことを逆に武器にしよう、と後付け的に思い始めて、サークルクラッシュ同好会という、名前のインパクトで引きつけつつ、実は中身では真面目なことやってる、っていうのを最近のここ数年は売りにしてますね。

 

Y そうですね。

テーマの当事者研究というところに持って行きたいと思うので、もうちょっと具体的に「当事者研究でどういうことをしていたのか」っていうところからトークを盛り上げて行こうかなと思っております。

順番でもツッコミ合ってもいいので、具体的な「どういう実践をしていったのか」というところに焦点を当てていこうかなと思っています。

 

N 今日のテーマが気になってたんですけど、「当事者研究はどこへゆく」っていうのは、何か指向性があるイメージなんですか。

ダブル手帳さんがテーマをつけられたんですね。

 

D いや、まりもさんですね。

 

Y ちょっとこれ半分結論の先取りみたいなところもあるんですけど、問題意識としては、当事者研究って、アルコール依存症とか、発達障害であったりとかっていう、生きづらさっていうか病理的な部分まで含めた中で生まれてきたアプローチだったと思うんですよね。

その中で、最初はそのもう具体的な病理があって、当事者研究というものがあったと思うんですけれども、「自分はこの病気にかかっている」っていうわけじゃない、漠然とした悩みとかに対してもっと広く横にアプローチをしていくにはどうしたらいいかと思った時に、非モテとかサークルクラッシュとか神様みたいなものは横への広がりがあるんじゃないか、というところを最終的に問題意識として持ちたいなと思っていた。

なので、指向性というか、もっと広がりを作るにはどういうアプローチができるのか、という意味を込めてタイトルを付けました。

 

N なるほど。

この前ホリィさんと、「関西の当事者研究グループは結構社会モデル的な側面が強いんじゃないか」みたいな話をしてました。

 

H そうですね。

僕は社会学専攻なんですけど社会学も結構そういうところがあって、関西の、特に大阪の社会学やってる人ってかなり、言わば当事者性が強いというか、社会問題をどうにかしようっていう志向性が強い人が多い気がしています。

当事者研究も、「なるにわ」という団体がやっている「づら研(生きづらさの研究)」の当事者研究に行ったことがある人に話を聞くと、なんか僕のイメージだと当事者研究って結構内面を掘り下げていくみたいな側面を持つことになりがちなんですけど、そこの苦しさには例えば貧困だとかそういう社会問題、あるいはジェンダー、そういった社会的なイメージ・規範みたいなものに影響されて苦しくなっている、という話に繋げられることが結構多いらしいです。

それはなるほどって感じだったんですけど。

 

N 確かに。

もともと当事者研究は北海道の浦河町にあるベてるの家で始まったんですけど、べてるの家は統合失調症の人がメインで最初は行って、幻聴とどう付き合うかや、自分の身体とどう折り合いをつけていくか、みたいなところからスタートしてるので、身体レベルで当事者研究が進んできたみたいな歴史があると思っています。。

その後、そうして蓄積された知見を社会に発信することで社会と接続していくことを目指している。東京大学の熊谷晋一郎さんや綾屋紗月さんが中心になってやってる当事者研究も発達障害がメインであって、感覚過敏やこだわりのメカニズムなど、身体の話が前景化しているイメージがあります。

一方で、サークラや、づら研、非モテ研などは、社会の方を問題視していくみたいなところはちょっと強いかもしれないですね。

 

Y 社会の問題っていうと、単純に自分の中身だけでなくもっと外側に問題意識を広げていくっていう時に、当事者研究ではどういう仕掛けがあり得ると思いますかね。

 

H ダブル手帳さんは、神様同好会ではどういうテーマでやってたんですか。

 

D テーマをどういうふうに決めてるかっていうと、この「教義」っていうものを決めた時は、これを別に当事者研究の材料にしようと思って決めたわけではなくて、こういうことを内面化できてこれを実践できたら生きやすくなるだろうということ、こういうことをやったら良いだろうと純粋に自分が思えることをどんどん書き出していったので、当事者研究向けに作ったわけではないんですけれども、実際に今まで3回やったときに、全てこの教義であったり、この教団や宗教に関連するテーマを抽出していくっていうことをしたんですね。

具体的に言うと、一番最初にやった時は、「自分の弱さを自覚する」っていうのが10番の教義であると思いますが、じゃあ「弱さ」っていうのは何だっていうことについて話したのが第1回目でした。

2回目は、「自分を大切にする」っていう5番の教義があって、「自分を大切にするってどういうことなのか」ということをやった。

3回目は、「宗教はすごく良いものだ」っていうのであれば、既存の宗教っていっぱいあるので、そこに入って、そこで生きやすくなって、となるはずなのに、僕も含めてなぜ我々はそうなってなくて、自分達で作っているのだろうか。

そこに感じている抵抗感の根っこみたいなとこには何があるのかな、っていう感じで第3回はやりました。

これで一つ良かったなと思うのは、3回とも結果的にこの教義や宗教っていうことの絡みからテーマを設定できるので、僕が個人的に好きなこととか話したいことをその横繋ぎで、横串を通せたというか。

例えば発達障害とかジェンダーとか、どうしても問題意識って縦割りになりがちだと思うんですけれども、非モテ研さんとサークラさんもそうですし、宗教という仕掛けで、要するにいろんな生きづらさを雑多にいろいろ扱うことができて、実際にこのテーマに関わらず色んな語りを聞くことができたんですね。

それは外形的にはすごく軽い悩みなんじゃないかと思えるものがあれば、めちゃくちゃ重いものもあったりとかして、そういうものが並列に出てくるっていうのはすごい良かったなというふうに思いました。

 

N 神様同好会に一回行かせてもらったんですけども、ちょっと哲学カフェっぽいですね。

 

D 当事者研究よりも哲学カフェっぽいということですか。

 

N いや、線引きが難しいんですけど。

非モテ研も当事者研究をやってるけれども、いわゆるコンシャスネスレイジングっぽい側面があったり、セルフヘルプグループっぽい側面もあったりするので、境界が難しいなという感じがしています。

 

D 今の話で面白いなと思ったのが、関西の当事者研究っていうのが、社会運動的な側面を持ってるっていうのはそれはそれですごい大事なことだと思うんですが、熊谷晋一郎さんの名前がさっき出てましたが、例えば障害者運動みたいなそういう強いイデオロギーなり、「社会変革していくぞ」っていうような社会的なモデルからはこぼれ落ちるようなところの悩みも共有しながらやっていく、っていうところに当事者研究の可能性みたいなものがもともとあったのではないかなと思っていて。

もちろんその社会運動を提起していく、コンシャスネスレイジング、関心を喚起していくっていうことも大事だと思いますが、どっちかというとそれは社会運動の方に入るのかなという感じはしています。

ウチの場合は話し合った後に結論を出すっていうことはあんまりしなくて。

「それぞれいろんな考えがあるんだねえ」みたいな感じで、なんか終わっちゃうっていうのが、良さでもあり悪さでもある。

なので、コンシャスネスレイジングをしようっていうことは一切考えてなかった。

 

