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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

自伝⑤ぼっち編(大学時代)

 私の大学時代を一言で総括すると、与えられたモラトリアムの中で自分のしたいことを探し求め、ついに見つけることができなかった過程と言うことができる。

 大学入学当初の私はやる気に満ち溢れていた。大学で人脈を作りまくって脱オタしてリア充になるぞ。そこで参加できそうなありとあらゆる集まりに参加した。ところが対人経験の乏しい私はどの集団にも全く馴染めなかった。そもそも、集団では自分がいつ発言して良いのかすら分からなかった。自分が発言することによって会話の流れを止めてしまうことが怖くて、ただ曖昧な笑顔を浮かべて頷いているうちに終わってしまう。周りの人達も何となく私のことを扱いかねている感じがして、いつも消えてしまいたいという思いに駆られていた。重度障害者という見た目が引き起こす心理的バリアや、今から考えると発達障害の影響もあったかもしれない。とにかくそんな状況では何も楽しくないので、自然と集団からは足が遠のき、リア充化計画は早々に放棄することになった。

 私はもう少し馴染みやすそうな環境として、ボードゲームサークルに入った。ここはとても良かった。オタクばかりで馴染みやすかったし、障害のある私にも皆優しかった。だが、私はゲームをうまくプレイできなかった。周囲と同じペースでやろうとするとゲームを壊すような大チョンボを連発し、まともにプレイしようと思うと周囲の三倍ぐらい長考して場の流れを止めた。この原因が私の天性の頭の回転の悪さなのか、マルチタスクができないという発達特性なのか分からないが、とにかく皆に申し訳ないという気持ちばかりが募った。気付けばこのサークルにも行かなくなっていった。

 このように私の大学生活前半は極めて空虚であった。大学生活とはある意味「自由の刑」に処されているようなもので、自分は何がしたいのかということに嫌でも向き合わされる。これはやりたいことがない者にとっては結構辛い。私はその辛さから逃れるため、「私のやりたいことは、世界征服です。」などと妄言を吐きつつ、大学では目一杯取れるだけ単位を取り、家に帰ればアニメを見るという生活を送った。要は考えることを先延ばしにしたのである。そうこうしているうちに大学1,2年生はあっという間に終了した。

 3年になると公務員試験対策やゼミ、インターンシップなどで忙しくなり、自らのアイデンティティについて思い悩むような時間もなくなった。就活経験については下記の二つのエントリをご参照頂きたい。

double-techou.hatenablog.com

double-techou.hatenablog.com

  ここで、ゼミでのことを話しておこうと思う。ゼミには三年生と四年生が所属し、これを三年生四年生混合の4~5人の班に分ける。班ごとに一年に一本の論文の完成を目指して、研究や毎週の経過報告、インゼミ発表等に協力して取り組む。私は自分の興味のある研究分野でゼミを選んだのだが、先輩も同期もあまりやる気がなかった。私は事あるごとに「ちゃんとやるべきだ」と主張していたため、元々のコミュ障ぶりも相まってゼミでは相当浮くことになった。

 当時の私を象徴するエピソードがある。私達が三年生から四年生に上がる際、ゼミへの新入を希望する新三年生が定員を超えていたため、現ゼミ生による面接を行い、その結果で新ゼミ生を選抜することになった。私は頼まれてもいないのに無駄な責任感からこの面接に全て参加した。面接の仕組みは、面接者が個々の候補者を1~10点で評価し、その合計点が高いものから合格させるというものだった。私には確固とした評価基準があった。それは「態度などいくらでも取り繕える。本当にやる気があるかどうかは、このゼミの分野の本を読んだことがあるか、またその内容をきちんと説明できるかを見れば分かる。やる気があるなら当然それくらいの勉強はしているはずだ。」というものであった。そのため、これを満たす人には10点、そうでない人には1点を付けた。ところが蓋を開けてみると私のように極端な点数を付けた面接者は殆どおらず、皆6~8点くらいで評価し殆ど候補者間に差を付けていなかった。結果として、私の評価が合否に直結する結果となってしまった。ゼミ長は困惑し、私に「君の評価の影響が強すぎるから、評価点は面接者ごとに標準偏差で割ることにしたい。」と言ってきた。私は「そんなのはおかしい。それなら初めからそう言っておくべきだ。僕も他の面接者も点数をそのまま反映するという条件を踏まえて点数を付けたのだから、今更それを覆すことは恣意的操作と言われても仕方ない。」と強硬に主張した。もちろん、私も間違ったことは言ってない。ただ、一事が万事そんな調子だったから、それは煙たがれるよなあとも今では思う。

  インターンシップは三つ程経験したが、自民党の政治家の下でのインターンシップがとりわけ面白く、印象に残っている。これについては下記エントリをご参照頂きたい。

double-techou.hatenablog.com

 こうして振り返ってみると、私が大学で得たものを一言で表すのは難しい。友達は一人もできなかったし、専攻した学問の内容は殆ど忘れてしまったし、今の仕事だって大卒が要件になっているわけでもない。強いて言うなら、自由な時間を大量に与えられることで「自分は特にしたいこともなく、自由を与えられても自発的には何もできない無の人間である」ということを強制的に分からされたことが、今の一番の財産になっている。