ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)です。

自己啓発本に意味はあるか ―カーネギーの著作を全部読んで思ったこと―

きっかけ

 私は自己啓発本やビジネス書の類が大嫌いな人間で、それらを一切読んで来なかった。もっと言えば、そういった書物を鵜呑みにする人を「自分の頭で物事を考えられない、自我が無い人」と半ば見下していた。

 ところが最近、とても仕事のできる同僚がかなり熱心に自己啓発本を読み漁っているということを知った。もしその同僚の有能さの一部でも自己啓発本の功績だとしたら、私はそれらを食わず嫌いするだけで良いのだろうか。彼らがどういう考え方をしているかくらい触れておいても損は無いだろう。

 とは言え、世の中には膨大な数の自己啓発本があり、今も出版され続けているため、全部読むのはとても無理だ。そこで、自己啓発の元祖と言われているD・カーネギーの著作を一通り読むことにした。「全ての自己啓発本はカーネギーの焼き直し」という話もよく聞く。これが事実なら、カーネギーを読めば大半の自己啓発本に通底する考え方を掴めることになる。

当たり前のことしか書いてない

 カーネギーの全著作を読み終えての率直な第一印象は「当たり前のことしか書いてないな」だった。カーネギーの教えの一部を下記に列挙してみる。読み飛ばして頂いても構わない。

  • 相手に同情を寄せよう
  • 相手をまず褒める(特に相手を詰める前は)
  • 相手との共通点を探す
  • まず自分の誤りを話した後相手に注意する
  • 命令をせず、意見を求める
  • お世辞ではなく、小さくても具体的な事実に基づいて相手を褒める
  • 相手に感謝を求めない
  • 人を動かす必要があるなら、相手の身になって相手の利益を考える
  • 強がりでも自信があるように振舞えばいつか本物の自信がつく
  • 今日一日に集中する
  • 不安の治療法は、何か前向きなことに完全に集中することだ。行動あるのみ。
  • 人生は短いので小さなことを気にするな
  • 心配や不安は九割杞憂に終わるので楽観的になれ
  • 変えられないものを変えようとせず、変えられるものに集中せよ
  • 持っているもののことを考え、持っていないもののことばかり考えるな
  • 憂鬱を追い払うには他人を喜ばせろ

 確かに、間違ったことは何も書いてないと思う。これらが実行できれば、社会的成功が保障されるとはいかないまでも、その確率が高まるであろうことは感覚的に分かる。私は、自己啓発本にはもっと怪しいおまじないみたいな事ばかり書かれていると思っていたので、予想以上にもっともらしい事が書かれていて驚いた。

 ただ、「それができれば苦労しねえよ、できないから苦しんでんだよこっちは」という感想も同時に持った。カーネギーが言っている事というのは、野球に喩えると「毎日筋トレや素振りを限界でやり込めば、バットをボールに当てやすくなり、また打球を遠くまで飛ばしやすくなります。バットをボールに当て、ボールを遠くまで飛ばすと、ホームランを打つことができます。」というようなものだ。言うのも簡単だし、頭で理解するのも簡単、だが実行するのは至難の業である。自分のキャパシティに照らしてカーネギーの教えをどの程度なら実践できるのか、教えをどのように自分の生活の中に落とし込み習慣化し実践していくのか、自分の性格・能力・価値観との折り合いをどう付けるか、これらの問いには決まった答えなど無い。人間は一人一人違うからだ。個々人が自力で考え、自分なりの正解を見つけるしかない。それは自分以外の誰にも(カーネギーでさえも)分からない領域である。そこに向き合えない人は、自己啓発本を何千冊読んだところで行動に繋がることは無く、従って全くの無意味だろう*1