H べてるの家も「社会運動ではない」っていうことを言ってるんですよね。なんかそういうミーティングが大事、みたいな発想ですよね。

運動になってるかどうかっていうのは確かに面白くて、僕はちょっと話したい話です。その話で、僕はフェミニズムのことをやっぱり考えるんですよね。

コンシャスネスレイジングって言ったら、70年代の既存の男女の構造みたいなものがやっぱりおかしい、っていうところから始まっていると。

だから、そこには社会運動という側面もあるんだけど、でも一方でやっぱり自分の経験みたいな、一人一人が話して引き出していこうという、語れるようになろうという、そういう側面も持ってるんで、だからすごく社会的な側面と個人的な側面が両方あるとしか言いようがないんですけど、やっぱそこって何か、どっちが欠けてもあんまり上手くいかないな、と結構最近特に感じる。

 

N そうですね。

個人のことをやりきった先に、多分社会のことを考えざるを得ないという気付きがコンシャスネスレイジングにはあって、個人の語りをそれぞれが出していったら「あれっ、結構普遍やんけ」「個別の問題じゃないな」というのがわかってきた。

そこからセクハラなどのジェンダーをめぐる社会問題を可視化させていったみたいなところはあるんです。

そうした流れは非モテ研もだいぶ近いものがあって、非モテ研も最初は自分の内面のしんどさを男性たちが語り合うみたいなことを焦点化してやってたんだけれども、やっぱり共通して見えてくるものってあるんですよね。

つまり何かっていうと、生きづらさの部分で言うと、メンバーのほとんどが、いじめられてるとか、からかわれてるとかっていう体験が根底にあった。

だから、僕は、モテないということが問題の本質じゃない、非モテの問題の核心はモテないことじゃなくて、むしろ抑圧されてることこそが問題なんだ、というのはずっと思ってるんです。

そのからかいっていうものの内容は、背が低いとか恋人がいないとか運動神経がないとか、いわゆる男らしくないっていうことを元にしたからかいなんですね。

全部それで否定されてて、否定されてる方は「自分が男らしくないから駄目なんだ」というふうに思って自己否定を進めていくところがあるので、「男らしさ」をめぐる社会問題なんだ、っていうのが見えてきた。

その点でちょっとコンシャスネスレイジングっぽいところがあるなっていう。

 

D ありがとうございます。

僕らの団体も、もうちょっとずっと続けていって、問題意識を煮詰めていったときに、もちろんそういったいろんな既存の社会的な問題と接続するっていうこともありえたと思います。

社会的な視点ということで言えば、僕が実際に宗教団体というものをやってみて初めて感じたのは、思った以上に、宗教をやってる人は忌避される、偏見を持たれているんだなということ。

そう思ったきっかけはちょっとブログにも書いたんですけど*2

要は、自分は宗教の教団から一歩離れたら全然関係ない、その話は一切しないし、関係ない文脈で生きてる、って勝手に思ってたんだけれども、もうかなり僕のことを信頼してくれてる人でも、「勧誘しに来たのかな」的な。

なんか全然関係ない読書会をやったときに、その人から「最初、宗教に勧誘されるのかと思った」っていうふうに言われたんですよね。

それを聞いた時に「それぐらい警戒心を抱かせるものなんだな」ということ(を感じた)。

僕はかなり力不足でちゃんと教団を整備できてないから、ある意味自業自得な面もあるんですけど、ただこの問題は他の既存の宗教に入ってる人にも当てはまるんじゃないかなと思って、スティグマというか、それが結構問題なんじゃないかなっていうふうに思った。

それは(教団を)始める前にはなかった。

あえて社会問題としての視座という点ではそういう気付きはありました。

 

H 宗教がスティグマ化をすごいされているということですよね。

だからやっぱり、オウムの95年以降ぐらい、宗教ってカルトみたいな扱いをされることが増えたんですね。普段生きてて宗教に触れる時って冠婚葬祭の時ぐらいで。

僕がなんか勝手に思ってたのは、ダブル手帳さんって確かお寺の生まれだから、結構若い時からそういうのに触れてると、宗教に対する偏見というか距離感みたいなものがそこまでなくなるのかな、という。

それで他の人と見方の違いも出てくるのかもしれないという感じはしました。

 

D もしかしたらそれもあるかもしれないですね。

寺で生まれたから、そんなに宗教が悪いものだと思ってないっていうのは、あったかもしれない。

 

N ホリィさんがその創価学会に行ったっていう話だったんですが、どういう話なんですか。

 

H そうですね。

だから僕も宗教って結構実は大事なことだと思ってるんですよ。

ていうのは、利他性ですよね。

宗教って他の人に何かをするっていうことが最初から割とインストールされてる。

例えばイスラム教の喜捨っていう概念とか、キリスト教でもそうですよね、「汝の隣人を愛せよ」ってなんかそういう感じですね。

逆に日本は「葬式仏教」だという批判とかもあったみたいで、むしろオウム真理教が利他的なボランティア活動みたいなのを始めた歴史があるらしいんですけど、それは置いておいて。

友人が創価学会の人で、勧誘されたんですよね、それこそ。で、僕自身は宗教のそういう利他性みたいな機能っていうのはすごく気になっていて、だから行ってみたんですよ創価学会。

創価学会って皆さんどういうイメージを持たれているか、僕もわかんないんですけど、少なくともはっきりインターネット上では結構悪いイメージが強いような気がするんですよね。

だから僕率直に聞いてみたんですよね、創価学会の人に。「ああいう悪いイメージってなんであるんですか」とか。でも率直に聞いてみたら意外とちゃんと答えが返ってきたんですよね。

「戦後に結構割と強引に勧誘してた部分はあるかもしれない」、「実は対立している宗派からネガティブキャンペーンをされている」という話とか、そういう理由を聞いてなるほどなあと思って。

そういう、ちょっと聞かれたら嫌かもしれないことも、「ちょっと失礼かもしれませんが」というかたちで聞いていったら、ちゃんと答えが返ってきたので、「これは話を聞いてみる価値が全然あるな」と思った。

創価学会は月一ぐらいで座談会っていうのをやってるらしくて、「座談会って『ミーティング』文化じゃん」って思ったんです。

もうこれはますます興味深いなと思っていってみたんですよね。

どういうことをやってたかっていうと、当事者研究じゃないですけど、とりあえずお題目を唱えるっていうのは基本で。日蓮さんのご本尊があって、それに南無妙法蓮華経を唱えるっていうのがすごく重視されていて、その会でもまずそれはしてました。

その上で、日々のつらい体験というか、それを乗り越えた体験ですね、それを誰かが発表する、みたいな。おそらく、基本のストーリーが決まってるんですよ。「こういうつらい体験がありましたけど、お題目を唱えたらうまくいきました」と。

僕が科学にかなり洗脳されてる人間なので、「んなアホな」という部分もあるんですけど、一方で科学的に考えてもそれはありうる。

要するにお題目を唱えるってのは南無妙法蓮華経って言うことを意味するわけですけど、「南無妙法蓮華経を百万遍(百万回)唱える」とか言ってるわけですよ。

日々南無妙法蓮華経を空いてる時間に唱えるというのをルーティーンとしてやってるみたいで、そこまでやってたら確かになにかしら影響あるだろうと思いますね。宗教用語で「マントラ」とか言ったりするみたいですけど、それを唱えることによって、やっぱり精神的に安定する部分はなんとなくあると思うんですよね。

