12/13(木)に京都大学サークルクラッシュ同好会(以下サークラ)の定例会に初めて参加した。その感想について二回に分けて記す。前編となる本記事では、例会の居心地の良い雰囲気がいかにして生み出されているかについて考察する。
絶妙な居心地の良さ
まず、活動が始まる前の雰囲気が良い。過度な馴れ合いを強要するような空気が一切無い。各々がスマホを触ったり、勉強したり、体を動かしたり、友達と話したりして思い思いに過ごしている。かといって暗いとかよそよそしいというわけでもない。誰かが部屋に入って来たり、顔見知りを見つけると互いに軽く会釈をしている。丁度良い距離感である。逆説的だが、こういう押しつけがましさの無い空間だと、かえって皆への愛着が湧き、仲良くしたいという気持ちになる。私はかぷりす氏(@caprice1026)と軽く話した後、複素数太郎氏(@Fukuso_Sutaro)に挨拶に行った*1。
活動内容については後編に譲るが、分かりやすく言うと「身体と言葉を使ったコミュニケーションゲーム」であり、私にとっては最も鬼門と言える内容である。ところが、その場の空気がとても良いため、全く苦にならないどころか素直に楽しめた。空気の良さというのを具体的に言うと、まず何かしらのノリや行為を強要されることが無い。「苦しくなったらやらなくてもいい」という旨が明言されているだけでなく、やらなくても悪い空気にはならないだろうなという安心感が実際にあった。また、常連が偉ぶることなく、新参や初見の人にも可能な限り均等に活躍の場を与えつつ、ここぞという場面では力強く引っ張るというバランスも絶妙だった。
最高の空気感は誰が作っているのか
このような素晴らしい場を作っているのは、もちろん一義的には中心メンバーを含めた常連会員である。つまり、現会長かしぱん氏(@pankashi)及びその日の主催であった創始者ホリィ・セン氏(@holysen)による見事な進行や、複素数太郎氏の愉快な盛り上げのおかげであることは言うまでもない。しかしあえて私は、それら諸々を構造的に可能たらしめている重要な存在に着目したい。それはいわゆる「一見さん」である。
ここで、サークラの例会に来る人を下記のように三種類に分類する。
①中心メンバーを含めた常連の会員。例会に頻繁に参加し、サークラの中核を担う。ホリィ・セン氏がよく言う「LINEグループは見かけ上大きいけど実際にコミットしているのは20~30人だから……」というフレーズの「20~30人」の部分である。
②コミットが中程度のシンパ層。ごくたまにしか例会に参加しない人、あるいは①のうち幾人かと個人的な結び付きが元々あるものの例会には初めて来たという人など。ちなみに私は会誌やアドベントカレンダーに寄稿した経験や、ホリィ・セン氏及びかぷりす氏との面識があったものの、例会はこの日が初参加であったため、この層に含まれるだろう。
③今まで何らコミットが無く、会員との個人的面識も殆ど無い状態で初めて例会に参加する層。いわゆる「一見さん」である。以前の私のようにグループラインに形だけ参加している場合もあれば、全くの非会員である場合もある。その後②や①に転ずる人もいるものの、その多くは一回参加したきりで以後は一切サークラとの関わりを持たない。
サークラの例会はこのうち③の割合が他サークルと比べてかなり高いと思われる。それは偶然ではなく、「会員でなくても参加大歓迎」という旨を積極的に告知したり、例会の初めには必ず自己紹介を組み込むなど、意識的に③を取り込むような施策を打っている結果だろう。では何故そうするのか。それは、③の「一見さん」こそが、サークラをサークラたらしめる上で最も重要な役割を果たす存在であるからだと考えられる。その役割とは、端的に言うと「外部からの視線を持ち込む」ことである。これは①にも②にもできない役割である。私が例会の中で感じた、「一見さん」が場にもたらす具体的な好影響は以下の三つである。
第一に、常連による内輪ノリ、馴れ合いに対する抑止力となることである。外部からの視線を意識しない集団というのは放っておくとどんどん内向きになっていき、内輪ノリ、内輪ネタ、ジャーゴンの自家中毒になり、それらへの適合度合いによって構成員を序列化したり、同調圧力をかけるための道具として使ったりするようになってしまう。そうなると集団は腐敗し、どんどん窮屈になっていく。しかし常に「一見さん」が一定数居るような環境では、その人達を置いてけぼりにせず楽しませようと思えば自然と内輪ノリは控えざるを得ない。
