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ダブル手帳の障害者読み物

身体障害1級(脳性麻痺)・精神障害3級(発達障害)。文春オンラインなどに執筆しているライターです。多くのヘルパーさんのお陰で、一人暮らしも気付けば10年を超えました。

自伝②決別・オタク・排泄編(中学生時代)

 前回(下記記事)からの続きである。

 

double-techou.hatenablog.com

 中学校に上がってから劇的に人生がマシになった。

 まず、異常な介助員から解放されたことが大きい。また、電動車椅子に乗っても良い年齢となり、自力で移動ができるようになった。移動の際にいちいち人に頼まなくても良いというのは健常者にとっては当たり前のことかもしれないが、当時の私にとっては革命に等しい出来事だった。この時初めて自我が芽生えたと言っても過言ではない。これらのことによってだんだんと学校が楽しくなってきた。中学1,2年の時は週2日しか学校に行かせてもらえなかったのだが、もっと学校に行きたい、普通の学生生活を送りたいと思うようになった。しかしそれが父との決定的な対立を招くことになった。ある時、父は私に対する一切の関与を放棄し、私を存在しないものとして扱うようになった。当然口も利かない。これはその後4年程続くことになる。異常な状態ではあったが、私は晴れて父の与える「訓練」や「課題」から解放されることになった。徐々に中学校に通う日数を増やしていき、中3の終わり頃には皆と同じように週5日通うことができるようになった。

 中学時代の大きな変化は3つある。まず1つ目。中学校では、普通に過ごしていても罵倒されるどころか、勉強ができる奴ということでむしろ褒められるようになった。これは、家や小学校ではいくら頑張っても決して褒められることがなかった私には衝撃的な体験だった。そうして褒められることの嬉しさを知った私は、自然と学校の勉強にのめり込むようになった。

 2つ目は、オタクになったことだった。当時東京の大学に通っていた姉が帰省時にパソコンで「創聖のアクエリオン」「みくみくにしてあげる」等の曲を得意げに聴いていた。私には全く耳慣れない音楽だったので、それは一体何かと尋ねると、ニコニコ動画という最先端のサイトで流行っている最先端の音楽なのだという。やはり東京の文化というのは凄いと思った。そうしたわけで私は少しずつニコニコ動画の「ドナルドMAD」「全自動卵割り器」「山田ボイス」といったネタ動画を見るようになった。だがこの時点ではオタクでは無かったし、そういう一群があることも知らなかった。決定的なきっかけは、「らき☆すた」を全話視聴したことだった。そこから一瞬で脳が狂い、泉こなたのことを本気で好きになった。そこからは坂道を転げ落ちるようにオタクになっていった。

 当時のニコ厨のご多分に漏れず、この時の私はオタクであることにアイデンティティーを見出す相当に痛い自意識を持つようになった。教室でいきなり東方アレンジを大声で歌って周囲をドン引きさせたこともある。だが、いつも孤独だった私にとって、画面の向こうの名も知れぬ同胞たちと繋がっているという感覚は何よりも心を高揚させた。また、特殊な環境で育った私に人間の感情の機微や一般常識を教えてくれたのもオタクコンテンツだったのだ。オタク文化に出会わなかったら、自殺するか感情のない殺人マシーンになっていたのではないかと本気で思う。

 3つ目は、排泄を自力で行えるようになったことである。普通学校(特別支援学校以外の学校を便宜上そう呼ぶ)では、小中学校までは介助員が付くが高校では付かない。従って、自力で排泄できない限り普通の高校に行くことはできない。私は作業療法士の助けを借りて死に物狂いで猛特訓し、排泄を自分のものとした。これは高校進学に役立っただけでなく、その後の人生の選択肢を大きく広げることになった。もし「あなたが身に付けた技能や資格で一番役に立ったものを挙げろ」と言われたら、TOEICでも、簿記でも、大学の学位でもなく、迷いなく「排泄」を挙げる。実際私の友人は自力で排泄ができないために就活で全敗してしまった。障害者にとってそれほど排泄は死活問題なのだ。

 このように基本的に良いことが多かったが、悪いこともあった。中1のある時期から強迫神経症のような症状に苛まれるようになったことである。「人間が皆吸血鬼になってしまうのではないか」「自分はエイズなのではないか」「逮捕されるのではないか」というような、客観的に見れば荒唐無稽な不安に囚われて抜け出せなくなるのである。これは今年心療内科で本格的にカウンセリングを受けるまで長年にわたって続いた。なぜこうした症状が幼年期ではなく生活が改善したこの時期に現れたのかは、専門家ではないので分からない。