多分お題目を唱えてる時も「自分にはこういう悩みや問題があってそれを乗り越えたい」っていう気持ちで南無妙法蓮華経って唱えてると思うんですよ。そこのなんか、自己啓発的な、と言ったらちょっと申し訳ないけど、多分そういう要素は確実にあると思いますね。

 

N なるほど、内観する媒介になっているんでしょうね、多分。

語り合う前にお経のような決まったリズムを聞く、唱えるという話は興味深いと感じました。僕以前青森県恐山のイタコに行ったことがあるんです。

そのときタイミングよく恐山に居はったので、そのイタコさんに霊を降ろしてもらったんですが、降ろす前に、やっぱりね、唱えるんですよ。

お経を唱えながら数珠をジャラジャラジャラジャラ鳴らして、鳴らし終わった後に、そのイタコさんに呼びたい人が入っているという流れなんです。僕は頼んだら全然違う人を降ろされてたので、あんまり意味がなかったんですけど。

学生は13000円で受けられます。

僕は駄目だったんですけど、僕の前にイタコに相談されたおっちゃんが、わざわざ九州から青森に来たと。

亡くなった奥さんを降ろしてもらっていたんですけど、すごいその人は良かったみたいで、泣きながらイタコさんと、つまり自分の亡くなった奥さんと、話されて、とても満足して帰って行かれた。

ある種、トランス状態に持っていくみたいな回路がイタコさんにはあると感じました。

多分お経を唱えたり、数珠を鳴らしたり、非日常的なものによってトランスに持って行くみたいなことはあるんだろうと思うんですけど、それはマントラにも似たようなところがあるかもしれない。

セルフヘルプグループだったら、沈黙なども僕はトランスに持っていくための媒介になってるんじゃないかなと思っていて、参加者をより深い精神状態にもっていき、深い語りを誘発するという点で、もしかしたら宗教が持ってる儀礼性っていうのは参考になるかもしれないですね。

 

Y 百万遍も、百万遍唱えて京都を飢饉から救ったからそういう地名が付いているんですよ。

神様同好会でも儀礼を定めたと思うんですけれども。

 

D 本当はやろうと思っていたのは、当事者研究が終わった後で、普通はまあ当事者研究って「皆人それぞれだね」っていうので終わることも多いと思うんですけれども、それを宗教特有の強みというか、「秘蹟を授ける」と言って、何か汚れみたいなものを引き受ける。

弱さを引き受けるみたいなことをしようと思ってたんですね。

それは、僕は宗教を悪いものだと思ってなくて、さっきおっしゃったように儀礼的な側面によって良くなる部分があるからなんですけど。

ただ実際に当事者研究をやっていると、あんまりそれをやろうっていう雰囲気にならないっていうか、何か「秘蹟を授ける」とか言うと皆半笑いになっちゃうっていう(笑)。

僕も半笑いになっちゃうしそれは恥ずかしいんでちょっと(笑)。

 

N 神やのに(笑)。

 

D でもできた方が良いとは思います。

あと、克服した体験を創価学会の座談会で語るっていうふうにおっしゃったじゃないですか。

それって逆に克服できてない人にとっては、その語る言葉が無いのかな、とか思ったんですけど。

 

H それも見方次第だと思うんですよね。ただ、過去を克服できていない場合でも、基本的には「他人と比較しない」というのは結構重視されてるみたいでした。むしろ、自分の中で過去の自分と比べてどうか、っていうところが大事にされている。だから、克服できてなくても、つらい中頑張ってるってだけで評価されるところはたぶんあって。

僕思ったんですけど、やっぱり実際唱えるわけじゃないですか。唱えたことないからわからないんですけど、唱えてみたら多分、めっちゃずっと唱えると思うんですよ、何時間も何時間も。

「この座談会に来てる人たちはみんな自分と同じように唱えてるんだ」っていうことが、おそらく想像できるんですよ。

だからあの型っていうか、「こういうしんどいときにお題目唱えて頑張りました」みたいな話って「わかるわ~」みたいになると思うんですよ。だからすごく納得いったんですけど。

まあただちょっと、うーん。「ほんまは克服できてないんちゃうん?」っていうところも克服のストーリーに乗せがちな感じは僕もしましたね。それはちょっとあるかもしれない。

 

N まあだいぶポジティブですよね。

ちょっとポジティブな物語にリフレーミングしていくみたいなところがある。

宗教の力で言うなら、もちろんさっき言った儀礼の部分であったりとか、ちょっとポジティブな解釈とかっていうのもあると思うんですけど、やっぱり「委ねることができる」っていうのが一番ポイントなのかなと思っていて。

多分ありとあらゆる語りのグループ、「ナラティブコミュニティ」って僕は呼んでますけど、今日出たコンシャスネスレイジングにしろ、当事者研究にしろ、根本はやっぱりセルフヘルプグループなんです。

コンシャスネスレイジングも実はセルフヘルプグループを参考にしていたりするし、べてるも当事者研究を始める前に、SA、スキゾフレニアアノニマスというセルフグループをまずやっている。

そこからスタートしてて、セルフへルプグループはやっぱり「ハイヤーパワーの存在」っていう神がいるんですよね。

神に全部自分がやったことを語って委ねていく。

自分の力ではもうこの問題をどうすることもできないんだというふうに神に委ねて諦めて、その上でじゃあどうするかっていうことを考えていく、っていうのが根本にあるんです。

だからそこのハイヤーパワーに何かを委ねてしまうということが、やっぱりポイントとしては大きいのかなっていうのは思いますね。

 

D そうですね。

僕も実はナルコティックアノニマス(NA)っていう薬物依存症者の自助グループに行ったことがあって、やっぱりハイヤーパワーとかあるんですよね。

日本風に翻訳はされてるんだけれども、超越的なものを信じるっていうのがやっぱりある。

で、沈黙の時間ってあるんですよ。

「沈黙がすごい重要な効果を持つんじゃないか」みたいな話がさっきちょっと出てきて、すごく興味を持ったんですけど、それってどういうことですか。

 

N 心理臨床では沈黙が重視されるんです。

無理に語りを引き出さないということが大事にされていて、その沈黙の間に何も起こってないわけではなくて、内面ではものすごく深い動的な作業が起こっている。

ということと、あともう一つ僕が勝手に考えてるのは、沈黙は妙な緊張感みたいなものを生むじゃないですか。

その妙な緊張感みたいなものが、さっき言った非日常っていうのを生み出して、今までとは違うナラティブを誘発させていく力があるんじゃないかな、というふうに考えています。

 

Y ちなみに宗教という時に、一つ「委ねること」というのが出ましたが、個人的な問題意識として、「居場所」っていうのがもう一つあるかなと思っています。

神様同好会では生きづらさと合わせて居場所っていうことも考えていたっていう背景があると思っていて、「居場所づくり」と「ナラティブコミュニティ」についてどうかなと思うんですけれども。

サークルクラッシュ同好会でも居場所づくりに焦点を当てて来たと思うのですが。

 