第二に、内紛の緩衝材となることである。常連同士は接触機会も多いので、そのぶん対立も起こりやすい。実際私は、その日の例会の参加者のうちの二人が互いに対立している旨を事前に聞かされていた。確かに、例会が始まる前は二人が会話することは無かった。ところがいざ例会が始まってみると、二人は極めて自然に会話を交わし、互いにリスペクトを持っているように見えた。まるで対立など無いかのようであった。何故そのようなことが可能だったのだろうか。それは、全く事情を知らない「一見さん」が居たからである。通常、何も知らない人の前で大っぴらに険悪なムードを醸すことは大人げないことだと考えられている。そのコンセンサスをある意味「口実」にして、二人は互いに一定程度歩み寄り、対立をこれ以上はエスカレートさせないでおこうという暗黙の合意を取り結ぶことができるのである。これは私がアドベントカレンダーで提唱した*2「対立を積極的にネタ化して外部に発信する」というアプローチとは真逆の発想であったため、大変興味深く感じた。
第三に、カースト下位層への安心感の付与、ひいてはカーストの無効化である。上記分類でいえば新参の②に属する私は、通常の集団では下位カーストとなるため、例会前はうまく場に溶け込めるか相当な不安を抱いていた。またこれは、①の人にとっても無関係な問題ではない。集団があればその内部には宿命的に序列が発生するからだ。つまり活動に深くコミットしている常連であっても、何らかの事情で下位カーストに位置付けられる恐怖は常に付きまとう。しかしそもそもある個人の集団におけるカーストが低いと言えるためには、集団内の他の構成員が「その個人は下位カーストである」という認識で一致するとともに、それに相応しい劣悪な対応を反復的に継続することで絶えずその認識を確認し続ける必要がある。翻って、サークラでそんなことができるだろうか。例会にはカースト等の内部事情など全く知らない③の「一見さん」がひっきりなしにやって来る。その人達の前で特定の会員を手酷く扱うことはできないし、まして「一見さん」に「あなたも一緒になってあの会員をいじめて下さい」などと強制することは尚更不可能である。そもそもサークラの場合、どこからどこまでが「集団の構成員」と言えるのかすら曖昧である。私は構成員だろうか? では③の人は? 例会に一度も行ったことがない人は? 分からない*3。このような状況では、カーストを形成するのは不可能である。
まとめ
このように、一見影が薄そうに見える③の人が外部の視点を持ち込むことによってどれだけ多くのものをサークラにもたらしているか、お分かり頂けだろうか。繰り返しになるが、この役割は①の人にも、半端に事情を知っている私のような②の人にもできない。本当に③の人にしかできないことである。ピンとこない人のために例を出すと、裁判所や地方議会、各種審議会などは基本的に誰でも傍聴できる。この傍聴者は発言を許可されていないから、議論にはコミットせずただそこに居るだけである。では、傍聴者が居る場合と、一切内容が非公開である場合では、そこで交わされる議論の内容は同じだろうか。答えはノーである。前者と後者では議論の内容は根本から全く異なってくる。これは私が公務員として両方を経験しているので確信を持って断言できる。そこから得られるインプリケーションをサークラの例会にも当てはめてみて欲しい*4。
以前ホリィ・セン氏が「例会に一回来て終わりという人とは継続的な関係を築けない」と嘆いているのを読んだことがある。私もサークラよりは何百倍もショボいが「ぼっちの会」という団体を運営していたので、その気持ちはとてもよく分かる。だが私は上記のような理由から、一回しか来ない人もまた重要なサークラの構成要素だと思う。その存在がサークラを他のサークルと決定的に画しているという意味では、最も大切な人達と言えるかもしれない。それに、「一回しか来ない人が多い」ということは「強い動機付けが無い人でも気軽に参加しやすい」ということの裏返しでもあるから、そんなに悪いことではないような気がする。
とはいえ、③の人を(あるいは②の人も)継続的に受け入れ続けるということは、①の人、特に中心メンバーにとってみれば常に「外部」からの監視によって襟を正し続けることを強いられるということでもある。これは普通のサークルの運営者に比べて余分な精神的負担にもなり得る。実際、ノリが分かっているメンバーだけで楽しくやりたいと思う時もあるだろうし、それは別段責められることでもない。それでも例会をオープンな場にしていこうという姿勢には心から敬意を表するし、そのような場だからこそまた行きたいと思うのである。