 意識付けとしての意義、宗教との類似

 以上から考えるに、自己啓発本の最大の意義は「成功のためのハウツーを示す」ことではなく「行動への意識付け」にあるのではないだろうか。

 もう少し分かりやすく言うと、「こういうことをやると良い」ということは皆自己啓発本など読まずとも心の中ではちゃんと分っている。分かっているのになかなかできない。そのできない理由のうちの一つである「心理的コスト」を下げるのが自己啓発本の働きである。「これをやると良いのは分かってるけど面倒臭いし恥ずかしいなあ……でも成功したカーネギーさんもこれをやれって言ってるからやるかあ」といった具合だ。つまり自分の意志の力だけでは実行できないことについて、「カーネギーの教えに従う」という形に意思決定を単純化・機械化・自動化することで、より少ない意志力で実行できるようにしているのだ。

 よく言われる事だが、この自己啓発本のはたらきは宗教によく似ている。つまり、外部の権威に命令してもらう形を取ることで意思決定にかかる思考コストをアウトソースし、善行をするまでのハードルを下げるのだ。実際、カーネギーは著書「道は開ける」の中で信仰や祈りの重要さについてかなりの紙幅を割いている。自己啓発と宗教が切っても切り離せない関係にあることは心に留めておくべきだろう。

信仰と理性の狭間で

 そして、この宗教性こそ、かつての私も含めた多くの自己啓発批判者が問題視する点であり、自己啓発に親和的な人と最も鋭く意見が対立する部分である。

 カーネギーとは少し離れた具体例になるが、昔「水からの伝言」という本の中の「水に『ありがとう』等の綺麗な言葉をかけ続けると綺麗な結晶になり、汚い言葉をかけ続けると歪な結晶になる」という旨の主張が問題になったことがあった。当然、この主張は何ら科学的・合理的な根拠を持たない荒唐無稽なものであり、批判者の言い分は完全に正しい。

 だが一方で、次のような反論もできる。「水からの伝言」で主張されているのは、思いやりの心や綺麗な言葉を使うことの重要性であり、それ自体は誰も否定できないはずだ。大事なのは人々が振る舞いをそのように改善するという結果であって、その動機付けとなる根拠は、各個人がしっくり来るものであれば何であれ(たとえ明確な誤りであったとしても)問題ない。そもそも我々人間には能力的、時間的制約があるから、全てのことについて正しく認識し合理的に意思決定できる者など一人もいない。合理主義者を自認する人も含め、皆が多かれ少なかれ勘違いや誤った(または根拠の無い)信念に基づいて生きていることを受け入れよう。その上で、我々の人生をより良く豊かなものにする嘘であれば、積極的に活用していこうではないか。

 この「良い行動をもたらす信念であればその根拠の正当性を問わずに内面化しても問題ない。むしろその方が人生が豊かになる。」という主張に対して、私個人としてはまだ明確な答えを出せていない。この主張に賛同できるかどうかが自己啓発本に対する態度を決める分水嶺になるような気がする。

 確かに、間違ったことを公教育で教えるのは問題だ。では、個々人の信条としてならどうか。「水からの伝言」に感銘を受けて前向きに生きている人に「それは何の科学的根拠もない大嘘ですよ。」と教えるのが本当に良いことなのか。もっと言えば、カーネギーの教えを前向きに実践している人に対して「それはあくまで、あなたとは生きた時代も能力も違うカーネギーという一個人の、サンプル数1の、固有の体験を、主観に基づいて法則として記述したものに過ぎませんよ。だから何ら一般化、普遍化できるものではありませんよ。」と正論を述べる事は相手のためになるのか。分からない。何も分からない。正しさを追求するには人生はあまりにも短い。

 最後に、孫引きにはなるが、「道は開ける」の中で引用されている警句*2を紹介して、本稿を締めくくりたい。自己啓発本の思想はこの一言で言い尽くされる。

 

人間は、人生を理解するためではなく、生きるために作られている

ージョージ・サンタヤーナー

 

*1:努力しているかのように錯覚させる気休めの効果はあるかもしれない。

*2:D・カーネギー「道は開ける」東条健一訳, 新潮社 p.245