H そうなんですよね。

居場所作りって意外と当事者研究とそんなに関係ないところが逆に難しくて、当事者研究だけやっててもなんかあんまり居場所感が実はそこまでない。

まあなんとか出せてる所は出せてるんだと思うんですけども、それはやっぱり当事者研究以外の要素がすごいんだと思うんですよ。

サークルクラッシュ同好会も、やっぱり当事者研究だけやってるわけじゃなくて、みんなでどっか行ったりとか会誌作ったりとか、他の活動も結構いろいろやってるんです。

だからなんですけど、当事者研究だけだとお互いの差異を認め合うっていうか、個人の経験を大事にするみたいな部分がすごい強くて。

なんか居場所っていうと結構もうちょっと一体感みたいなものが…一体感って言うとやりすぎなのかもしれないけど、何かそういうものが求められる気がしている。

それこそ創価学会ってそこがちょっとバランスが上手いなって思った。やっぱ伝統あるなって思ったんですよ。

個人個人の経験には立ち入らないんですよ。語ってもらって別にそれに何か「それはこの方がいいよ」みたいなアドバイスとかもしないんですよ。

質問とかはするけど、個々人の語りは「あ、そうなんだね」で終わって、そのあとお題目を唱えるっていう点ではみんな共通してるっていう。

「一体感を持つための装置」と「差異を認め合う装置」が両方ちゃんと共存しているシステムになってて、なるほどな、と思いましたね。

その辺のバランスってサークルクラッシュ同好会とかでも、「曖昧な言葉」を使うことによって担保されるのかな、という風に僕は基本的には思っています。

例えばサークルクラッシュ同好会の「サークルクラッシュ」っていう言葉に対して持ってるイメージも結構いろいろ皆違ってて、かなり恋愛に重きを置く人もいれば、もっと何か恋愛ではない形の人間関係のこじれみたいなことを考えている人もいるし。

もっと言えば、僕はその派生で「メンヘラ当事者研究会」っていうのもちょこちょこやってたんですよね。なんか僕もそれこそキャパオーバーであんまりなかなかできてないんですけど(笑)

「メンヘラ」っていう言葉は要するに生きづらさを表す言葉なんですよね。でも、メンヘラっていう言葉に対して持ってるイメージって結構皆さんバラバラだと思う。

その中でもメンヘラって言葉になにかしらみんなイメージを投影してそれなりに自分の語りっていうものが出てくる。

一方では曖昧な言葉なんだけど、その言葉において何か語るっていうこと自体は共通してるんで、何か共通性と差異のバランスを取るために曖昧な言葉があるのかなと。「非モテ」なんかもそうでしょうね。

 

D 今、当事者研究と居場所作りの協約不可能性みたいなところ、ちょっと相容れない部分について話があったんですけど。

実はメンヘラ当事者研究会に何回か参加させていただいたこともあるんです。

その時にホリィ・センさんが努めてやってらっしゃったのは、逆に内輪ノリ感を出さないようにしてるというか。

その場には、サークルクラッシュ同好会会員をはじめとした比較的ホリィさんと近しい人もいれば、初参加の人もいるわけじゃないですか。

だから、この人は仲が良いから敬称をつけない、とか、ちょっと特別扱いする、とかいうことではなくて、差をつけない。

居場所って結構そういう親密性みたいなものを大事にすると思うんですけども、むしろそういうのを意識的に切断して、かなり顔見知りの人でも、僕みたいな初参加の人と一緒に同一に扱うということをしてらっしゃったと思うんですね。

 

H 良いのか悪いかのかっていうところはあるけど。

 

D 僕はむしろそれじゃないと嫌ですね。

困るというか、何か多分内輪ノリ感が強すぎると来れないから。

 

H そうなんですよね。サークルクラッシュ同好会とか大学のサークルやってても、内輪感ってすごい嫌なんですよ。好きなんだけど嫌っていうか。

内側の人にとってはそりゃ良いですよ、内輪感って。でも外から来た人からしたら「なんだ内輪ノリじゃないか」ってなるじゃないですか。やっぱそれを感じて欲しくないなと思って。

「ダルク女性ハウス」という団体の上岡陽江さんが、「新しく来た人が一番偉い」っていう言葉をどこかで言っていて、「ああそれはいい考えだなあ」と思って。

結局新しく来た人を一番偉いっていうふうにしておけば、そういう内輪感の問題はおそらく解決するのかな、っていう。それがうまく実践できるかっていうと難しさもあるんですけど。

 

N 研究という側面から見たら新しい人は、新しいデータを持ってきてくれる人なので、やっぱり尊重しないといけないと思いますね。

あとは内輪感の話で言うと、そもそも新規の人が困るっていうのもあるんですけど、多分内輪のメンバーも内輪同士で当事者研究する時に弊害が生じてくることがあると思います。つまり仲良くなりすぎると語れなくなってくるということが起こるんですよね。

「あいつ仲良かったのにそんなやばい問題を抱えてたのか」みたいなことが起こってくる。

逆に新規の初対面の人らやからこそ喋れる関係みたいなのがあったりするんですね。

「こいつとはもう顔合わせへんから何言ってもええか」みたいな。

普通はある程度信頼感が高まった方が喋れるというイメージがあるんだけれども、信頼感が全然ない方が喋れるということもたまに起こるので、バランスは確かに難しいですね。

 

H 居場所作りの難しさみたいな話になってくるのかな。

 

Y 確かに居場所づくりと当事者研究っていうのは明らかにベクトルが違うっていうのはあると思います。

僕もですね、神様同好会の熊本支部っていうことで、熊本でもちょっと簡単に当事者研究みたいなことをやったんですね。

それは完全に自分の経験を話す、ってことだったんですけれども。

そこに来てくれた人とは、面識はあったけれども突っ込んだ話をするのは初めてで。

だからこそ自分と相手の経験の中のこれとこれは似てるね、みたいなアナロジーが結構働いたというか。

逆にあんまり知り過ぎていると、例えばこれ冗談を言ったりからかいを言ったりとかいうことになってきたりして、当事者研究としての、研究的な深みがなくなってくるかな、という気は僕もしました。

新規でやってくる人は当事者研究にとっては大事じゃないかと思います。

 

D 茶化されるんじゃないかと思ったら、あんまり言えないし。

サークルクラッシュ同好会においては、初見の人、1回しか来なかった人、それ以降来なかった人というのも一番重要な要素なんだっていうふうに、僕は外から見ててすごい思って、そういうようなことを書いたことはありますね*3

 

N なんか今、居場所と当事者研究が相反するみたいな方向に行ってるけど、そんなことないと思っていて。

当事者研究は多分突き詰めていったら、最初は分断みたいなものが見えるかもしれないけれども、そこを乗り越える力は当事者研究にはあると思っていて。

べてるの理念の中に、「差別偏見大歓迎」っていうのがあります。

つまりグループ内で差別偏見が起こったりするんだけれども、その中で、じゃあなぜ差別したのか、とか、なぜ抑圧するのか、偏見を持つのかっていうことを話し合って、そうすることで乗り越えていく。

だから彼らはひたすらミーティングをするんですよね。

 

H 「三度の飯よりミーティング」ですからね。

 

N そうそう。

生活の中で様々なトラブルが起きても、話し合うことで乗り越えていくことをひたすらあそこはやってるので、居場所と当事者研究を両立することはできるといえばできるんじゃないのかなっていう気はしますね。

ただ僕らみたいに2週間、月に1回のペースでやってるグループでは、もしかしたらちょっと難しさが伴うのかもしれないな。

 

