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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

ブラインドの向こう

 良く晴れた土曜の昼下がり、大勢の人でごった返す都心の賑やかな通りに面して、その細い雑居ビルはひっそりと建っている。初めて来た時はその狭い入り口をなかなか見つけられず、あたりをしばらくうろついた記憶がある。

 エレベーターのドアが閉まると、まるで最初から存在しなかったかのように、街の音が唐突に消える。エレベーターの微かな駆動音だけが世界の全てになる。

 ドアが開く。ホワイトで統一された空間が目に飛び込んで来る。狭くて薄暗い空間に、人々が静かにひしめき合っている。20人程度は居るだろうか。今日はかなり多い。

 手続きを済ませて順番を待つ。相当時間がかかるだろう。聞いたことがあるような無いようなクラシック音楽が曖昧に流れている。街の音は全く聞こえない。

 暫くスマホを弄った後、飽きて外を見る。といっても、ブラインドは完全に下ろされているので、そこに少しだけ隙間を作って覗き込む。無数の人々が無音で街を行き交っているのが眼下に見える。だが彼らがこちらを見ることは無い。今ここに20人程の人間が息をひそめて座っていたことを、彼らは一生知らないだろう。ついさっきまで自分もその一部だった窓の外の風景が、どこか遠い異世界のようによそよそしく感じられる。

 一際キビキビと姿勢良く歩く女性が視界の端に見えた。彼女はこの異世界の風景と完全に調和している。何となく目で追っているうちに見失ってしまった。しばらくして、背後のエレベーターから人が出てきた。振り返ると、先程まで目で追っていたあの女性がいた。私はスクリーンから急に登場人物が飛び出してきたように感じて戸惑った。彼女は手続きを済ませ、私の近くに俯いて座る。ここにいる彼女と先程まで街を歩いていた彼女がどうしてもうまく重ならない。ただ服装と髪型の完全な一致だけが、両者が紛れもない同一人物であることを示していた。実はあのエレベーターは外の異世界とこの部屋の世界を繋ぐ転送マシンなのだが、人格データだけはいまだに完全に転送することができない。そのため、世界間移動を繰り返す度にその代償として搭乗者の自我や記憶が少しずつ失われていくのだ……

 その時不意に名前を呼ばれた。私は下らない妄想を打ち切り、指示された部屋に入る。

「どうですか」

「良くも悪くもないです」

「じゃあいつも通りでいいですか」

「はい」

「じゃあいつも通り出しておきますので」

「ありがとうございました」

 私は一礼し、十数秒前に入ったばかりの部屋を後にする。

 待合に戻ると、先程の女性は俯いてじっとスマホを覗き込んでいた。もう違和感は感じない。彼女はまるで生まれた時からここにずっと座っていたかのように、この空間に位置を占めている。それはとても自然なことに感じられる。街を歩いていた彼女の姿を思い出そうとするが、うまくいかなかい。会計を待つ間にも、エレベーターにたくさんの人が乗り込んでいき、エレベーターからたくさんの人が出てくる。彼らはどこから来てどこへ向かうのだろうか。

 再び名前を呼ばれる。お金と引き換えに目的の紙を手に入れる。お大事に、と言われる。抽象的な言葉だな、と漠然と思う。

 無意識のうちにエレベーターに乗っている。1階で扉が開いた瞬間、街の喧騒がどっと流れ込んできた。通りに出て、さっきまでいた階を見上げてみるが、ブラインドに遮られて何も見えなかった。

 人混みに紛れて歩く。再び街の一部になる。私がさっきまであの場所にいたことは、もう誰にも分からない。この人混みも、家族も、友人も、誰も知らない。私もあの場所にいた人達の顔をはっきりとは思い出せない。ひょっとすると、あの場所はどこにも存在していなくて、ずっと幻を見ていたのかもしれない。

 ふと、手に紙を持ったままであることに気付く。

「…Rp.5 コンサータ錠18mg 1T コンサータ錠27mg 1T 分1、朝食後服用 28日分 Rp.6…」

 その紙に記された無機質な文字の連なりが意味するところについて、今まで多少なりとも分かったつもりでいた。用法、効果、作用機序、症状、障害、自分のこと、他の人のこと、人間関係、生活、生きること、社会、文脈、インターネット、信仰、そういったあれやこれやについて、この紙を見れば全て分かるような気がしていた。けれども私はそれらの事柄について、本当のところは何一つ分かっていない。この紙には何が書かれているのか。どうして私はそれを手に入れなければいけないのか。何も分からない。

 私は再び紙に目を落とす。

「…Rp.3 マイスリー錠5mg 1T 分1、就寝前服用 28日分…」

 文字列はやはり意味を形成することなく頭の中を上滑りしていく。この世界の色々な難しい事柄について、何も教えてはくれない。それでも、この紙から分かることが少しだけある。あの場所は幻ではなく、都会の喧騒からブラインド一枚だけ隔てた向こう側に、確かに存在するということ。良く晴れた土曜の昼下がり、あの狭い空間の中に、静かにひしめき合う人達が確かにいたこと。街行く人はもちろん、私や彼らと日常的に接する人ですら、多くはそのことを知らない。それでも、あの時あの場所にいた私達だけは、互いにそのことを知っている。

  街は次第に夕暮れに差し掛かっている。私は処方箋を鞄にしまいながら、家路を急ぐ。