H それこそね、ヤマギシ会っていうところへ、これもカルトとして有名なところなんですけど(笑)、以前行きました。

まあでもカルトだと言われていたとはいえ、僕は結構最近に行ったんで、今はカルトってほどではないと思いました。

昔は事件とか裁判になっていて、というのは、ヤマギシ会というのはモロにコミューンみたいな場所だったんですよ。自分の財産を全部ヤマギシ会に預けて、そこで農業共同体として村で共同生活を送っていこうみたいな、そういう場所なんですけど、そこでも毎日ミーティングしてましたね。

しかも12回はしてたかな、本当に毎日やってて、「なるほど、これは面白いシステムだ」ってやっぱり思いましたね。ただ、ヤマギシ会には宗教者はそんなに居ないと思うんですけど。

ヤマギシ会もだいぶ、批判されたのもあってカルト的にはあまりならないようにしてるみたいなんですけど、でもやっぱりちゃんとそういう(ミーティングの)文化は残すっていう。

そういう文化をやっぱり、そこでちゃんと残すっていうのは大事なのかなと。毎日やってたらやっぱ違いますよね。

 

D 差異を乗り越えた先に、本物の連帯があるみたいな感じですかね。

 

N 良い言葉で言うと、そうですね(笑)。

 

D さっき、みんな100万回そのお題目を唱えたという共感みたいなのがあるってホリィ・センさんがおっしゃっていたと思うんですけど、それって結構利他心とちょっと関わってるんですかね。

 

H 利他心はね、ちょっとどこから出てきてるのかまだ分かってなくて。もしかしたら創価学会に関しては利他心ってインストールされてないのかもしれないですけどね。

ちょっと僕も座談会に1回行っただけなんであんまり滅多な事は言えないというか、あまり分からないんですけど。ちょっとそこは今後の課題っていう感じで。

なんか勧誘されてて、「座談会に来てほしい」的なことは言われてるんで、ちょっともう1回行ってみようかなと思う。

それこそね、僕はサークルクラッシュ同好会の活動として、普段一人だと行けない場所にみんなで行こうっていう活動やってるんで。これはちょっとやばいかもしれないですけど、サークルクラッシュ同好会で「創価学会へ行こうツアー」をやってるんですよね。

もちろん僕はすごい長文で、「何かリスクみたいなものがもしあったとしてもそれは自己責任で。」とか、まあそれは酷い言い方だけど、「これこれこういうリスクが考えられる。」とか「現場の人に失礼にならないように。」とか、なんかいろいろ配慮すべき点を書いた上でそういう勧誘をしている。

勧誘っていうかまあ、「一緒に行こうツアー」をやってるんですけど。

 

D そういった留意点が記述されたサークルクラッシュ同好会LINEのノートは全部読みました。

面白かったというか、良かったというか、バランスが取れている感じはしました。

確かに宗教でもあんまり利他性を持ち出さない宗教もあるかなという気もします。

うちの実家は浄土真宗の寺なんですけど、基本的には、徳を積んだりとか修行したりとか善行しても意味ないっていう教義なんで、あんまり他の人に利他的なことをするようなインセンティブが働くような教義ではないですね確かに。

だからちょっと、宗教にもよるのかなと思います。

 

H 創価学会は確かね、「リーダーを養成しよう」というような感じのことを言ってました。

 

 

N 何のリーダー?

 

H とにかく「リーダーが大事なんだ」っていうのが標語的に結構使われてて。

やっぱりリーダーって他の人を引っ張っていくって感じなんで、必然的に利他性が…いやでも支配みたいにもならないかな…

 

D 社会のリーダーですか。

 

H 社会のリーダー。

 

N 社会のリーダーね。

 

D なんか、学校とかで言われそうな感じですね、「なんかリーダーになれ、グローバルリーダーになれ」みたいな。

 

H 確かに勧誘してきた人というのは、かなりいい人というか、貧困の人と生活保護を一緒に申請に行ったりとかされてるんですよ。普通に利他的な人で。

教義ゆえなのかはちょっと分かんないですけど。

 

D 単純に社会的地位の上昇というだけではないんですね。

 

H それはそうでしょうね。

 

N ちょっと当事者研究についてというか創価学会についてのトークみたいになってきましたね(笑)。

 

Y 座談会とかミーティングと、宗教との繋がりっていうのは、確かに面白いかなと思います。

最初の冒頭でも触れたんですけど、横の問題意識の広げ方というか、横の広がりについて掘り下げていきたいと思います。

例えば、テーマを決める時に、テーマの選び方について何か考えていることなどはありますか。

 

N そうですね。

うちのグループは、さっき緩い言葉で繋がっていくみたいな話がありましたが、「非モテ」を定義してない、っていうのを大事にしています。

よくわからない多義的な言葉なので、非モテという枠組みを設定したら一体どんな語りが出てくるのか想像がつかない状態で、まず始めました。

非モテ研は最初、「非モテエピソード」というテーマでやりました。。

非モテに関わるエピソードを皆で話そうみたいなことをしたんですけど、もちろん恋人ができないんだとか、女の人に対してこういうことをやらかしてしまったといったような「非モテらしい」話は出たんですが、それ以外にもさっき言ったようないじめの問題、友達がいないっていう問題、あとは家族の問題、など本当にありとあらゆる話が出てきたんです。

どうもいろんな問題が相互作用しながら起きてるんだな、っていうことがわかってきたので、その1回目のテーマで出てきたワードっていうのを掬い上げて、それをもとにテーマを設定した。

「家族」とか「友達」を、それ以降の当事者研究のテーマにしたんです。

全然その時に何も考えてなかったけど、振り返るとすごく良いアプローチだなと思っていて。

「非モテ」という言葉は多義的である一方で、ドミナントな、支配的なストーリーも具えていて、つまり「自分はモテないからつらい」「恋人さえいれば幸せになれる」というわかりやすい思考を呼び込んで、男性たちをそのストーリーに縛り付けてしまう力が強い。なので、ずっと「非モテ」をもとに話をしていても、あんまり話が豊かになっていかない。ところが、逆に「非モテエピソード」を語り合うことで抽出されたテーマをもとに、つまり「友人関係」や「家族」など、「非モテ」から派生した他のところから「非モテ」について語っていくと、豊かな物語がすごく出てくる。

多分「メンヘラ」も近いところがあるんじゃないかなとは思います。

 

H すごくいいですね。

僕は逆に、テーマの決め方がわからなくて、だから僕は今「自分はどうやってテーマ決めてんだろう」と思ったんですけど、その場にいる人がとりあえず喋りたい内容みたいなのを聞いてその場で決めることもありますし、あるいはもうちょっとランダム性を結構大事にしてるというか、とりあえず今までやったことないやつを適当にやるみたいな。

今までにないテーマでやったら違う語りが出て来るかも知れない、という感じで今までやってきましたけど、それはちょっと「修行」的過ぎるのかもしれない。

あんまりにも関係ないテーマで無理に語ろうとし過ぎてるのかもしれない。そうか……それは僕の中で発見ですね。

 

N ちょっと関連させるところが大事かもしれないですね。

 

H 僕は好奇心強いタイプなんでなんでも語れちゃうんですけど、それが逆に良くないのかもしれない。

 

N あと、べてるの家の当事者研究では本来決まったテーマ設定をしていないと思います。

基本的には「自分の苦労」というのがテーマだった。ただ、自分の苦労を語るために言葉が必要だということを、熊谷晋一郎さんが中心となってずっと言われていて。

さっきドミナント(支配的)っていう話をしましたが、ドミナントなストーリーに抵抗するために言葉が必要だったわけです。べてるの家の当事者研究の始まりについて話すと、べてるのソーシャルワーカーの向谷地さんのお知り合いの会社の運営者の方が、その自分の会社で社員たちに11研究っていうのを課していたみたいなんですね。

自分の仕事がどうすればより効率良くなるのかを自分で研究してみようというその取り組みを、向谷地さんは面白いと思って、べてるに取り入れたというのが当事者研究のスタートだったそうです。

で、当事者研究を「じゃあやろう」って言ってやってみたら、やっぱりみんな、医学的な話しかできなかったらしいんです。

「統合失調症は、医学的にはこういう問題がある」など、ドミナントな物語に沿ったことしか語れないということがどうもあった。じゃあまず医学の物語とは異なる自分たちの言葉を作らないといけないというので、さっき言ったスキゾフレニアアノニマス(SA)をまずやった。

自分たちのエピソードを自助グループの中でどんどん語り、言葉をどんどん作っていくことで、例えば「幻聴さん」や「お客さん」っていう言葉をべてるは使ってますけど、そういう言葉を生み出した。

その上で、当事者研究を始めた、みたいな歴史があるんですよ。

 

H 当事者研究界隈の独特の用語ってすごい面白いですよね。

一方で、当事者研究界隈独特の用語に対して内輪感を感じてしまって、なかなかそういう言葉を導入できなくて困ってるんですけど。

 

Y まずブレインストーミングみたいにいろんな雑多な話題を広げてみて、そこから逆に中心的な問題に切り込んでいくっていう…

 

N そうですね、切り込んだりとか、逆に利用したりとかっていう感じですかね。

 

D さっきの「教義を当事者研究のために作ったのではない」っていう話とちょっと矛盾するかもしれないんですけど、教義を決めたときにちょっとあえて抽象的にしたっていうのはあって、解釈の多様性を担保できるようにあえて曖昧な言葉で書くようにしたんですね。

その人その人が置かれた状況って一人一人違うじゃないですか。

だから、その人に合わせて解釈してもらったらいいし、その方が集まって話すときにも豊かな話ができるだろうなと。

「もうちょっと教義を精緻化した方がいいんじゃないか」という意見もあったんですけど、精緻化しない方向で行こうという話になったのは結果的には語りをする上で良かったと思います。

 

H ちょっとずれるかもしれないんですけど、精神分析の分析家で、「ラカン派」という派閥の人は、なんか抽象的な言葉を言うんですね。「神託的発話」とか言うらしいんですけど。

結局、精神分析で分析するのは医者とか分析家の方ではなくて、患者さん、クライアントの方だ、ってラカン派では言ってて。だから曖昧な言葉を分析家の方から言うんですよ、なにかを知ってそうな分析家が。

それに対して患者さんが「この言葉ってどういう意味なんだ」って考えることによって、自分の無意識の分析が進んでいくらしいんです、ラカン派的には。

だからおそらく宗教においても「神は何を考えていたのか」、つまり「神意」ですよね。あるいは聖書に書かれているこれは何なのか、ってなるので、そういうところで実は自分の掘り下げが神との対話で進んでいくんじゃないかと思いました。

 

D そのラカン派って今聞いただけだと占いみたいなものに近い部分もあるのかな、とか。

占いとかもなんか何とでも取れるようなことを言ってこう語りを引き出したりするじゃないですか。

それとちょっと似てないですか。

 

H まあラカン派は他にいろんな技術があるんですけど。

 

N 「非モテ」もたぶん一緒ですよね。

さっきホリィさんが言った「神意」と「非モテ」っていうのは相似形で、「非モテ」って何だろうというのを考えさせられてしまうみたいなところがある。

 

H ただ一方で、「研究先行型はよくない」とかいう話もありますけどね。

「これはなんなんだろう」って考えすぎた結果、例えば、当事者研究で「当事者研究って何だろう」というテーマになる時があるんですけど、なんかそこまでいくともはや何か、なんていうんですかね。

自分の話を引き出すためにやってるというよりか、図式化したいだけみたいなふうになってるような。

 

N 知的ゲームみたいなね。

 

H そう、それはね、逆によろしくないです。

 

N どんどん掘り下げていくと問い自体がなくなっていく、みたいなことが起こるかもしれない。

話を戻しますが、非モテ研でもだいぶ言葉を作り出すみたいなことは意識していて、言葉が生まれてくる瞬間っていうのはやっぱ楽しいですよ。

面白いもので、言葉を作るのが上手いメンバーがいるんですよね。

それをポッとそのメンバーが言ったときに、他の人たちが共感していくんです、「わかる」って。

そして彼が言ったものを引用して、自分のエピソード語りに使ったりする。

それで共通言語になっていくみたいなところがあるんです。

多分、言葉って名詞にすることが大事だと思ってるんですけど、うちでは例えば「女神化」とか。

自分がしんどい状態にいるときに優しくしてくれる女性を神聖化しちゃって、ゆくゆくは付きまとうようになっちゃうんですけど、それを僕らは「女神化」って呼ぶんですね。

女神に対して、「彼女はもしかしたら俺の事を考えてるかもしれない」とか、「こういうふうにしたら女神と仲良くなれるんじゃないか」みたいなことを延々と頭の中でぐるぐるぐるぐる考えていくのは「ポジティブ妄想」っていうんですけど、そういうふうにどんどん言葉を作っていくと、自分たちのことがよく分かっていくというところはありますね。

 

D 非モテ研に参加させていただいたときに、先行研究みたいな紙を下さるじゃないですか。

「女神化」もそうだし、今まで作られた言葉がそこに書いてあって、僕らもその文脈を共有して、その上に立ってお話させていただくことができる。

すごく良い仕組みだと思いますね。

 

N ほんまはもっと辞書みたいなのを作りたい。

さっき言ったように、べてるだったら毎日ミーティングしてるからその言葉の継承をしやすいだろうけど、非モテ研は2週間にいっぺんしかやってないので継承が難しいから、紙媒体にして、それをみんなに回覧しています。

 

H なるほどね。そこまで考えたことなかったな。

 

Y 言葉を作るというのはすごい良いアプローチですね。

外部に対して訴求力があるというか、「こんな面白い変なこと言ってる人たちはどんな人なんだろう」と思わせる。

 

H 先行研究っていう提示の仕方だと、すごくやっぱり入っていきやすくなると思う。

内輪感を作るんじゃなくて、橋を架ける意味でそういう先行研究を置いてるように見えますね。

 

N 面白いのは、訴求させていくと「わかるわかる」って言う人もいる反面、「え、全然わからへんねんけど」みたいなことも時折起こるんです。

「女神化」などの話をしたときに、ある女性に「何言ってるか全然理解できないんです」と言われたことがあって。

それは言ってしまえば、「女神化」というものに男性が持ってる女性への過度な役割期待が含まれてるからだと思うんです。男性たちが、「これは女性への過度な役割期待なんだ」というふうに気づいていくという点でも言葉を作るというのは大事かな、と思いますね。

 

Y フェミニズムに対するアプローチというか、フェミニズム自体も多様で、受け取り方も様々あると思いますが、フェミニズムとどのような距離を取っておられるのかお伺いしたいです。

ちょっとかなりディープな話題ですけれども。

 

H それは割と本質的な問いだと思いますよ。というのは、この3人がまさに男性であることも含めて思うんですけど、当事者研究って、それこそ上野千鶴子さんが言ってたのは、「そもそも女性は当事者研究をやってきたんだ」と。「70年代のウーマンリブで女性学というかたちでみんな自分の経験を語ってきた、それにようやく時代が追いついた」と。

それは一理あると思っていて、だからどっちかっていうと男性こそが「当事者研究」っていうこのカタい名前をつけてやってる文化なような気もするんですよね。

 

Y 「井戸端会議」という言葉はどうでもいい話をしてるという代名詞として使われてきたこともあるけど、自然発生的なナラティブコミュニティという側面があって、それを維持したりコントロールしたり広げていく知恵があったはずです。

それがずっと無視されてきたというか、言葉にされてなかった部分はあるかもしれない。

ナラティブコミュニティを作る時に、そういう歴史的・民俗学的な側面、どういうものが蓄積されてきたのか考えていくといいのではないか。

 

H ジェンダーとの距離・フェミニズムとの距離、って言わなくてもいいですけど、ジェンダー的な視点って普通にそれぞれのコミュニティでどうなってるのかっていうのは気になります。

 

N そうですね。サークラが一番気にはなりますけど(笑)。

 

D 僕は自分がやってる団体がうまくいかなかった身で何かすごく不遜なんですけど、今日は西井さんとホリィ・センさんに喧嘩を売る質問を考えてきたんです。

まず西井さんに対して。

フェミニズムにもちょっと関連しますけどね、ゴリゴリのミソジニストの人っていうのがいるわけじゃないですか、女性嫌悪的な。

そういう人は、そもそも非モテ研に来るっていうことってできないっていうか、来ないと思うんですよね。

そういう人にも非モテ研として何らかの手段でリーチしていきたいというふうにお考えであれば、どういった手段を取るお考えか、というのが一つ。

もう一つは、もし非モテ研ではなくてですね、そういうコンシャスネスレイジングとか啓蒙っていうのを、社会のどこかでやるとなった場合に、どこでやるべきだというふうにお考えか。

このあたりちょっとぜひ聞きたいなと思いまして。

 

N なるほど。

そうですね、ミソジニーゴリゴリなのかどうかわからないけど、ミソジニーが入っている人ももちろん来ますよ。ぼくもないとは言い切れません。

そもそも非モテという概念自体が、解釈によってはミソジニーだと言うこともできると思います。

さっき言った「女神化」も言ってしまえば女性の人格をあまり考えずに、神格化して一方的に執着して、かつケア依存していこうとする営みなので、ミソジニー的でもあると考えられます。

ただ、本気で染まっているというか、直接的に暴力的な発言をしてる人っていうのは今まで来たことがないですね。

でも来て欲しいと思っていて、先ほど言った利他にも繋がるかわからないんですけど、うちのグループは、断らないっていうのは一番大事にしています。

どんな人が来ても断らないので、ぜひ来てほしいなと思ってます。

で、来ない人にどうリーチするかっていうのは多分どこのグループでもある課題だと思うんですけど、さっき言ったように言葉というのを、どれだけ発信していくかっていうところが大事なんだと思っています。つまり非モテの問題で言うのであれば、モテないとか、男性がすごく生きづらい、ということの原因を女性のせいだとする言説が例えばSNSの一部では強いんですが、そうではないと。

実は僕らってこういうことでしんどかったよねっていうことを、非モテ研で男性たちが語るわけです。

もちろん女性にいじめられたみたいな経験もあるんですけど、女性に抑圧されてるというよりかは、むしろ社会の中の階級や、男性同士のパワーゲームの中で抑圧されているということが、僕らはわかってきている。

それを発信することで、女性蔑視的な発言を繰り返してる人も、何かその語りに、物語に触れるという、気持ちが触れるということが起こるんじゃないかと僕はけっこう楽観視してるんです。

何か女性のせいにしていたけれども、自分の記憶をたどったら、あれがしんどかったなって。それが埋もれてる気がするんですよ、男性たちは。

あるネット記事で、「男性はしんどい」みたいなことをよく書いている人が「女性は性暴力とかDVとかセクハラとか、そういう訴えやすい被害があるからいいよな、逆に俺たちは何もないから、そのしんどさを語ることができないんだ」みたいな風に言ってる人がいたんです。

なるほどなと思いました。

やっぱり埋もれてるんですね。

被害を受けてない人なんていうのは多分ほとんどいないと思います。男性の中にもセクハラや性暴力を受けている人もいる。それでなくても、いじめなどを受けた人は数多くいるはずなのに、それらを語る言葉がないために埋もれてるんだなと思っていて、それを僕らはちゃんと作って、彼らに触れてもらう、みたいなことがやっぱり要ると思っています。

そうして、発信するっていうことはできるかなと。

 

H 最近は「セクハラ」をはじめ、「ハラスメント」って言葉が流行っていますね。それはとても大事なことなんだけど、#Metoo運動から派生したTwitterでの言説とかは、場合によってはなんでもかんでも「ハラスメント」にしすぎてる部分もあるんじゃないかと。

もし「ハラスメント」という概念によって「男のせいだ」というふうに回収されてしまっているんだとしたら、それはもったいないなと思う。本当は個々人の個別的な経験もそれぞれ重要なはずなので。個人の傷つき方にはいろいろバリエーションがあるはずで、ジェンダーだけじゃなくて、もしかしたら育ってきた環境とか経済状況とか障害とか、いろんなものが関わっている可能性がありますよね。

だから、当事者研究が、再度女性に広がっていっても全然良いと思う。

 

N それこそコンシャスネスレイジングが女性たちの間で再度起こったらいいな、と思います。

ウーマンリブの旗手、田中美津さんはコンシャスネスレイジングの中で、自身の問題をジェンダーだけでなく優生思想と関連させたりもしています。

 

D すごく面白かったです。

だから、今まで非モテ研の中で思考を精緻化することによって生まれた言葉みたいなものが、社会に発信されていくことによって今まで女性のせいにしていたものがもうちょっと思考が精緻化され、ミソジニーが解体されていくみたいなことですね。

 

N そうですね。

 

D すごい納得感がありました。

ありがとうございます。

 

N 「男が『生きづらい』ってあんまり言うなよ」とか「女性の生きづらさの方がもっと大事だろ」みたいな言説が結構散見されるけど、僕はむしろ男性は「生きづらい」ともっと言わんとあかんと思ってるんです。

ちゃんと被害者をやるっていうことが求められてるんじゃないかなと思います。

 

Y 時間が短かったのでできませんでしたが、男性の加害性への内省、とかになるともっと話すこともたくさんあったと思うんですけれども。

最後に、あと5分程度しか時間がありませんので、会場の方から質問があれば11つだけで、2つか3つほど質問を受け付けたいと思います。

 

質問者A 私は以前サークルクラッシュ同好会に入っており、そこではかなり頻繁に当事者研究がおこなわれていました。

今のサークラの状況は分かりませんが。

とあるテーマで当事者研究をした際、その時のテーマは私にとってはかなり致命的な問題だったので強い思いで参加したのですが、他の人は軽い悩みとして捉えているように見えてしまいました。

結果として、当事者研究の後、「自分のみが生傷を見せてしまった」という後味の悪さだけが残りました。

「どうしたら自分はその当事者研究で納得できたのかな」とか、「どうしたら当事者研究が成功したのかな」って、今日聞きながら考えていたのですが、どのようにお思いですか。

 

H 僕が答えたほうが良いですよね。

むしろ当事者研究だと、致命的な人っていうかそのテーマに関してすごく生きづらい人っていうのは、「偉い」というか、なんかそういう人の語りを他の人が聞いて得るものがあるんじゃないか、っていう方向にどうしてもいきがちなところはあって。

だからむしろ「そのテーマが致命的な人にとってはどうなんだろう」っていうのはなかなか難しい。

他の人にとってはもしかしたら成功なのかもしれないけど、どうなんですかね…。

 

質問者A 同じぐらいで話せるかと思ったら、自分だけ悩みの深さが客観的に見て異様に深かったりとか。

 

H 当事者研究の場全体としてはそれはむしろ成功したんだと僕は思うけど、Aさん自身にとって成功になってない、っていうところですよね。難しいなあそこは。

ちゃんとした答えが全然返せないですね。

 

N サークラの当事者研究はあんまり構造化せず、結構ラフにディスカッションするみたいな感じですよね。

そうすると、何か他者との違いみたいなところがものすごく目についちゃうみたいなことが起こるかもしれないなとは思っています。

非モテ研の場合は結構言いっぱなし聞きっぱなしという、1人がダーッと喋って、後半はちょっとディスカッションして、終わったらまた次の人、っていうふうに進んでいくんです。そうすると、どう見られてるかという他者のまなざしをあまり意識せずにすむ。

むしろみんなホワイトボードを見てるという感じなので。

多分他者のまなざしみたいなことを意識しだすと、「自分の語りは重すぎるんじゃないか」とか逆に「ちょっと軽すぎるんじゃないか」っていうふうに比較する意識が出てくるんだろうけど、ある程度構造化させると、もしかしたら乗り越えられる問題なのかなという感じがしました。差異を際立たせることももちろん重要なので、良しあしですが。

 

 

H 前に非モテ研に参加させてもらったんですけど、ワークシートの紙使って発表していく形でしたね。

 

N うちの仲間には「準備し過ぎちゃうか」って怒られたんですけど。

 

D まなざしをホワイトボードに向けるっていうのは面白いですね。

 

N お互いに比べあうみたいな関係性にしてると、権力が働いたりとか、評価的な視線が働いたりするので、まなざしっていうのはすごい意識してて。

セルフヘルプグループに何度も参加してる玄人の人たちは、見てないんですね、喋ってる人の方をあんまり。

人によったら寝てる人もいる。

だから見られてないというのは結構大事で、多分あれは物理的には皆喋ってる人を見てないし、しかも意識的にはハイヤーパワーのほうを見てるわけじゃないですか。

喋ってる人もハイヤーパワーの方に向かって喋ってるという体なので、形として三角になってるんですよね。

他者と自己と、もう一つ、何か第三項がある。

自助グループの場合は神なんですけど、当事者研究の場合はホワイトボードなんです。

視線を第三項に移すことによって、まなざし合うことを回避している、っていうところがポイントなのかなと思います。

 

質問者B 非モテ研の方に伺いたいのですが、サークルの維持方法に関心がありまして。

山に登るとか短歌を作るとか例を挙げられてましたけど、企画を立てても全然参加してくれないとかそういうのはあると思うんです。

どうやって非モテ研にメンバーを引き付けているのでしょうか。

 

N ありがとうございます、難しい質問ですね。

非モテ歌会は、非モテエピソードを短歌にしたためるみたいなアホなことをやってたんですけど。

結構今の段階では僕がパワーを持ってやっているところがあるんです。

会場を押さえるとか、テーマを決めるとか。

テーマは他のメンバーからも聞きますけど、準備・設定・ファシリテーターとかは僕がやってるんです。

ただ時々コアメンバーというかリピーターの方々に集まってもらって振り返りみたいなことをやっています。

その時に次やりたいことを出し合う。

できなくてもいいからとりあえず出していく、ということをやって、とりあえず言い出したメンバーに企画者をしてもらっています。

だから短歌会も実は僕が言い出した訳じゃなくて、山登りも別のメンバーが企画した。

そうなると企画者と僕と合わせて最低2人はイベントには居る。

あとは他のメンバーが「おもろいな」と思ったら寄ってくるっていう感じでやってますね。

居場所やこういう関わり合いのグループをやる時の一番本質的なポイントは、「2人で、既に語りの場はできてるんだ」というふうに思ってしまうことです。

どうしても何か多くの人を集めたくなっちゃうんだけれども、「2人でもいい」と。

僕の知り合いの猛者は、2時間ずっと1人だけやったけれども、「居場所をやりました」って言ってたので。

そういうのが大事な気がしますね。

 

D 西井さんが今のところパワーを持ってるっていう話が出て、ちょっとそれと関連するんですけれども、サークラ後継者問題について伺いたいです。

 

H サークルクラッシュ同好会も後継者に困ってて、僕が「サークルクラッシュ」を好きすぎるのもあるんですけど(笑)、自分の気持ちでずっと回していて、もう2012年から7年ぐらい、一時期他の人に代表をやってもらったんですけど、結局また運営が僕に戻ってきてしまっている。

 

D 創価学会に見に行くみたいな尖った企画っていうのを、ホリィ・センさんが離れられた後に、どうやってそういう面白いこと・興味深いことを、やり続けていけるのかっていうのは、それをシステム化するっていうところまではまだ至ってないということですね。

 

H そうですね。今までやってきた活動を全部リストアップして、会長をAIにやらせようみたいな話は挙がってましたけど(笑)

 

Y では時間となりましたのでここまでにさせていただきます。

司会としては「当事者研究の広がり」について意識して参りましたが、かなり理念についても実践方法についても面白い話がたくさん出て、すごく良かったと思います。

皆様、今日はお越しいただいてありがとうございました。

 

※以下は当日配布資料

教団の目的

一、信徒が持続的に自己の生を肯定できるようにすること。

二、清め、許し、援助、承認、肯定を連鎖的に広げ、生きやすい社会を作ること。

16か条の教義

  1. 自殺しない。
  2. 自分を卑下しない。
  3. 自分を責めない。
  4. 自分を傷つけない。
  5. 自分を大切にする。
  6. 困った時はすぐに助けを求める。
  7. 故意に人を傷付けない。
  8. 人の陰口を言わない。
  9. できる範囲で困っている人を助ける。募金する。人を褒める。
  10. 自分の弱さを自覚する。
  11. 毎日起床時に、祈りを行い、神に罪や穢を送る。
  12. 神は最も弱き者として、弱さを司る。
  13. 神は祈る者の罪を許し、穢を払い、引き受ける。
  14. 神は祈る者の生を肯定する。
  15. 神を信仰するものは神の触媒となり、神の権能を媒介することができる。その権能を用いて人々を救うとともに、教義を伝えていく資格と義務を有する。
  16. 集会に参加する際は、杖、または杖と同程度の長さの棒状のものを持参することが望ましい。